別物


 今までの地球に降っていた、あの豪雨とは別物のような、弱いシャワーの如く優しく降り注ぐ煙雨えんう––––––を黒い傘で受け止めて、大男は、アスファルトに寝そべる男に問う。


平井ひらい–––––お前は」


 大男が言い終える前に、後ろに立っていた、痩せ型で背が高い、上等な背広を纏う男が遮る。


「任務を遂行することができなかった。……それがなんだということが分かるか?」


 平井と呼ばれた––––––先ほど脇谷に「死ね」と吐いた男は顔を上げる。––水溜りで覆われた、古いアスファルトの地面に、腹這いになって這いつくばっているのには訳があった。


「……ッ!」


 縛られた手首を捕まれ、また、髪も掴まれ、体を持ち上げられる。重力と引力が反発して、彼の背骨と頭皮は驚き嘆く。

 しかし、平井はそれら全ての感情を押し殺した。


「お前がここでってことだ」


 今度は、大男が胸を張って声を張り上げた。


 平井は、冷や汗を頰に浮かべ、にやりと笑う。


「いい加減、どっちが喋んのかはっきりしろや」


 このような危機の状態でも、平井はだだっ広い余裕を持った。ここまで来ては、今更怖気付く必要はないと、彼は言う。二人の男らは舌を打ち、その硬く丈夫な革靴を彼の頭の上に振りかざした。



 二人の男達の猛烈なキックに、平井は顔を歪めた。頭の回転が麻痺する。腰は九十度に近く逸らされて、頰を殴られ、背中を蹴られ、冷たい雨にさらされる。平井が務め会社では、落ちこぼれをとことん追い詰めて、なじる風習がある。今までは––––ずっと前から––––詰る立場にいた平井は、「やられる側」の苦しさを、見捨てられたこの切なさを、全ての身をもって実感した。–––それも、嫌という程に。



 楽観的に見積もり三十分、男達は平井を生きたまま殺した。


 この世界から、抹消させるように––––。



 ややあって。


「平井ぃっ!!!」


 いつになく上ずった–––ここでは聞くはずのない、平井の「友達」が走ってやって来た。





 やっと、脇谷の立つ地に追い付いた私は、前に広がる、あらぬ光景を目の当たりににした。


 十メートル程離れたここにいても、雨で流れて来た血液が足先に付く。


 しかし––私はそんな事にも気が行かないほど、前の光景に釘付けになっていた。


「わっ……脇谷……」


 平井は、僅かに変形した頰を苦しそうに動かした。顎が外れたのか、「わきや」が「わいあ」のように聞こえる。その為に、名前を理解できなかった男達は、平井に聞き返しながら乱暴に雨水を蹴った。


 息を切らせていた脇谷は、すぐに息を整え、物を言わずに、–––––コートの中から、脇谷の持っている中で一番殺傷能力の高いセミオートのアサルトライフルを––––––抜き出し、安全装置を抜くと同時に発砲した。


 今度は、平井の手首を掴んでいた男が物を言わずに倒れ、白目を剥いて頭から仰け反り倒れた。


 瞬間–––––平井を除く全ての男達の表情に–––––何か糸のような、緊張が張り巡らされた。


 手首を縛られたまま解放された平井は、軋んで動かない体に鞭を打つ。懸命に、この銃撃戦の外に出ようとする。出て、脇谷と共に戦おうとする。

 しかし––––思いの外、体のダメージが激し過ぎたのか、そのまま倒れ込んでいた。


 平井は脇谷に「やめさせようと」している–––少なくとも、私はそう思った。


「わ、わきっ……脇谷!」

「……!」


 平井を殺そうとした連中が、ばたばたと武器を取り出している時、平井は脇谷に、何か、言葉をかけようとしていた。弾を発砲し続けていた脇谷は、その手を少し緩め、赤く充血した瞳を––––彼の瞳は青色だった––––平井に向けた。その目は、まるで、平井を心配した瞳だった。


「……っ、やめてくれ。ここから逃げてくれ。お前一人じゃ敵わない! ごめん、脇谷。––––俺、実は–––––––」


 パァン!!


 平井の、渾身の告白はそこで絶たれた。私はしばらく、驚いた平井の方を見ていた。今の発砲音は、大男が持っている上等なライフルだ。脇谷は集中を平井から男達に向けてしまい、平井はただ、脇谷にとって無謀な戦いを見届けるのみとなった。





 私は、動けずにいた。

 この事件のたった一人の第三者であり目撃者。私はどちらの味方でもない。だからといって、私は平井を攻撃した男達の側に立つことはできなかった。今までの、脇谷と平井のくだりを見てしまったからだ。「友達」––––平井は言った。脇谷は「友達」の為に命を張っている。確かに平井は「死ね」と言葉を吐いた。しかし、友達をやめるとは言っていない。二人は、––––––彼らは仲間なのだ。


 平井が何を言わんとしているのか、私には分かった。

 おそらく、脇谷には分からないのかもしれない。


「ごめん」と、平井は言った。

 それが何の意味があっての「ごめん」なのか、部外者である私はだけが分かってしまう。それがどんなにもどかしいことか……脇谷はここで死んでしまうかもしれない。さすれば、脇谷は平井の言葉を聞いてやれないのだ。




 気が付けば、私も泣いていた。

 切なくて、何も言えずに、何もせずにただ泣いた。

 ただそれだけだ。




 脇谷が、右腕を掴んでうな垂れた。薄汚れたセピア色のコートに、真っ赤な鮮血がじわりと滲む。見るだけで冷たいものが背中を迸った。私はそんな寒さに震える。涙の冷たさに震える。


 平井の顔に––––遠くてよく見えないが–––はっきりと、くっきりと、絶望の色が出てきた。


 構わず、脇谷は銃を発砲する。男達は次々に倒れ、最後にはあの大男一人になっていた。大男は少し得意そうに、血を流す細型の男達を一瞥する。

 脇谷は持っていた銃を捨て、今度は小型のピストルを繰り出した。


 しかし、引き金を引く直前、脇谷の目に、大男に蹴られた平井が映った。すっかり私は、そのまま脇谷が勝つのだと思っていたので、彼の動きが止まったのを不思議に思った。

 平井は、何度も何度も呻き声を上げて、しかし男に抵抗しようとしていた。そしてやはり、脇谷の事を心配していた。


 脇谷は目を閉じる。

 そして呼吸を繰り返す。

 私の心臓は、今にも体の中から躍り出てきそうなほど高鳴っていた。


 脇谷は目を開け、いつになく、その、生まれたままの顔で、冷静に銃をまっすぐ持った。


 大男は何もせず、ただ、にやにやと悪どい笑いを浮かべるばかり。


 そして、脇谷は引き金に力を入れ––––––


「ッッ!!」


 脇谷は、そのままぱっと掌を広げ、弾を放たないまま銃を落とした。

 何故? ……私も驚いた。


 大男は卑怯なことに、平井を盾にしたのだ。



「あぁーーはっはっはっはっ!!!」


 男から出た音とは思えない、キンキン声が耳をつんざく。大男は、ぐったりする平井の襟を掴んで「惜しいなぁ」と言う。幸い、平井の体に弾の傷はない。脇谷がとっさにピストルを落としたお陰だ。


「やっぱり「友達」が盾になると撃てねぇよなぁ!」


 大男は胸を反らせて何回も、息をひいひい言わせる。私にはそれが不快で、不快でたまらなく、早く殺して欲しかった。


 そう、脇谷に。



 しかし、そういうわけにはいかない。大男は笑いながらも銃を脇谷に発砲する。一発、二発、三発。どれも命中で、脇谷の腹、胸に当たって、弾が体内に入ってゆくのと同時にコートの袖についた色と同じ、赤黒い血液がどくどくと溢れ出し始めた。


 私は、胸がきつく締め付けられる感覚に襲われた。


 怖くて、何故か膝をついてしまった。


 もうだめだ、そう思った。


 脇谷という、平井がつけたあだ名を、平井自身が喚く。

 その声が私の頭に響く直前、脇谷は倒れもせずに引き金を引いていた。


 男が油断していたから、床に叩きつけられていた平井は、言葉を失い口をポカンと開けている。


 私には、その発砲音は聞こえなかった。頭の中はしぃんと静まり返り、別の世界に来てしまったような感覚だった。

 やっと聴力が働いた時、既に大男は仰向けに倒れ動かなくなった。上等な背広が水溜りに浸かる音が、脇谷が膝をつく鈍い音が、静かに事の終了を告げる。


「う………そ、だろ?」


 平井はぼやくと、弾かれるように立ち上がり、よろけながら脇谷の元に駆け寄った。


 一センチほどの水溜りに浸かる背中を、平井は必死で支えていた。


 私は固唾を飲んでそれを見守る。果たして脇谷は生きているのか? 平井の告白は果たされるのか? 私の恐怖はまた、興味に変わっていた。


「ひ………」

「何でだよ」


 虚ろに瞳を開ける脇谷に、平井は問いを吹っかける。いつもの彼は何処へやら、平井は震えながら脇谷を腕に抱いていた。


「何で俺を庇ったんだよ。こんな無謀な––––」

「勝ったんだ………い、いだ、ろ……」

「………でも、お前は!」


 平井はがなり立てた後、弾跡だらけの脇谷の体を見渡す。脇谷は「俺は死ぬ」と呟いた。


「教えてくれよ……俺には分かんねぇんだよ……なぁ」


 平井は、髪をかきあげすぐに手を戻す。


「決まっ……てん…だろ」


 脇谷はまだ、仏頂面を見せる。相変わらずだ。しかし、平井はいつものようにヘラヘラと笑いはしなかった。


 –––––直後、私の耳に、脇谷が放つ訳のない単語が入ってきた。

 –––雨ではない、熱い何かが頰をつたる。



「友達……だから、だ、ろ……」

「……!」


 脇谷、平井はそのあだ名を呼び、俯く。背中は、先ほどよりも、彼が笑う時よりも震えていた。


 平井は泣いていた。

 ……いや、笑っていた。


「おま、えが……言ったんだろ」

「いや、いや、いい。今はそんな事。それよりも、お前な」


 平井は、にこにこと歯を見せて「何で今、笑いやがるんだよ」と言った。


 そう、脇谷は––––控えめだが–––微笑んでいた。


 中途半端に開かれていた目を細め、生まれてきたその笑顔で。


「ああ、…チョコレイトが食べたい」


 彼は一息で言った。

 苦々しい表情をしていた平井は、歯を噛み締め「何味がいい? コーヒー持ってきてやろうか」言った。



 辛すぎる。

 こうして平井がチョコとコーヒーを取りに行けば、確実にその間に、脇谷は息を引き取るだろう。

 平井はどんな顔をするのだろう。


 私は、夕方とは全く違う感情を、体内に感じた。



 平井は、立ち上がるため膝をつくと、ふと動きをやめて脇谷のその顔を見た。


「あともう一個–––––謝らせてくれ。

 ……冗談だったんだ。俺は「死ね」なんて大嫌いだからさ。本気じゃないんだ。許してくれよ」


 平井は相変わらずの緩んだ表情で、また冗談めかして謝った。


「別に……、いい。そんな、とこだと、思っ、た」


 息を切らした彼の発言に、平井は「ああそう」と、日常の本の一コマの会話のように軽く流した。


 それが、普通のこの二人の日常にしか見えない。


 それから何が起こったのかは、説明するよしもないであろう。


 脇谷は死んだ。

 死因は、大量出血と心臓に傷を負った為だ。

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