80 自分で考え、幸せな世界へ進む「異セカイ系」。

 ――祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。

 人はいろいろな理由で小説を書く。いろいろなことがあって、いろいろなことを祈る。そして時に小説という形で祈る。この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現することだってできる。物語や小説の中でなら。


  舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』より。


 第58回メフィスト賞を受賞した名倉編の「異セカイ系」の「あとがきのあとがき」がwebメフィストに載っていました。

 そこで、


 ――京極夏彦や舞城王太郎や西尾維新や……いろんなだいすきな作品に問われて。影響されて。ぼくはこれを書いた。


 とありました。

 確かに「異セカイ系」を読んだ後、幾つかの作品が頭に浮かんできました。それに関する記述も、「あとがきのあとがき」にありました。


 ――ゼロ年代やセカイ系を愛してる人。こんないるんだ。そこに気付いてくれるとは。そうそう。あの作家から影響受けてます。笑ってくれたんだ。怒って。泣いて。は――そんな解釈や読みが。


「異セカイ系」を読み終えた時、僕の頭に浮かんだのは、東浩紀+桜坂洋「キャラクターズ」と舞城王太郎の「九十九十九」などでした。

「あとがきのあとがき」にある通り、「は――そんな解釈や読みが」と分かるタイプの小説です。

 その解釈や読みが分かるためには、ゼロ年代やセカイ系を愛している、まではいかなくても知っている人である必要があります。


 それは京極夏彦や舞城王太郎や西尾維新から受けとった問いに対する返答という形の小説故の部分です。

 では、その「解釈や読み」が分からなければ、「異セカイ系」の小説は楽しめないのか?


 決してそのようなことはないだろう、というのが僕の結論です。

 むしろ、ゼロ年代やセカイ系を知らない人にこそ届く普遍性があるのではないか?

 少なくとも僕は「異セカイ系」という小説をこれから読む若い(ゼロ年代やセカイ系を知らない)読者がどのように受け止めるのかに強い関心を覚えます。


 ――もしあなたがまだ読んでなかったら。ぜひ読んでください。『意セカイ系』。あなたはどんなふうに思うでしょう? それでもしよかったら。返答を聞かせてください。


 名倉編の「あとがきのあとがき」はそのように締められます。

「異セカイ系」とは京極夏彦や舞城王太郎や西尾維新からの問いに対する返答であると同時に、これからの読者に対する問いとしても機能しています。

 それ故に、名倉編は「返答を聞かせてください」と締めくくります。


 ここで冒頭の舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」の言葉を持ってきたいと思います。

 祈りは言葉で、言葉は物語になる。物語は小説で、小説の中なら祈りは奇跡を起こし希望を煌めかせる。

「異セカイ系」の祈りとはなんだったのでしょうか?

 答えは本編の終盤にあります。


 ――あらゆる可能性の世界に。祈りとともに。この本を。


 とあるように、「この本」自体が祈りとなっています。

 では、「この本」は何に対して祈っているのでしょうか? 

 これは作中の終盤にあるキャラクター分析シートの一文が全てを表していました。


 ・劇中で伏せられる無意識の真の目的:みんなにやさしくなってほしい。


「異セカイ系」は言ってしまえば、「みんなにやさしくなってほしい」と祈る物語でした。

 では、その「みんなにやさしくなってほしい」とは、具体的にどういう意味なのでしょうか。


 それを考える為に個人的にここで引っ張ってきたい作品があります。群像2018.12に掲載された舞城王太郎の「裏山の凄い猿」です。

 目次で「裏山の凄い猿」のあらすじは以下のように記載されています。


 ――行方不明になった近所の四歳児の面倒を見ていたのは人語を喋る猿だった。近づきたくない。でも俺は優しさを発揮しなくてはならない。二十六歳の「俺」、冒険譚。


 なぜ、俺は優しさを発揮しなくてはならないのか。

 そのきっかけは、同級生の女の子に言われた一言に起因します。


 ――「困っている人を助けようって気持ちがなくなったら社会は終わりやわ。ほれにあんたは絶対結婚できんわ」


 俺は、優しさよりも正しさが先行する人間であり、正しさを探すあまり、困っている人を無視してしまっている。

 それは言葉を変えれば、優しさが足りない、ということになる。

 その為に「俺は優しさを発揮しなくてはならな」くなります。


「裏山の凄い猿」のラストに俺は一つの選択に迫られます。

 そこで猿(正確には、角田チーズ)に相談をします。猿は俺にもっともらしい正しさを説きます。優しさを発揮しようとする前の俺であれば、もしかすると猿の言う通りにしたかも知れません。

 けれど、優しさを発揮しようとする俺は、猿の忠告を無視します。


 ――「私ならそうしなかったでしょう」


 と結論が出た後に猿は言います。

 そして、それは正しいのかも知れない、と俺は思います。

 優しさを発揮することが正しい行動に繋がるとは限りません。もしかすると間違う方が多いのかも知れません。

 それでも優しさを発揮する時、人は自分でものを考えることに迫られます。


「異セカイ系」に話を戻しましょう。

 

 ・劇中で伏せられる無意識の真の目的:みんなにやさしくなってほしい。


 この「みんなにやさしくなってほしい」は言い換えれば、「みんなに自分で考えるようになってほしい」と言うことを意味します。

 そして、その結果、幸福ではなく、不幸になってしまったとしても、


 ――だれかのために行動したり。助けたり。やさしいしたり。そういうひとつひとつの行動がより幸せな世界への経路を開く。おれは。

 マジでそう思ってる。


 やさしくなることで、自分で考えるようになることで幸福な世界になっていく。

 それが「異セカイ系」の祈り。

 舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」の冒頭で言う、「この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる」。


「異セカイ系」という物語、それ自体が一つの奇跡の引き金となるように作られています。

「裏山の凄い猿」を重ねて語るなら、優しさを発揮していく(自分で考えていく)ことで、人は正しいことだけをして生きていけなくなります。

 時折、間違った結果を導き出します。


 それでも、その間違った結果が、「幸せな世界への経路を開く」と「異セカイ系」は言います。

 そして、僕はそれを甘っちょろい理想論のように感じながら、同意せざる負えない気持ちでいます。

 世界がそういう風になれば良いと、やっぱり思ってしまうから。

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