59 限りなく美しく、少し怖い大人の特権。

 ――正しさなんて全然問題じゃない。

 結婚して、たった一つ学習したことがそれだった。正しさに拘泥したら結婚なんてできない。私は夫に、私をどんどん甘やかしてほしいと思っている。正しくなくてもいいからどんどん甘やかして、夫がいないと何もできないというふうにしてほしい。そうすればここにいることが私の必然になるし、逆にいうと、そうでないとここにいる必然性がなくなってしまうのだ。隣同士に住んでいる恋人同士でなぜいけない?

 私もできるかぎりそうしている。甘やかしたり甘やかされたりするのは大人の特権だ、と思っているから。


 江國佳織「いくつもの週末」甘やかされることについて より。


 江國佳織のエッセイを常に持ち歩いている時期が僕にはありました。二十歳頃だったと記憶しています。

 僕は江國佳織の物の見方がとても好きで、本当に何でもない日常や景色が彼女の文章で語られるだけで、特別で美しく価値あるものに変容するんです。

 世界が魔法にかけられたような感覚が、江國佳織のエッセイにはありました。


 そして、今回、抜粋した文章にもありますが「大人の特権」と言う部分が僕は狂おしいほどに好きです。江國佳織のエッセイの中の「大人」は自由で、知的で、カッコイイものでした。

 二十歳の頃の僕にとって江國佳織の言う「大人」になりたい、と思っていました。憧れていた、と言っても良いです。

 などと書いてしまうと青くさく、感傷的でどことなく恥ずかしくなりますが、二十歳当時の正直な感想です。


 ちなみに、抜粋したエッセイ集の「いくつもの週末」は、江國佳織の結婚生活を綴ったものです。

 凄く個人的に言ってですが、江國佳織の作品「きらきらひかる」や「号泣する準備はできていた」や「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」や「赤い長靴」を読む限り、結婚生活が良いものだと思ったことはありませんでした。

 とくに「赤い長靴」!

 とある夫婦の何でもない日常を描いている作品ですが、あらすじを紹介しますと、


 ――結婚して十年、子供はいない。二人なのに一人ぼっち。漂う心の動きをとらえた、限りなく美しく、少し怖い、絶品の連作短編小説集。


 です。二十歳そこそこの僕が読んだ感想は「少し怖い? いやいや、めっちゃ怖い!」でした。

 なぜなら、「二人なのに一人ぼっち」という部分の通り、この夫婦の会話は一度だって成立しないんです。互いに何か伝えたいことがあって、それを言葉に、時に行動で示すんですが、絶対にそれが相手に伝わらない。

 けれど、二人は夫婦として生活を続けます。


 お互いに伝えたいことが相手に伝わっていなくても、すれ違い続けても、男と女は一緒に居られる。

 って、それは、「限りなく美しい」かもしれないけれど、結婚って一人でいるのが嫌だから、するものなのでは? などと、思っていた青くさい二十歳そこそこの僕は、ちょっと絶望しました。


 そんな僕の絶望を柔らかく包んでくれたのが「いくつもの週末」でした。

 江國佳織がこのエッセイ集で語っているのは、夫に分かってほしい、という一点の為だけに作られているように思えました。

 より注意深く読んでいくと、江國佳織という固有名は溶け、ある女性が一人の男性に分かってほしい、と言うエッセイになっていきます。更に、繰り返す読むと、分かってほしいが必ずしも、幸せになりたい訳でもないかも知れない、になります。

 幸せでなくても、一緒に居られる。

 暗にそう言われているような気さえしてきます。そして、一連の江國佳織の小説を読んできた僕からすると、その通りなのだろうと思います。

 正直に言えば、それは「限りなく美しく、少し怖い」です。

 が、それこそが「大人の特権」なのかも知れません。

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