第7話ダイエット事変(チョコレート)
仕事帰り、妹をマンションまで送り届けた後すぐにエリカさんのアパートまで車を急がせた。
インターホンに指を伸ばした時、ドアの内側から聞こえた声で先客がいることに気づいた。
かといって俺の方も約束があるわけで、引き返さずにインターホンを押した。
時間通りね、などどインターホンの音がしてすぐにたるむような女性の声が聞こえて、足音が近づいてくる。
ドアが開かれた瞬間、自分の目を疑った。
「こんばんわ、りくくん。お姉さんが先回りしちゃった」
「人違いです、りくくんなんて人は知りません」
真顔で俺が知らんふりを決め込むと、森野さんの背後から控えめにエリカさんが顔を出した。
俺に救いを求める瞳で、
「押しかけられた、助けて」
「なによー、エリカちゃん。先輩の私が落し物を届けてあげたのに、りくくんが来るなり先輩は邪魔者扱い?」
ふざけ半分で森野さんはひどいわー、と唇を突き出した。
落し物? 昨日のことだろうか。
俺が尋ねるより先に、森野さんが意地悪い笑みで言う。
「あのね、りくくん。エリカちゃんったら原因を落し物してたのよ」
「はあ?」
「その落とし物ってね……うぷっ」
「言わないで」
無表情でエリカさんが、森野さんの達者な口を両手で覆って塞いだ。
もごもごと森野さんは声にならない呻き声を数回漏らした後、肩を落として呻き声を止めた。
森野さんの方がエリカさんより干支が一回り上のはずなんだけどなぁ。
「麗華、帰らせる」
「そこまでしなくても、エリカさん」
エリカさんは横に首を振り、
「辱しめを受けた、耐えられない」
何回か会話していて気づいたのだが、エリカさんはあまり感情を表に出す人ではないらしい。今も辱しめとは言っているが、表情が読み取れないのでどんな辱しめかは想像もできない。
まあ、別に気にしないけど。
エリカさんは森野さんを引っ立てて玄関を出てきて外階段を降りると、夜の路地へ連れ出して姿が見えなくなった。
しばらくして何事もなかったかのように一人で戻ってくると、ドアを開けて待ち呆けていた俺に言った。
「あがって」
「……えっ」
俺の狼狽えなど気にかけず、エリカさんは部屋に入っていった。
躊躇いを覚えながらも、足を踏み入れた。
エリカさん一人が暮らすので手狭な畳敷きの掃除の行き届いた一間が主で、押入れはたぶん十数着でいっぱいになるぐらいで、身動きとれないような台所があり、きっとトイレや風呂場も身体が縮んでしまいそうな窮屈さであろう。妹が見たら即決で入居拒否だな。
「今日の夕食、これ」
失礼にも部屋を見回している俺に、エリカさんをちゃぶ台を指し示す。
ちゃぶ台の上には小ぶりの片手鍋。インスタントラーメンの残りかすが底に転がっていた。
俺は呆れて、額に手を当てた。
「インスタントラーメンってね、いけませんよ。食生活から改めないと」
「手間がかかる料理を作ってる時間があるなら、一戦でも多くマッチする。格ゲーはやりこみが大事」
悪びれもせず淡々と格ゲーの上達のコツを述べた。
この人、ダイエットより格ゲーが優先らしい。
「エリカさん、昨日は何を食べました?」
「ラーメン。とんこつ味」
「味は聞いてませんよ。一昨日は?」
「ラーメン。唐辛子サーモンマヨネーズ味」
「もはや味の想像ができねぇよ」
唐辛子サーモンマヨネーズ味などという、ゲテモノのインスタントラーメンがあるとは。世の中、知らないことがたくさんある。
変わり種ラーメンのことはさておき、まずは食生活の改善が第一だ。
俺は提案する。
「エリカさん、痩せたいならとりあえず栄養バランスのいい食事をしましょう」
「それだけ?」
俗に言うダイエットとはかけ離れた達成の容易な案に、エリカさんは意外そうに俺を見返す。
俺は厳しく見つめ返し首を振って、
「それだけじゃないです。食事をとる回数と間隔、それに時間帯。この三つの条件を踏まえて食事をとるようにしてください」
「……トレーナーみたい」
「事前に調べてきましたから」
「それで回数と間隔と時間帯は? どうすればいい?」
俺はズボンのポケットからメモ帳を取り出して、
メモ帳と同時にひらひらと身に覚えのない紙片が舞い落ちた。
紙片を拾おうと屈んで手を畳に下ろすと、エリカさんが凄まじい敏速さで紙片を拾い上げ目を見張った。
「これ、どこで拾った?」
「その紙ですか、記憶にないです……あっ」
ぼんやりと記憶の中でポケットから落ちた紙片を探すと、不意に昨日の出来事が思い出された。
その紙片、森野さんが電柱の近くで拾ったやつだ。
エリカさんが信じられないと言った顔で、紙片から目を上げた。
「なんであなたが持ってた?」
「昨日、近くの電柱で拾ったんです。まずかったですか?」
笑顔でエリカさんは首を横に振り、
「そんなことない。無くして困ってた」
「そうですか、ならいいんですけど。その紙に書いてある内容が理解できないんすが」
たしか右横、左斜め下、その後いくつか単語が続いていた気がする。
エリカさんは紙片を持って、部屋の隅のテレビに歩み寄った。そして、テレビの前にぽつんとしかしはっきり存在を示す最新の型のゲーム機が鎮座していた。
「この紙、格ゲーのコマンド」
「だから方向を示す文字が並んでたんですか」
「あなたゲームとか、よく、やる?」
すでにテレビの電源をつけていて、ゲーム機の前に脚を伸ばして座りアケコンでかちゃかちゃキャラを繰り始めた。
食事の改善について、前置きしか話せていない。
俺はゲームの邪魔にならないように、
「あのー、まだ話が終わってないです」
「話して」
見向きもせずおざなりに返す。
一方的な戦いぶりで、エリカさんの操るがちむちの破れ胴着に鉢巻の男性は、ほっそりした軽業師みたいな女性の体力ゲージを削っていく。
「あー、相手よわっ」
ついには画面から目を離して俺に振り向いた状態で操作していた。数秒の後、『K.О.』の文字が豪快に表示される。
「あーあー、糖分たりねー」
別人のようにはばからない大声で喚き、つと立ち上がると押し入れの下段からコンビニの袋を引き出してがさがさと漁り、筒状のチョコ菓子を蓋を爪で弾いて開けると、顎を上げて大口を開きチョコの粒を流し込んだ。
まるで巨大怪獣がビルの人を飲み込むみたいだ。
俺は見かねて、最重要ワードを入れて声をかける。
「エリカさん、チョコをがつがつ食べないでください、ダイエット中でしょう?」
ぐるんと『FIGHT』の文字が激烈に映ると同時に、エリカさんの首が俺の方に回った。
顔が真っ青になり、しかし段々と赤みを帯びると次には真っ赤に染まった。
コントローラーを投げ出し、俺の横を通って狭い台所に駆け寄った。
流しの縁を手でつかみ、食器ラックにあったガラスのコップに蛇口から水を注ぐと、一気に飲み干した。
コップを無造作にラックに伏せておくと、はあはあと息を継いで畳の上に力なく尻をついた。
顔を両手で覆い、おろおろ泣きむせび、
「また弱い心に負けた」
「チョコのバカ食いだったんですね、昨日言ってた弱い心って」
得てして糖質は太りやすい栄養素である。
エリカさんは片手をあげ、押入れを震える指で指し示した。
「チョコレート、全部、没収して」
「わかりました、エリカさん自身がそう言うなら従います」
俺は同意すると、床に落ちているのを含めて押入れからチョコ菓子の入った袋を手に持った。
「ありがと」
エリカさんは顔を上げないまま、俺に言った。
「それじゃあ帰りますね、エリカさん。明日の朝、約束の時間に来ます」
泣かれて、とてもいたたまれなかった。返事を待たず俺はエリカさんの部屋を後にした。
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