97 「物語」に縋った僕の話。 ①
誰かが傷つく話をします。
今回の話を書くことで、多分どこかの誰かが傷つきます。
その誰かがこの文章を読むことはありませんが、それとは関係なく僕は誰かを傷つけてしまう、という自覚のもとにエッセイを書きます。
誰かが傷つくと分かっている文章は本来、書くべきではないでしょう。
そう実際に面と向かって言われるのなら、仰る通りだと同意する他ありません。
それでも今回の話を書くのは、僕が小説やエッセイを書き続ける為に必要なことだと感じているからです。
言い換えれば僕は、現実で顔を合わせる知人、友人に今回の話をするつもりはありません。
ここが文字だけで完結する場である為に、自分本位ではありますが、誰かが傷つく話を書こうと思いました。
どんな創作物であって人を傷つける可能性がある、という意見があります。
それは考えてみれば当然です。
創作者は自分が作ったもので誰かが傷つくかも知れない、という加害者の可能性を考慮すべきです。
ただ、今回の僕の話は創作物は誰かが傷つく可能性がある、
という話ではなく、確実に誰かが傷つく話をしようとしています。
誰かが傷つくと分かっていても僕は今回の話を書くべきなんだと思っています。
少なくとも、今回の話を回避し続けるのなら今後、僕が書く小説やエッセイには常に深みのない表面をなぞったようなものになってしまう。
それが良いとか悪いとかではなく、表面をなぞったようなものしか書けなくなることを僕は恐れます。
例えば、誰も傷つかない。
誰にとっても心地よく、優しい言葉があります。
時にそれが人を救うことを僕は知っています。
僕自身、そういう優しい言葉に救われていた時期があります。
目の前の苦しみを乗り切れば、
「あの言葉があったから、僕は苦しみを乗り越えられたんだ」
と思うことができますし、それは一面で事実のようにも感じます。
誰にとっても優しい言葉に具体性はなく曖昧でも、それを救いだと信じられれば意味と価値が生まれます。
僕はそれで良いと思っていました。
過去形です。
今は少し違う考えに基づいて日々を生きています。
人生の幾つかの局面において、理不尽に今までの人生そのものをひっくり返されるような瞬間があります。その時、曖昧で具体性のない言葉では乗り切れない。
それが今の僕の考えです(正確には乗り切るべきではないと考えています)。
その局面が自分に起るのなら、まだいいです。
しかし、それが他人の人生で起こった時、僕はどうすれば良いのか分かりませんでした。
僕の中にある言葉は曖昧で自分を心地良く納得させるものでしかありません。
二十何年間生きてきて、僕の手元にある言葉は世界で起きる残酷で理不尽なものに対して無力でした。
その自覚が今の僕の深い根っこの部分に絡み付いています。
きっかけは一本の電話でした。
当時の僕は、あるショッピングモール内にある販売店に勤めていました。
販売店はモールの出入口の近くにあり、日が傾くと仕事を終えたスーツの男性が通り過ぎて行くのを見かけるようになります。
ショッピングモールを横切って帰宅するのでしょう。
そんな頃に、いつもアルバイトの子が出勤してきてくれます。
アルバイトの子に僕は簡単な引き継ぎを伝えて休憩を取りました。
携帯を開くと、倉木さとしから不在着信が入っていました。
どうしたんですか?
とメールを送りました。
何の心構えもありませんでした。
彼からの返信のメールは
「友人が人を×した」
でした。
頭を思いっきりぶん殴られたような衝撃でした。
少しの間、僕は何もせず、その画面を見つめていました。
揺れる視界の中で、僕は倉木さとしに電話をしました。
直ぐに彼が電話に出たのかどうか、記憶にはありません。
電話が繋がって、倉木さとしから話を聞きました。
倉木さとしの友人は既に警察に逮捕されていて、犯行は半年前でした。
被害者は友人よりも年上の女性。夕方のニュースで倉木さとしの見覚えのある道が映っていた、と彼は少し震える声で言いました。
僕は何を言えば良いのか分からず、黙って話を聞きました。
倉木さとしは友人が人を×して警察に捕まるまでの半年の間に、一度彼に会っていました。
スーパーで彼女と買い物をしている時に向こうも奥さんと一緒にいて、すれ違った。
と聞いて、あれ? と思いました。
僕は倉木さとしから話を聞いた時点で、彼にとってどのような友人だったか予想はついていました。
その予想が正しければ、倉木さとしはその友人と年末年始に会っているはずでした。
その疑問を口にすると、
「あぁ、いつもだったら、そこで会う予定だったんだが、今回の年末年始は中止されたんだよ。友人の都合で」
と倉木さとしは答えました。
冷静に考えれば分かることでした。
電話がかかってきた月から逆算すれば、倉木さとしの友人が人を×した月は12月付近になります。
いつもは開催されるはずのことが、中止された。
そんな些細な違和感だけで、倉木さとしが何かに感づくことは不可能だったでしょう。けれど、
「俺は、アイツの何か力になれたんじゃないかな?」
と言いました。
そうかも知れないとも、そうじゃないとも僕は言えませんでした。ただ、何かを言わなければいけないと思っていました。
傷つき苦しんでいるのは、僕ではなく電話の向こう側にいる彼なのですから。
如何に自分の中にある言葉が曖昧で、無力で滑稽だったとしても、僕は何かを言わなければならなかったのです。
僕が縋ったものは「物語」でした。
「倉木さん。それを小説にするしかないんじゃないですか? 今、思っている苦しいこと、哀しいこと、理不尽さ、戸惑い、憤り、後悔を物語にしましょうよ。僕たちは小説家志望なんだから、それができます」
というか、それしかできないんですよ。
そう続けました。
当時の僕は弟をモチーフにした私小説に近いものを書いていました。
僕は自分の中にある弟に対する戸惑いや劣等感を物語にすることで、納得しようとしていました。
そして、「それしかできないんですよ」と言う当時の僕は、弟の小説を殆ど投げ出していました。
「そうだな」と倉木さとしは頷きました。
当時の倉木さとしは五章構成の小説を書くと宣言し、一年に一章ずつ書いていました。
電話をかけてきた時点で、二章まで完成しており、三章の原稿は一年以上経っても送られてきていませんでした。
「次の三章目で、今回の経験を書くよ」
そう言って倉木さとしは電話を切りました。
少し話を脇道に逸らしますが、僕は倉木さとしの小説が昔から大好きでした。
本人にファンにしてくださいと言って許可をもらったこともあります。
そんな僕が一年近く倉木さとしの小説を読めていないと、
どうなるかと言うと、彼が書こうとしている五章構成の小説の完成部分を読み込み、
その世界観を使ったプロットを作って、四月一日(エイプリルフール)だと言って送り付けるイタい奴になります。
倉木さんが書かないなら、僕が勝手に貴方の世界観を使って小説を書きますよ。
という変な脅し方をして続きを書いてもらおうと僕はしました。
「へぇ、面白そうじゃん。書いてよ」
が、倉木さとしの返答だったと記憶しています。
軽い。
そして、その後に、倉木さとしの友人の事件が起きました。
倉木さとしは続きの小説で、今回の経験を書くと言っていました。
そう言わせてしまったのは僕でした。
小説家志望なんて関係ない。
辛い現実があった時、倉木さとしはそれを飲み込める人間です。
どれだけ弱音を吐こうと、最後には前向きな結論を出したはずです。その結論が小説の中で物語として昇華されたのかは分かりません。
ただ、分かることは友人が人を×したと知った後、倉木さとしは比較的に早い段階で僕に連絡を入れてくれている、という事実でした。
気持ちが落ち着いていない状態で僕に電話をくれて、そんな彼に僕は小説を書くべきだと無責任なことを言ってしまいました。
いつか倉木さとしは今回の経験を小説に書こうと思うかも知れない。
けれど、それは事件があった直後ではなく、本人自身のタイミングで選ぶべきだったんじゃないか?
僕は余計なことをしたのではないか?
それが、当時の僕の偽らない本音でした。
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