夕立と、友達と、チョコレイト

みずみやこ

夕立


 加熱終了を告げた電子レンジは、古い蓋を開けて熱風を吹き出した。

 心の落ち着くような香りを放つブラックコーヒー入りのカップを取り上げて、彼は熱そうでもなくそれを啜る。


 気持ちの悪くなるほど多い雨達は、夕暮れの空を歪ませて、暗雲達は、夜の始まりを伝える夕日を遮る。それは、人間にとって不快なるものだったが、彼にとってはどうでもいいことだった。


 帰宅するのに濡れるのは面倒だとか、突然の夕立に苛立ったりする感情はとうの昔に消えている。

 ただ、彼の大好物であるチョコレイトをコーヒーと共に齧る時の感情は人一倍強い。

 甘いミルクチョコレイトのパックを破って捨てて、板チョコレイトを大きく齧って、咀嚼しながら歯型を見つめた。

 とろけ出しそうなチョコ達は、今の暗雲と同じような感情を持っているようだった。





 彼は板チョコレイトを食べ終えると、コーヒーも飲み干して満足感に浸った。夕立は収まらず、完全に咀嚼を終えるまでに辺りは暗くなっていた。


 –––彼が感情を顔に出すことはさらさらない。

 大好きな甘い物を頬張っていても、傘なしに雨に当たっていても。彼はそのまま、生まれてきたままのその顔で生きている。彼には「表情」や「感情」の概念がないと言っても過言ではないのかもしれない。しかしスイーツは例外である。


 そんな彼は、カップをキッチンのシンクに片付けて、そのまま部屋を出た。安っぽいビニール傘の肢を握って、暗い暗い夜道を大股で突き進んで行く。普段、彼は家にいて、そこまで運動をしない人種だ。が、彼は今、前屈みに上半身を傾けて足早に細い道を歩いて行く。人気のない寂しい道は、大通りよりも雨脚が少ない。なのはそのせいもあるのかもしれない。


 …彼は名もなき狙撃手スナイパーである。

 腕は上等、何年前から職を始めたか? 所属先はどこか? どこに住んでいるのか?

 果たして彼に感情はあるのか?



 本人はそう理解していないのかもしれない。





 そして私は、彼が死んでから彼の存在を知ったもう一人の狙撃手スナイパー

「枯れ緑」という呼び名が勝手についている。


 この夕立の日に、私は彼を目撃した。

 それが最後に彼を目に写した時だった。




 彼が急いで向かった先は、深い森の中に佇むある山小屋だった。木製で、ログハウスの作りになっている。が、面積はそこまで広くない。


『もう一つの我が家』彼はそう呼んで良くかよった。


 山小屋の中には、殺風景な部屋が一つ。

 ソファなし、テレビなし、エアコンもなにもない。つまりは生活用品全て欠けている。


 彼は唯一の抽斗ひきだしを開けて、中から何か、長くて黒いものを引っ張り出した。それは鋭利に尖っているわけでもない。が、引き金というものがついている。それを一度押せば森を貫く轟音がし、運悪ければ人に当たる。さすれば人は、もう一生動かない生き物となる。


 それを彼は平然と構える。


 しかし、引き金を人差し指で押すことはしない。


 地味な黒いシャツとジーンズの上に、セピア色のコートを翻して着る。コートの裏には、本人だけが数を知る多々ある種の拳銃がベルトに刺さっている。

 回転式拳銃リボルバー自動拳銃オートマチック、ライフル…。人が片手に持って使えるもの達は、彼の腹から腰にかけて何本も刺さっている。

 彼が取り出したものは、狙撃銃スナイパーライフル。狙撃に特化した一流の代物で、彼はオーダーメイドで数億かけて調達したらしい。


 彼はそれを、軽々と背中にしょった。重量は最小限に抑えてある。機銃自体は、狙撃銃なら持ち運びやすい。


 彼は唇を真一文字に結んだ。



 山小屋を出ると、しかしまだ雨脚は弱まりを知らなかった。辺りはすっかり真っ暗で、この様な森の奥だと周りは全く見通せない。しかし、彼は猫の目を持っているのか、慣れているのか、そのままずんずんと道を進んだ。


 少し開けた場所に入ると、足首までの長さに統一された雑草が生い茂っている。そして、その円状の広場の真ん中には、ハシゴと高台。まるで登れと指示しているような佇まいだった。


 彼はそれを見つめてしばらく、二十四メートルあまりのハシゴをゆっくりと登りだした。ギシ、ギシ、と、古い脚立ハシゴは、苦々しい音を立てながら、錆びた支柱を揺らして彼の体重に耐える。


 一番上は、一畳分の間だった。雨のせいで滑りやすくなっている。彼は慣れた手つきで狙撃銃をそばに置き、その狭い屋上に遠慮なく腹這いになった。

 うつ伏せになり、狙撃銃のスコープのピントを合わせた。地上から二十四メートル離れると、木々を超え、向こうの町を一望することができる。ここは町から近い所に位置した、彼曰く「暗殺用射撃高台」である。


 壮大に、空の色は変わる。橙から赤、赤から紫、紫から青、青から黒。彼が弾倉マガジン安全装置セーフティを確認している間に、完全に町も闇に覆われる。雨は強くなる。鉄の床に刺さる雨の脚は、彼の聴覚をはばかるほどであった。


 彼は、黙々とスコープを覗いた。

 赤の点線十字マークの中心には、たった一人の青年男性が映っていた。

 しかし、その男はターゲットから外れ、姿を消した。それから、狙撃銃の狙う先はただの空と化した。






「おい」


 雨水でびしょ濡れになった彼の髪に、純白のタオルがぼすっと被せられた。

 それを無言で掴み、乱暴に髪を吹いた彼は、普段あまり見せない仏頂面で声のした方を見た。


「まだやってんのかー?」


 お気楽に問うた声の主は、二本の缶コーヒーを両手に にかっと笑った。


「悪いか? 約束の時間はまだなんだよ」


 ブラックなコーヒーを受け取り、彼は、私が知っている中で初めて声を表した。


「ああそう」–––––青年は彼の隣に腰掛ける。「お前–––––脇谷わきや–––痩せたんじゃないか?」


 脇谷(男がつけたあだ名。理由は定かではない)と呼ばれた彼は、ぴくりと体を動かし「そうかも」と頷く。


「らしくないなぁ。ストレスか? …あっ、そういえばさっき俺、スコープに映ってたろ!」

「ああ……やっぱりお前か」

「凄いだろー? ここからじゃ狙撃銃は見えづらいんだぜ」

「はいはい」


 脇谷はぐいと缶を仰ぐ。彼は内に秘めた心内を言う––––「コーヒーくれるんならチョコも寄越せよな」脇谷はぶすっと頰を膨らます。


「ああっ、そうだったなすまん」


 ぱっと両手を掲げた男は次に、クスッと笑みをこぼした。脇谷–––この彼相手にここまで親しくなる《友達》とは、珍しいものだ。


 そう、––––確か私は、ここで彼らを目撃したのだ。

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