第31話  涙は鉄の味

ーーフワリ、フワリ。


空に一人浮いている。

その男、生物学上では人間だ。

だが背中に翼や羽はなく、見た目から浮遊している道理を見いだす事はできない。


ーーフワリ、フワリ。


まるで風船が、戯れに空を泳いでいるようだ。

いや、海中を悠然と泳ぐセイウチと例えるべきか。

縦にも横にも膨らんだ体が、服屋では3L以下には目もくれない彼が、当てもなく青空を漂う。



「なんだこれ。オレは死んじまったのかな」



彼には直前の記憶がない。

だが最期の居場所だけは予想がつく。

恐らく会社に違いない。

その確率は29/31程であり、休日はおろか自宅に帰る事すら稀であり、いっそオフィスを現住所としてしまいたい程である。



「死んだとしたら過労死になるのか? 労災とか降りんのかな? まぁ、どうでも良いけどねー」



暗黒の企業戦士からすれば、オフィス以外はどこでも楽園である。

唐突な転移、一見死後の世界のごとき光景すら、小旅行の要領で楽しむ事ができた。


ひとまず降下を試みる。

すると薄雲の向こう側に陸が見えた。

降りるほどにモヤは晴れ、やがて全景が視界に映る。

妙にいびつな逆三角形の島。

その形を見るなり、彼の脳に衝撃が走った。



「この形、嘘だろ……?」



遠目に見る王都、聖女神殿、邪神城。

見覚えがある、なんてレベルじゃない。

目の前に広がる世界は、彼が生み出したものである。

夢か幻か。

にわかには信じられない状況だが、真相の究明は彼にとって些細な事であった。



「つうことは、エルイーザたんも居るのか!? ウヘヘーーィッ!」



想い人に会えるか否か。

それが唯一にして最大の関心事だ。

指先を動かして、体の挙動を細部まで確認する。

どんな出来事にも対応できるように。

集中力も目一杯に高めておく。

彼女と会えたしたら、あらゆる記憶を魂に刻み込む為に。


いくらか不気味な準備運動が終わる頃には、地面がかなり近くなっていた。

心臓の鼓動が凄まじい。

血流の音がドクン、ドクンと聞こえるようだ。

逸る気持ちを隠しもせずに聖女神殿へと向かおうとするが、どうにも様子がおかしい。

馬車が数えきれないほど南へと走っており、何本もの長蛇の車列を生み出していた。

それは何か災害や戦火から逃れようとしている動きだった。



「おかしいな……こんなイベント、用意してないが」



どうにも胸騒ぎを覚えて、騒動の元へと向かう。

逃げているのはカバヤの住民だ。

空から様子をうかがうと、街中には少なくない人間が残っていた。

その大半は整然とならぶ騎士団だ。


さらに集団の先頭をに目をやると……。



「エルイーザ、エルイーザたんだ! どうしてこんな所に!?」



想定外の場所で女神を見かけたが、そんな事は些細である。

彼女の体温は、肌の質感は、柔らかさはどうなのか。

求める情報はそれだけだった。

逃げ惑うモブキャラなど、彼の体内で蠢く莫大な性欲が、瞬時にうやむやにしてしまった。



「グヘヘヘェ。揉める、揉めるぞォォ」



有りがたいことに、彼の五感は極めて鋭敏だった。

指先の感覚はもちろん、視・嗅・聴覚も正常、味覚さえも問題ない。

自分が理想とした女のすべてを味わう事ができる。

それがたとえ一夜の短い夢であっても、どうでも良いのだ。



「テメェら、死にたくなかったらアタシの後ろに隠れてな!」


「……え?」



観光気分、ゲスト感覚で訪れた創造主だが、あまりの殺伐とした気配に目を丸くする。

本来であれば起こり得ない、街中での戦闘。

全く想定にない女神による応戦。

そして何よりも、敵とおぼしき男の容貌。



「なんだよ、あんなバケモノ創ってねぇぞ!」



創造主の心に『アイツについて知りたい』との言葉が浮かび上がると、彼の目の前に半透明の画面が出現した。

人智を超えたテクノロジーにさえ目を瞑ったなら、彼がよく知るものだ。

起きている時間の9割方は利用している、親の顔より眺めてきた管理画面が表示されたのだ。



「……訳わかんねぇな、この世界。夢なのか死後なのか現実なのかハッキリしろよ」



ぼやきつつもタッチパネルを操作する要領で、画面を変遷させる。

いつもの場所を開こうとしたら、IDとパスワードを要求された。

これには創造主も舌打ちする。

彼は覚える派ではなく、PCのテキストファイルやメモ帳に記憶させるタイプだからだ。



「仕方ねぇ。ゲストアカウントで入るしかないか……」



辛うじて覚えていたIDで動かしていく。

各キャラクター画面をスクロールさせると、マリウスのデータが異常をおこしている事に気づく。

レベルや体力などステータス部分から、特質や性格の情報に至るまで、全てが記号の羅列だった。

そして、不規則な文字列の随所に盛り込まれた罵詈雑言。

どれもこれも心当たりが有りすぎる。

彼の社会人生活において『ありがとう』よりも遥かに言い慣れた、無数の愚痴であったからだ。



「何だってこんなもんが悪さしてるんだよ」



修正を試みたものの、肝心のデータ情報に触れることができない。

ゲストの権限では閲覧のみで、改編までは不可能なのだ。

そもそもどのように直せばいいかも検討がつかない。

いっそ全てをデフォルト、つまり賢者の情報を初期状態に戻せば良いが、今はそれすら叶わない。


場当たり的な解決策すら浮かばない。

だが、時間は彼を置き去りにして過ぎていく。

戦線はギリギリ持ちこたえているものの、エルイーザの不利は火を見るより明らかである。

窮(きわ)まった彼が取った行動とは……。



「アイテム、新規のアイテム作成しかねぇ!」



武器や道具を管理する画面からアイテムを作成し始めた。

外見、名称、威力を定め、あとは説明文が残る。

そのテキストボックスの中を、特別な言語で埋めていく。

さすがに動きは慣れたもので、瞬く間に画面が規則性のある文字列で塗り固められていった。



「チクショウ、チクショウ、エルイーザたんがそこに居るってのに……」



自分の理想を詰め込んだような女。

現実には存在しない絵空事の女。

それが今、完璧なリアリティと共に世界で同期している。

40年以上異性とは無縁で、体の『清らかさ』を保ち続けた男にとって、我慢するだけでも拷問であった。


触れたい。

嗅ぎたい。

笑顔を見たい。

声を聞きたい。

そして、揉みしだきたい。

ほんのひとときで良いから。


結論から言えば、それらは大抵可能である。

手を休め、彼女のそばへ舞い降りれば良い。

世界を震撼させるほどのバグが暴れまわっているが、それが何だと言うのか。

会社経営陣の理不尽さ、世間の心ない非難、自分のやり場の無い憎悪が詰まりに詰まった世界ではないか。

自分を延々と苦しめ、そしてこれからも続くであろう苦悩の根元。

そんなものが崩壊したところで、知った事ではないのだ。



「ヂクショウ……ヂクジョウゥゥ!」



だが、彼の指は止まらない。

それどころか、作業の冴えが増していき、普段以上のパフォーマンスを発揮する。

ギリギリと噛み締める歯が唇を巻き込む。

皮が破れて肉が裂け、血が吹き出していくのが、口に広がる味覚で感じ取れた。



「オレは、オレこそが産みの親なんだ。お前らの親みてえなもんだ」



彼はもちろん独身であるし、性交渉の経験もない。

それは夜のお店も含んでの事。

なので、親としてのリアルな心情など分かるはずもない。

分かりようも無いのだが、腹の底から沸き立つ情熱が、思考と体を完全に支配していた。



「オヤジってのはな、どんな時でも、テメェのガキを見捨てねぇんだよぉぉ!」



ーータァァン!


殴り付けるようにして最後のボタンを押す。

すると、彼の作成物は勢いよく地面に射出されて行った。

簡単なメモ書きもオマケに付けて。



「後はテメェだ。好き勝手暴れやがって!」



更にもうひとつ創ったアイテムは「突風」だ。

対象は勿論バグの怪物。

間に合わせのアイテムがマリウスの目の前に配置され、問題児を遠くまで吹き飛ばした。


これで当面の危機は去った。

エルイーザたちが贈り物を受けとる時間を稼げた事だろう。



「へへっ。ざまあみろ……」



その時、創造主は体の異変を覚えた。

それは眠りに就く感覚に近いが、どうにも気味が悪い。

このまま瞳を閉じると、別の世界へいくのか、それとも目が覚めるのか。

はたまた、本当の死を迎えてしまうのか。

何一つ分かりはしないが、彼は心底満足していた。



「エルイーザはオレのだ。オレの女だ。傷つけるやつは、誰だって許さねぇからな……」



その呟きを最後に、意識は遠退いた。


次に待っていたのは静寂、そして暗闇。

長い時間か、それとも短い時間か分からないが、独り完全な闇に包まれた。

『死』という言葉が浮かび上がった頃、光が凄まじい勢いで迫ってきた。

あまりの眩しさで強い頭痛が生じ、彼の思考を止める。

次には微かな物音。

痛む頭をなんとか動かし、意識をそちらへと集中させた。

すると、捉えどころの無かった音の数々が、徐々に輪郭をハッキリさせていったのだ。



「お兄ちゃぁん。起きてぇ。お兄ちゃんってばぁ~」



幼い少女の、これまた飛びきり甘ったるい声が聞こえてくる。

創造主の男は声のするほうに手を伸ばす。

それは頭上の方向で、距離も近い。


まさぐる指先には固いものが触れる。

ぼやける目を懸命に酷使すると、それがスマホである事が分かる。

乱雑に手に取ったせいか、画面に触れてしまったようだ。

繰り返し鳴り続ける少女の音声が『おにいち』でブツリと途絶えた。



「これ……オレのだ。オレのスマホ」



冷静になって考えれば、先程の声はアラームである。

ここ半年の間、毎朝7時にセットし続けけたものだ。

外はすっかり明るくなっており、窓から降り注ぐ日差しがオフィス内にある年代物の品々を照らしている。



「ここは会社で、良いんだよな?」



寝袋から半身を起こし、辺りを見回す。

遠くのデスクにチラホラと、早出した社員の姿が見える。

名前すら知らない別チームの人間だ。

目の前には悪夢の象徴であるマイデスクが、昨日と同じ形で居座っている。



「夢……だったのか?」



唇をそっと撫でてみる。

あれが現実だとしたら、かなり大きな怪我をしているハズだ。

頬から指を恐る恐る滑らせていく。

そして患部とおぼしき部分は、年相応に滑らか。

痛みはない。

さらには指先には乾いた血すら付かなかった。


ひとしきりボヤッとしていると、不意に体が震えた。

徐々に事の顛末を把握する。

それからは寝起きとは思えないほどに目を見開き、恰幅の良すぎる体を派手に踊らせて、最寄りのトイレへと駆け込んだ。


狭い個室のトイレ。

壁はコンクリートを白ペンキで塗っただけの、飾り気の無いもの。

そこへ唯の人間へと戻された男が、頭を勢い良く叩きつけた。



「何だよぉぉ、夢だったのかよオィィ!」



奇行は1度で治まらず、2度3度と勢いを増して続けられた。

それでダメージを受けたのは彼の額だった。

何か突起物にでも引っ掻けたのか額に傷ができ、少なくない血が顔を染め始める。



「だったら無駄骨じゃん! バグなんかほっときゃ良かったじゃん! たくさん揉んどきゃ良かったよぉぉーーッ!」



泣いた。

ひたすらに男泣きした。

子供の頃ですら、ここまで全力で悲しむ事はなかったのに。

彼は同僚が出社済みとなった社内のトイレにて、臆面もなく叫び続けた。

血と涙と鼻水と涎(よだれ)で顔を散々に汚しながら。

ホラー映画のゾンビたちの方が、よほど清潔に見えるほどに。


余りにも哀しく、虚しい泣き声が換気扇を通じて、新宿の空に響き渡る。

そんな彼の傷心を労る者は一人もいなかった。

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