79 わたしは恐竜を飼っています。
今日、仕事からの帰り道で日本酒のイベントをしていました。
「どれでも一杯百円」という手書きの看板があって、お祭りみたいなテントがオフィス街の一角に並んでいました。
テントの中にいる人はお祭りで見かけるような陽気そうなおじさん、おばさんではなく、スーツをきっちりと着て結婚指輪をはめた四十代くらいの男性たちでした。
おそらく、何かの企業のPR関係で、日本酒を振る舞っていたのでしょう。
本日は四月に入って初めての金曜日でした。
新社会人を労うイベントなのかも知れない、とも思いました。
イベントスペース周辺に立って日本酒を飲んでいる人を見渡してみると、年齢層は三十代から五十代。
若い人は偶然通りかかった風のカップルで、二人は互い笑いながら小さなプラスチックカップに口をつけていました。
新社会人の姿は僕が見る限り確認できませんでした。
時間はもう少しで二十時になる頃合いで、もしかすると新社会人たちは十八時過ぎに少し飲んで、思い思いの友人と飲みに行ったり、家に帰ったりしたのかも知れません。
少なくとも僕が新社会人だったら、オフィス街の一角のイベントに一時間も二時間もいるとは思えません。
何と言っても明日は土曜日で、月曜日から出勤なら初めての休みの前日です。
わくわくし過ぎて、一つの場所に長居する訳がありません。
お酒を飲むにしても、お店に行きます。
そして、死ぬほど飲みます。
新社会人とは言い難い年齢を重ねてしまった僕は、テントに近付いて、目についた日本酒を一つ買いました。
見るだけで六種類ほどの日本酒があって、テントの中のスーツの男性は飲み比べを勧めていました。
仕事終わりで夕食はまだの僕は空腹で、今飲むと変に酔うかな? と思いつつ、小さなプラスチックカップに口をつけました。
常温の日本酒はビールのように口の中を刺激せず、静かに舌の上を通っていきました。
お腹の辺りに日本酒が僅かな重みと共に溜まるのが分かります。
普段、お酒を飲む時よりも、少し時間をかけて一杯を飲みきって、僕は二杯目を買いました。
外で飲む日本酒は、自然とゆっくり飲ませる魔力でもあるのでしょうか? 周囲を眺めながら、僕はじっと日本酒を飲み続けました。
三杯目を買うと、何か食べたくなる気がして買わずに駅へ向かいました。
常温の日本酒を外で飲む経験は、実は初めてかも知れない、と考えながら足を動かしていました。
駅に着く少し前に、常温のウィスキーを飲むシーンが印象的な小説があったのを思い出しました。
そこでは「山に行ったみたいだ」と言って、男二人でウィスキーを飲み。プロジェクターであらゆる山の写真を二人でじっと眺める。
という、ヘンテコなシーンなのですが、そこで一人の男が言います。
――「なるべくものを考えない。意味を追ってはいけない。山の形には何の意味もない。意味のない形だから、ぼくはこういう写真を見るんだ。意味ではなく、形だけ」
難しいことを言うなぁ。
と、思ったのを覚えています。
意味を追ってはいけない。
それは何故なんだろう?
おそらくですが、意味は名前みたいなもので、後から勝手に他人が付け加えるものです。ライオンは自分が「ライオン」なんて名前だと思ってはいません。
あくまで人間が便宜上、呼ぶ名前がないと困るからライオンを「ライオン」と呼んでいるに過ぎません。
他人が付け加えた意味は追わず、形だけを見る。意味以前のものを見る時、彼らは水も氷もない常温のウィスキーを飲みます。
それは社会の奥にあるものを見るような行為にも思えます。
僕は常温の日本酒を飲みながら、何かを見たのかな? 結局は意味を探しまわっていた気がするなぁ。
ちなみに、「意味を追ってはいけない」と言う小説は芥川賞を取った作品なのですが、その表題作の後にもう一作、その本には収録されています。
個人的に、こちらの作品が僕は好きなので、少し引用させていただきます。
――わたしは恐竜を飼っています。
恐竜を飼うにはいろいろ注意が必要です。恐竜はとても大きくて、首も長いので、顔は地面からずっと高いところにあります。ですから普通の家で飼う場合、一番の問題は相手の顔を正面から見てやる機会がめったにないということです。
恐竜を、飼う? ってなに?
と読んだ時には思いました。しかも、この小説の主人公は文彦という男性で、基本的に三人称で描かれます。
にも関わらず、突然「わたしは恐竜を飼っています」と途中から始まります。
この「わたし」はどうやら、文彦の娘らしい、というのが読み進めていくと分かります。
文彦の娘は精神世界で、恐竜を飼っている。
とすると、この恐竜は文彦のメタファーなのか? と読んでいると思いますが、どうもそういう訳でもない、と最後で分かります。
じゃあ、この恐竜の意味って?
と思った時に、「意味を追ってはいけない。山の形には何の意味もない」の言葉に立ち返ります。
恐竜には何の意味もありません。強いて言えば、文彦の娘自身が作り出したもの故に、もう一人の自分でした。
最後の恐竜との別れのシーンで、文彦の娘は以下のように考えます。
――そういう風にしてわたしは自分と別れ、そうしてわたしは新しい自分になるのだと、見ているわたしには分かりました。
不思議な文章です。
意味を追おうとすれば、簡単にできる気がします。けれど、そうすることで意味以前の形を見逃してしまいます。
それが勿体ない、なんて感じるものが世の中には、実はいっぱいあるのでしょう。とりあえず今日、僕が飲んだ日本酒の銘柄は忘れました。意味なんて良いんです。
味さえ分かれば。
多分。
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