第16話別れを偲ぶ空の便

 俺は急遽仕事を休み、最寄りの空港のロビーでエリカさんを待ち伏せていた。

 記憶の通りだと、航空券の日付は今日だ。朝のアメリカ行きの始発が出る前から、ロビーに入ってくる人が見張れるベンチに腰を落ち着けている。

 時刻は正午を過ぎていた。

 エリカさんは早い時刻の航空便で発つのだと決め込んでいたが、憶測は外れたようだ。

 空港のロビーは仕事のある平日だからか、大型連休にテレビニュースで流されるような混雑さはない。

 エリカさんを見つけやすいので、俺には好都合だ。

 だからと言って、常に目を光らせていないと団体客の中に紛れこんでいるかも知れないので気は抜けない。

 空港のロビーを長く観察したことがないから気が付かなかったが、人それぞれの生活がおのずと見えてくる。

 派手に着飾っている若い女性、スーツを着たサラリーマン、それを出迎える妻、数人でけらけら談笑しながら慣れない空港で笑い飛ばしている老人連れ、孤影漂う芸術家らしき風貌の人、など様々だ。この中にも人生の転換期が訪れている人がいるのだろう。

 気障ったらしい脳内の思考にふう、と一息吐いてみた。

 エリカさんが現れるまでの辛抱だ。

 ロビーに入ってくる人を眺めている視界が、突然暗転した。

 背中に妙に柔らかい感触がある。

 俺は振り返らず、無抵抗の体で手を挙げた。


「だ~れでしょう?」


 愉快そうだが慈しみを含んだ女性の声。

 久しいが俺には聞き間違いようのない、耳慣れた声だ。

 俺は答えを口にした。


「母さん、手を退けてくれ。前が見えない」

「はい、退けたわ」


 視界がもとに戻った。が、背中の感触は消えない。


「身体も退けてくれ」

「せっか会えたのに、りくとを直に感じちゃだめなの?」

「正直言うと、重いから」


 母は素早い動きで後方に逃れる。

 俺は鬱陶しそうな視線を向けた。


「なんで母さんがいるんだ?」

「りくとこそ、空港で何してるのよ?」


 ボストンバッグを床に置いている半袖ブラウスに革のベルトの母は、不思議そうに俺を見た。


「人が来るのを待ってるんだ」


 人名は明かさず答えた。

 母は訝る。


「仕事休んでまで?」

「相手は事務所にとって重要な人なんだ。すっぽかすわけにはいかないよ」

「え、りくとがここにいるのってお仕事?」

「仕事の一部ではあるな」


 俺の意味深長な返答に母は首を傾げたが、まあいいわ、と疑るのをやめた。


「それでその人って、どんな人」

「どんな人か、職種はグラドルだけど」

「なんでグラドルとりくとが空港で待ち合わせるのよ。もしかしてハネムーン旅行かしら?」

「断固として否定するとして、母さんはなんで空港にいるんだ?」


 よく聞いてくれた、とでもいうニコニコ顔だった。


「まことさんに内緒でハワイ旅行に行ってきました」

「意外だな、母さんが父さんに隠れて旅行なんて」

「二泊三日よ。まことさんが社員旅行の間に、こっそりとね」


 ぺろりと舌を出し、おちゃらけてみせる。

 変わってねえな。


「りつなとは仲良くしてる? 家が近いからって深夜に二人でやっちゃだめよ」


 母はさらりと話題を換える。

 俺はすぐさま切り返す。


「近親相姦じゃねーか。冗談ってことは知ってるが絶対しないと誓って言うからな」

「あら、残念ね。成り行きでやっちゃうと思ってたんだけど」

「そういう下世話な話題はやめだ」


 性関係の話はうんざりなので、いらいらと俺は言ってやった。

 つれないわ、と母は唇を不満げに突き出した。

 怠りなくロビーを歩く人のまばらな流れに目を移す。

 喉から驚きの声が漏れるかと思った。


「エリカさん」

「うん、なあにりくと?」


 俺はまばらな流れの中の一人目掛けて、衝動的に駆け寄った。

 俺の家に訪れた時と似た服装で、前つばのキャップ帽で髪を後ろで結わえている。

 

「りくと? どうしたのりくと?」


 母の声をBGMに、網膜に映るエリカさんが駆け寄る俺に気付き驚愕に目を見開いている。

 あきらかに困惑し、エリカさんは足が動かなくなっている。

 驚愕から立ち直り再び歩き始めようとしたエリカさんを、俺は彼女の肩を掴み強引に引き留める。

 エリカさんは身を強く捻り、肩から俺の手を振り切った。

 が、負けじと俺は彼女の肩を掴み直した。


「待ってくださいよ」


 エリカさんが振り向く。その瞳に初めて会った時とは内にある怯えの色が違った。

 エリカさんの口がわなわなと震えつつも、言葉を発する。


「どうして、あなたが私の目の前にいるの?」

「どうしてって、話し合いがまだ終わってないからです」

「終わった! 帰って!」


 エリカさんが発したとは思えない、心臓に痛切に響く叫びだった。

 彼女の肩を掴んでた俺の手が、叫びが伝わったように痙攣して離れた。

 勇を鼓したのか、単なる無意識なのか、俺の手はエリカさんの肩に今度はそっと添わって帰着していた。

 その手を離す考えは、頭に上っていなかった。


「待ってくださいよ。俺の答えを聞いてください」

「それはもう昨日聞いた。二回も聞きたくない」

「俺がいつ、エリカさんのマネージャーにならないなんて言いました?」

「あなたは自分で決断しようとしなかった。妹に訊いてもいいですかって、あなたは自分の意思で決断しなかった。妹さんじゃなくて、あなたの意思で決断してほしかった」


 エリカさんの瞳から一筋涙がこぼれた。 濡れた瞳から怯えが消えて、真っ直ぐ俺に向いていた。

 俺の口が、ここで待っていた理由を明かしたくて勝手に動いていた。


「俺は昨日帰った後考えました。一人で。そうしたら、俺自身はエリカさんのマネージャーになることを少したりとも拒んでいない。全部妹に委ねた意見をしていただけなんだ。だから妹の意思に左右されずに自分で決断してきました」


 スーツの内側にもう片方の手を入れ、折り畳んである紙を取り出して広げた。それをエリカさんの目に見える位置に掲げた。

 俺が取り出した紙は、突き返された契約書だ。俺の名で捺印をしてある。

 

「いいの……」


 エリカさんが涙混じりの絞り出した声で言った。

 はい、と頷いた何故か俺まで涙をもらいそうだった。


「正しい判断だと思うわよ」


 背後で普段は聞かれない知性ある母の声がした。俺は母を振り返る。

 母は見越した得たり顔で微笑んだ。


「兄妹仲が良いのは親からしたら嬉しいけど、仕事まで一緒になることはないわ。身内ばかりと関わっていても、りくともりつなも立派な大人になれないもの」

「この人、誰?」


 エリカさんが物問いたげに俺に訊いた。

 問いに苦笑いで返す。


「俺の母親だよ。空港でたまたま会ったんだ」

「あなたの母親、若くて綺麗でそうは見えなかった」


 あらあら若くて綺麗なんて上手いこと言うわね、などと頬に手を当てご満悦、知性ある母親の気配はどこかに消え去った。


「それにしても、りくとはいつまでその体勢でいるの?」


 愉快そうで意地の悪い笑みで、母がそんなことを訊いてくる。

 その体勢とは?


「肩、手」


 エリカさんが身体の部位を口にする。俺ははっとしてようやくエリカさんの肩から手を退けた。


「すいません」

「べつにいい」


 半笑いでエリカさんに謝ると、彼女が頬を赤くしている気がした。多分、見間違いだ。

 

 


 





 

 








 

 

 

 


 

 

 

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