第15話お騒がせ契約書と航空券

 夏風邪もすっかり癒え、月曜日。

 妹のマネージャーとして一日仕事をこなし、先に車で待つ妹に遅れて事務所を後にしようとした時だった。


「ああ待ってえええ、木下マネージャー」


 エレベーターの前に立った俺に、スーツに皴を作ってまで社長がひどく慌てた様子で廊下の向こうから走って来た。

 ぜえぜえと息を切らして、木下マネージャーあなた何をしたの? と身に覚えのない追及をしてくる。


「どうしたんですか、俺何かヘマしました?」

「違うわ、違うわ、ぜええぜええ、事情を話すから今すぐ社長室に来てくれるかしら」

「急ぎの仕事ですか」


 俺は疑問を禁じ得ない。

 とりあえず事情を聞こう。

 動揺を隠しきれない社長の後について、社長室に入った。


「木下マネージャー、あれを見て」


 末次社長はガラステーブルをあってはならないものを示すかのように指さす。

 ガラステーブルには、一枚の紙が。近づいて見てみる。

 紙にはWord文字で契約書と書かれており、社長がこれに動揺するわけがわからない。


「契約者の名前を見て」


 下へと目を這わせて、契約者名の欄に書かれた名前に覚えがあった。

 エリカ・ジョンソン。秀麗な筆致で認めてあった。


「そして、その条件であなたにわけを訊きたいのよ」


 追加契約条件の欄に、エリカ・ジョンソンと同じ筆使いで何か書かれてある。

 眼球が飛び出るかと思った。

 追加条件に欄からはみ出そうに、マネージャー木下陸人絶対条件と大書してあった。


「どういうことです?」


 社長に尋ねると、私が聞きたいわ! と叫んだ。

 だが俺も知らない。


「エリカさん本人に聞くのが早いんじゃ」

「さっき突然部屋に入ってきてテーブルに紙だけ置いて、その条件がのめないなら、グラビアやめる。eスポーツしてる方が楽しい、とか言って帰っちゃった。何よ、eスポーツって」


 よくは知らんが、eスポーツってあれか世界大会まで開かれる特定のゲームで争うスポーツだろ。


「木下マネージャー、あなた次第よ。グラビア界の宝石になれる子を私は手放したくないの、お願い話をつけてきて」

「わかりました、後で電話で聞いてみます」

「頼んだわよ」


 紙を俺の胸に押し付けて、社長は言った。

 妹を待たせているので、俺は紙を鞄に仕舞いながら社長室を出た。

 


 俺が他のグラドルの話をすると機嫌を悪くする妹に相談するわけにもいかず、自宅に戻って疲れた脳に利くインスタントのコーヒーをベッドの端ですすりながら、どう話をつけようかと思案していた。

 なんでエリカさんは、俺を担当のマネージャーしたいんだ?

 エリカさんの胸の内を推量できれば、説得がし易いのだが。エリカさんと言う人は、まるきり考えの読めない人なのだ。

 しかも俺がエリカさんの要求を受け入れた場合、妹と二人持ちになってしまう。妹だけでも忙しいのにとてもじゃないが、身体が持たない。

 妹に譲歩というか、俺以外の別のマネージャーを仕立てられれば、事は簡単に収束できそうだが。妹がそれを許すだろうか?

 ベッドに投げ出していた、スマホが細かく揺れた。

 画面に出る名前を見ると、相手はエリカさんだった。

 俺は訊くべきことを訊こうと電話に出た。


『もしもし』

『話がある、今からうちに来て』

『もしかして契約書……』


 切られた。

 二杯目だったコーヒーの入ったコップは、中がまだ少し残っている。

 それを腹をくくる気持ちで顎を上げ口に流し込んで、俺は立ち上がった。

 紙を入れた鞄は忘れず、手に持った。



 車をエリカさんが入居しているアパートの駐車場に停めると、外階段を駆け上がった。

 エリカさんの部屋のドアをノックする。

 ドアは内側から開けられた。


「やっぱり来た」


 薄手のTシャツ姿で、エリカさんが立っていた。


「もうわかってると思う」

「契約書のことですよね」


 エリカさんは首だけで頷いた。

 少し身体を捻り、薄暗い室内のちゃぶ台を指さす。


「座って」


 俺は返事をせず、ちゃぶ台の傍に正座した。

 エリカさんが真向かいに正座で腰を下ろす。

 見合って言葉を待った。


「これ、何かわかる?」


 静かに話し始め、エリカさんはちゃぶ台の上にチケットの形をした紙を置いた。

 置いた紙は航空券だった。それもアメリカ行き。


「この意味がわかる?」

「なんとなくは……でもなんでですか?」


 エリカさんは航空券に続き、朱肉を隣に並べて置いた。航空券にしなやかな手を被せる。


「あなたは契約書、持ってきた?」

「話があるって言ったんで、持ってきましたよ」

「並べて置いて」


 エリカさんの短く切る台詞に、どんな想いが隠れているのか。その目を見ても、感じ取れない。

 俺は鞄から契約書をちゃぶ台の上に載せた。


「後はあなたが選ぶだけ」

「何をです?」

「気付いてるのに、聞くの?」

「俺が契約を容認するか、拒否するか、そういうことでしょう?」


 また首だけで頷いた。

 俺は訊きたかったことを切り出す。


「なんで俺なんです、他の人じゃダメなんですか?」


 わざと返答を慎むように、またしても首だけで頷いた。

 

「俺、妹のマネージャーなんです」


 説得には、俺がどんな位置のマネージャーなのかエリカさんに明かす必要があるように思った。


「エリカさんと同じグラビアアイドルです。俺はあいつのためのマネージャーなので、あいつの意思に反してまで鞍替えするわけにはいかないんです。どうかわかってください」

「……わかりたくない」


 エリカさんの目が、俺に縋ってきていた。

 その目を少し潤ませる。


「あなたには迷惑かけない、マネージャーの仕事も任せきりしない、ただ支えていてほしいだけ、あなたの妹さんと兼ね合いでいいから」

「そんな哀願するような顔しないでください。まるで断るのが悪いことなっちょうじゃないですか」


 エリカさんは肩をすぼめて俯いた。俺も顔を逸らした。

 どうにも気まずかった。俺は女性から、告白または告白じみた懇請を受けたことがなかった。事務的な断り方ではない、俺の心の内を伝える断り方でないと、いけいない気がする。さらに傷つけてもいけない。

 俺が断ったら、エリカさんは悲しむのだろうか?


「エリカさん」

「……なに」


 伏せていた顔を上げずに、応じた。

 俺の意思でもない、エリカさんの意思でもない、提案をする。


「妹に訊いてみていいですか?」

「…………荷物まとめたいから、帰って」

「ちょっと待ってください。妹さえ説得できれば、エリカさんの希望にも応えられますよ」

「もともと私の我が儘だから、諦める。あなたはもう気にしなくていい。明日も仕事ある、帰った方がいい」


 エリカさんはどこか強引に微笑んだ。

 契約書だけ突き返され、俺はあえて振り向かず部屋を出た。


 

 

 




 






  

 


 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る