友達
大きなの雷の音が、点を切り裂くように鳴り響いた。あたり一面は昼間のように一瞬、明るくなる。
すると、地をも貫く程の乱暴な雨が、滝の様に降り注ぐ。
「こりゃ異常気象だ。タオルの意味ねぇな」
頭にかけていたずぶ濡れのタオルをつまみ上げ、男は溜息をついた。
しばらく無言で腕時計を見つめていた脇谷は、顔を上げて呟く。
「…約束の時間だ。帰れ」
脇谷は男の方を見向きもせず、再び腹這いになる。
スコープを覗いて微調整を進める彼だったが、男は立ち上がることもせず、にやにやしながら彼を見守り始めた。
「帰れ」
脇谷は続ける。
「邪魔」
「どかねーよ。別に邪魔じゃねえだろ? それに」
友達だし。
男は冗談交じりに言う。脇谷は今度は、返事もせずに、引き金に指をかけた。
友達–––––なかなか子供らしい響きだが、男の方はそれをよく使った。
友達だからと人の仕事現場に無理やり立ち入るのは、脇谷にとって邪魔な他なかったが、わざわざ追い出すほど優しくない。そして、この男も同業者なのだ。
脇谷は自分から男のことを「友達」とか「仲間」とは言っていない。男が勝手に認識して、彼の理解者になっている、ただそれだけである。
男は、脇谷がスコープの向こうに集中し始めた頃から、静かにその時を待っていた。しかし、そんな緊迫した仕事の最中にも、男は笑顔をやめなかった。
「…!」
何かを見つけたのか、脇谷は息を呑み、眉をしかめて眼光をスコープのその先に込めた。彼は、ただその一点だけを不乱に見つめ続け、人差し指に血管が浮き出るほど力を入れた。
パン!
「わーお」
おどけた様に、男は仰け反ってみせる。脇谷はスコープを、一瞬の中の一瞬見て、さっと起き上がった。
「ここに来たなら」
「はいはい、手伝うよ」
脇谷は男から目を逸らし、黒い革手袋をはめた。
「おっ、綺麗だね〜。さすが脇谷」
脳天を正確に貫いた弾丸が、雨に打たれ、遠い所まで転がっていた。黒い指先が、動かなくなった生物を突き、ジャケットを剥ぐ。
「いいやつ着てんなー」
終始話すのは男だけで、脇谷は無言でびくりともしない人間を片付ける。
男はいい短銃を見つけた様で、嬉しそうにそれをジャケットに仕舞った。それから、ついでにと何故か倒れた人間の頰をピシャリとはたく。
「おい何してるんだよ」
脇谷は少し驚いて、作業の手を止めた。
「べっつにー。脇谷のその顔が見たかっただけだよ」
男は、白い歯を見せて、無邪気に微笑んだ。脇谷はすぐにその表情を引っ込めて作業に戻る。次に、頭から血の流れる人間の全身をスマートフォンの画面に収め、彼はカシャリとシャッターを切った。
「……依頼主は?」
「別に言う必要ないだろ」
「ふぅん、〇〇社からか」
「……」
「当たってるだろ? だってさ」
「やめろ」
ぱっくりと開いたままの口を封じ、脇谷はこれまでにないような強面で呟いた。眉は寄り、藍色の眼光は暗闇の中で一層光る。男はにこにこしながら、脇谷を突き飛ばした。
味気ないカバーがついたスマートフォンは、画面に蜘蛛の巣状のヒビを入れながら地面を滑った。
雨のせいで、脇谷が尻餅をつく音も、スマートフォンが壊れる音も聞こえなかった。
しかし、ひときわ大きい男の声だけは聞こえることができた。
「なぁ、脇谷、俺ら「友達」だろ?」
いつもの口調だった。
脇谷は訳も分からず顎を引く。上目遣いの彼に、男は言った。その笑みは消えることはない。私はそこで、彼らから目を逸らしてしまった。
何故か見るのが怖くなった。でも、何故か逃げてはいけないような気がしたから、私は彼らから離れなかった。
今思えば、離れるべきだったのかもしれない。
「なんだよその目」
男の声のトーンは徐々に落ちる。脇谷は、はっと我に返ったように、いや、驚きおののいたように、目を見開いた。彼がこんなにも多彩な表情を見せるのは、これまで彼が生きてきた人生の中で初めてだった。
「俺は「死ね」とか「殺す」とかの言葉が大嫌いだが–––––––…」
男は、その二つの単語を強く口にした。
「今回ばかりは言う他ねぇ。死ね」
男は吐き捨てると、くるりと踵を返してここを去って行ってしまった。
「––––……」
脇谷は口を、半開きにして、激しい雨達の向こうに見える男の背中を目で追った。凛としているその背広。いつも、笑っていて震えていた背中。気付けば脇谷の横にいた。仕事を見守って、手伝いこそままならなかったが、あの男に出会うまでには、少なくとも脇谷は一人きりだった。
「寂しくなる訳ない。むしろせいせいしたくらいだ」
脇谷は、か細い声で呟いた。目の前には、大きな大きな水溜り。深い闇に包まれていて、手を入れると底知れなく吸い込まれてしまいそうな。まるで彼の心の様だと私はふと感じる。
頭に乗せられた、あの綺麗なタオルの暖かさが掌に蘇ったのか、そしてそれがじわりじわりと心に入り込んでいったのか、脇谷は喉元を苦しめる。彼は歯をくいしばる。ギリ、ギリと、歯が悲鳴をあげても。脇谷には、自分がこうなる理由は分からない。しかし、あの男がああなった事は理解していた。
男の言った「〇〇社」は、その男が務めている会社だ。彼は、それを恐れていた。男は殺された仲間の社員を見てすぐ察したのだろう。それも、脇谷は恐れていた。
「なんで」
–––俺は、怖がっていたんだ。
言った後、脇谷は首を振る。雨は、次第に弱まりつつあった。濡れた髪から、沢山の水滴が滑って落ちて行く。画面が真っ暗になり、電気のつかないスマートフォンを足で踏み潰して、彼は立ち上がった。
「友達」と、冗談の様に言った男は、こうもあっさり自分の元から去って行く。大嫌いな言葉を容赦なく吹っ掛けて、激しく機嫌を損なった顔で。
一見、小学生が互いにふざけ合って掛けるような軽い言葉に思えたが、何故か、脇谷の体には深く深く刻まれていた。仕事柄、「死」に多く直面する彼だ。それに、あの男もいつも死と隣り合わせな生活を送っている。それなのに、男がかけた暴言はやけにリアルで、言ってしまえば、すぐに彼に「死」が訪れてしまいそうなほど、即物的だった。
雨は止むことを知らないが、先程とは打って変わって霧雨のように–––––どこか異国の地の樹林に降るような–––––優しい雨に変わった。
脇谷は、底知れぬ闇をじっと見つめながら、考えを巡らせていた––––。
私は、この一連の二人の動きを全てこの瞳に映したが、何故、脇谷が突然走り出したのかは知らなかった。
私は脇谷を走って追った。背が低いし足は短いしで、彼の俊足に追いつけるかは微妙だった。しかし、私は彼を追いかけたのだ。ただの興味本位で。
脇谷は、急に立ち止まり、肩を上下させながら辺りを見回していた。てっきり私は、気付かれたのかと思ったから、慌てて隠れたのだが、彼はそうでないらしかった。彼は「くそッ!」とアスファルトの地面に強く革靴を叩き込む。何が「くそッ!」なのかは把握できない。私は目を凝らして、彼を観察していた。
脇谷は泣いていた。
普段、表情を滅多に顔に表さない彼だ–––私は雨で濡れたのかと勘違いしそうになった。しかし、彼はしゃくりあげて泣いていた。
ああ、–––私は思った。
彼は––––脇谷は友達を探しているのだ。と。
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