第6話ダイエット事変(早朝のランニング)

 昨日、エリカさんがアパートに着く前に森野さんと帰り道に就いた。

 一夜明けた今日、早い寝起きであくびのもれる状態で約束された午前五時に動きやすい上下トレーニングウェアでエリカさんの部屋の前まで来た。

 インターホンを押せば早いが、時間帯からして同マンションの他の住人の迷惑になると考えやめておいた。

 数分ほどして、開錠の音が聞こえて目の前のドアが開かれる。

 はじめに顔の半分だけを出して、眠そうな目でしばし俺を眺めるとドアを全開した。

 地味な寝間着の姿でドアを開けたエリカさんの反対の手には、ゲームのアーケードコントローラーを持っている。


「あと一時間待って、今ネット対戦中」


 朝会った開口一番、一時間待って発言である。やる気のやの字もない。

 俺は狙いを定めてコントローラーをひったくった。


「返して、返して」


 手を後ろに引いてコントローラーを遠ざけると、高いものを触ろうとする猫のように腕を伸ばしてきた。

 

「ランニングが終わるまで返さないです、エリカさんが時間を指定しておいて仕度すら整ってないじゃないですか」

「お願い、返して」

「このぽっちゃりゲーマーが。ゲームする前にやることくらいしろ」


 もちろん、本心ではない。俺自身は今のエリカさんでもダイエットするほど肉がついているとは思わない。身体のラインがわかりにくい服を着ているので正確な数値がわかれば、判断も下しやすいけど。

 エリカさんは俺の罵言に眠そうにしていた目をパッチリ開いた。


「わかった、ランニングする。ぽっちゃり脱却する」

「それでいいんです」

「着替えてくる」


 少ししてエリカさんは長袖と長ズボンのジャージに着替えて、俺の前に戻ってきた。

 両の拳を脇の辺で固めて、頑張って瘦せると宣言した。

 日が昇り始めたばかりの街中を、緩やかなペースで並んで走る。

 初夏の朝は爽やかとは程遠い。

 通気性の良いと服の俺と異なり、エリカさんは全身を包むジャージだ。エリカさんの額から首筋へ汗が一線伝い落ちる。


「疲れた、体が重い」

「それはまあ、体重が増えたからだと」

「これでも高校時代は陸上部だった」

「そのわりには早々息切れしてるじゃないですか」


 足の運びが遅れだし、エリカさんは電柱に手をついて屈んだ。

 俺の母親もそうだったが、なんで屈むんだろう。地面から瘦せる妖精が湧いているのだろうか?


「少し休む」

「足を止めちゃダメです。せめて歩きましょう。ほら」


 俺はエリカさんに手を差し伸べる。

 顔を上げ、意地悪とでも言いたげに俺を見て、のちに頷く。


「わかった、もうちょっと頑張る」

「その意気です、って待ってください」

 

 俺の手を借りて立ち上がると、ゆっくりだがエリカさんは走り出した。

 また俺も並んでジョギングを行った。



 ジョギングの終着点のアパート前まで戻ってくると、夕食の時間にまた来る旨を告げてエリカさんと別れ、俺はスーツを重ね着して急いで近くのコンビニまで行き車で妹の住むマンションの駐車場まで走らせた。

 妹が入り口から出てくるのを待っていると、不意に身体が揺れる感じがしてびくりと首をもたげた。

 ぬかった、寝てしまっていたらしい。

 辺りをあたふたと見回すと、淡い青のブラウスに膝丈の黒いフレアスカートの妹が助手席に座って顔を怪訝そうにしかめていた。

 そして、すっと無言で何かを差し出してくる。

 見ると、紙コップで茶黒いコーヒーが入っていた。


「コーヒー?」

「見ればわかるでしょ」

「内容物はわかるけど、これをどうしろっていうんだ?」

「……見ればわかるでしょ」


 何を質問しても見ればわかるでしょ、の一点張りだと悟って、俺は紙コップを受け取った。

 眠気も醒めるアイスコーヒーを何の気もなくすすっていると、妹がだしぬけに話題を引き出した。


「エンジンをつけたまま車の中で寝ちゃうなんて不用心だね。兄さんもしかして疲れてる?」

「どうなんだろうな、俺にもわからん」


 日の出わずかの時間から女性のランニングに付き合っていた、とは口が裂けてもいえまい。ぐちぐち悪口を呟かれるだけだ。

 しかし妹はいつにもなく申し訳なさそうに、とつとつ口にした。


「私のマネージャーを、やってて忙しさで、身体壊されても、困るから」

「俺はそんな弱くないつもりだ」

「疲れてるなら、私の仕事に関わらず、休んでいいんだよ?」

「心配すんな、そんなことより忘れ物ないか?」


 妹はちょっと気に入らない風で、口を尖らした。


「忘れ物する年齢じゃないもん。私は兄さんと一歳しか年の差ないんだよ」

「何歳になってもお前は俺の妹なんだよ」


 俺はドリンクホルダーに紙コップを置いた。

 そうだけどさー、と言い返したいような表情の妹を横目に、ハンドルを持ち仕事場へ向かった。




 


 



 


 


 




 




 

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