49 描きかけの小説が見つかる、ということ。
ツイッターを巡っていると、大塚英志の呟きで面白いものを見つけました。
――いくつか仄聞した青少年の事件の被告が宮崎勤を含め「描きかけの小説」を残している例が多かった。それで事件が抑止できるとは言わないが心の中の混沌を管理し飼いならす技術を知っているに越したことはないと一審後「物語の教え方」を試行錯誤してきた。そういうと引かれるからハウツーのふりして。
僕が何かしらの事件を起こす、なんてことがあった場合(ないと切に願うけれど)、僕のPCから「描きかけの小説」が確実に残ります。
その小説が僕の起こした事件に関連して発見され、社会によって意味が成されるのだとすると、それは「その小説」にとって不幸なことのように思います。
誰も望んで事件を起こす人は滅多にいません。
それが起きるとしたら、どうしようもない事情や環境に置かれた時でしょう。その事情や環境が僕の身に起こらないとは、決して言い切れません。
僕が犯罪者かぁ……。
そういえば昔、僕は刑務所に入った人から届いた手紙を読んだことがあります。
手紙を書いた人を僕は会ったことがなかったのですが、読んだ時、悲しくて仕方がなかったのを覚えています。読んだ時間は夜で、車の中の細い電気の光に照らして僕はそれを繰り返し読みました。
読ませてくれた友人が、「その経験をいつか小説で読むことを楽しみにしているよ」と言ったのを覚えています。
僕はまだあの体験を物語にできずにいます。
けれど、いつか僕はそれを小説にします。
話がズレました。
僕が事件を起こしてしまったとしたら、PCの中にある小説のデータを消そうと考えるかも知れません。でも、多分惜しくて一つのデータだって消せない気がします。
で、あるなら、僕はPCにある小説のデータを不本意な形で意味づけされないよう、日々気をつけるべきなんだな、というのが大塚英志の呟きを見た時の感想でした。
何の捻りもない当たり前の感想ですけれども。
その上で感じたことがありました。
やっぱり人は物語を書くべきなんだけれど、問題は「描きかけの小説」が残ってしまう部分なのだろうな、と。曲りなりにも小説を書いてきていて僕が思うのは、物語を書き始めるよりも、書き終える時の方がずっと体力が必要になるんです。
個人的なイメージですが、のたうち回る細長い生き物を捕まえて、定位置にまで引っ張っていくような作業なんです。
その、のたうち回る生き物を作り出したのは自分自身です。が、その生き物の動きに法則性はなく、捕まえるのに一苦労で、更に引っ張るのにも体力、というか気合がいるという二重苦。
この、のたうち回る細長い生き物が、大塚英志の言う僕の中にある混沌なのだと思います。随分、大きく乱暴に育ったものだと少し辟易とします。が、時々会いたくもなるので、愛嬌のある奴なんです。
この愛嬌のある細長い生き物について考えると、浮かぶ文章があります。
――祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
舞城王太郎「好き好き大好き超愛してる。」という作品の一文です。
「過去について祈るとき、言葉は物語になる」とある通り、僕たちの心の中にある混沌は「過去」の積み重ねによって生まれたものです。
ということは、僕が小説を書く時に見かける細長い生き物も、僕の過去が作り出したものになります。この過去は、おそらく体験だけのことを言わず、今まで僕が読んだり見た小説や映画も含んでいます。
僕たちを時に深く癒す物語は、ある瞬間、制御不能な混沌として僕たちを襲うこともある。そう考えると、この世界はよくできているなぁと思う反面、厄介な世界だなぁとも思います。
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