42 ゲームテキスト文学としての舞城王太郎。
2018年10月25日に舞城王太郎の「私はあなたの瞳の林檎」が発売されました。その帯には「舞城王太郎 新PJ(プロジェクト)発動」とあって、「二ヶ月連続作品集刊行、1冊目恋篇」とありました。
作品集2冊目は家族篇とあり、タイトルが「されど私の可愛い檸檬」でした。「されど~」の帯には『夫のちんぽが入らない』のこだまが推薦していて、内容は「食い入るように読みました。誰かの「理想」になんかならなくていい。トロフィーを床に叩き付けて、信じた人と生きていくだけ」。
ここで芥川賞作家とか、有名な書評家とかが帯を書くのではなく、こだまが帯を書くという点が、舞城王太郎という作家の位置を正確に表しているように思います。文学という、言うなれば閉じた世界で作品を発表しつつ、本を刊行となるとエンターテイメント作家のようなイベントが打たれる作家。
そういうポジションが舞城王太郎だけとは言いませんが、非常に稀有な存在であることは間違いありません。覆面作家で、小説の発表以外に漫画の原作や、アニメの脚本、監督までやっているってなに? って個人的に思います。
舞城王太郎はもはや日本文学界隈で唯一無二の存在となっています。
そんな舞城王太郎は本の刊行とは別に2018年の11月7日発売の群像2018.12で「裏山の凄い猿」を掲載し、その翌月12月7日発売の新潮2019.1に「勇気は風になる。」を掲載しました。
2018年の締めくくりは舞城王太郎で! と言われているようで、幸せな時間でした。一編読んでも、まだ他にもある、これもある。
しかも全部面白い。
毎日の飲み会と忘年会の幹事や、積み重なる仕事のなんやかんやで忙殺されていた僕にとって、そんな読書体験は救いの何物でもありませんでした。
正直、僕は舞城王太郎が現在進行形で小説を発表していく作家の中で一番注目しています。村上春樹よりも、舞城王太郎の新作に反応します。それがイコール舞城王太郎が一番好きな作家となる訳ではないですが、彼の書く作品群に惹かれて離れられない引力を僕は感じています。
この引力はなんだろう?
と僕はふと考えてみて、浮かんだのは東山彰良「ワイルド・サイドを歩け」の解説でした。千街晶之というミステリー評論家が書かれた解説で、タイトルは「目で聴く音楽のような犯罪小説」です。
実際に「ワイルド・サイドを歩け」を読んだ後に、この解説のタイトルを読むと五分は頷きつづける人形と化すほどに納得できるものでした。
東山彰良の文体には心地の良いリズムが潜んでいるのは間違いありません。それが舞城王太郎の文体の中にもあるのは明白でした。当然、二人の文体のリズムが似ていると言っている訳ではありません。ただ、目で聴く音楽のようなリズムが彼らの小説の中にあるのは確かでした。
このリズムはなんのだろう?
そこで浮かんだのは、村上春樹が「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」の中の文章です。
――彼ら(三島や川端)の散文は形式美に重きをおいたものであり、曖昧で、高踏的で感情で飾りつけられています。僕が求めているものは自然でシンプルな文章です。
僕が惹かれ離れられなくなるリズムを持つ、東山彰良や舞城王太郎も「自然でシンプルな文体」です。そして、村上春樹にも、このリズムを感じます。
ちなみに文芸雑誌の中の文藝だけが季刊誌です。その2019年の春に舞城王太郎の「私はあなたの瞳の林檎」と「されど私の可愛い檸檬」の書評が載っていました。
鴻池留衣のもので、最後の方で以下のようにありました。
――そういえば、舞城文体の「ドライブ感」と呼ばれているものは、アドベンチャーゲーム(に限らずRPGなども含めたコンピューターゲーム全般)の画面下に表示されるウインドウの中で、テキストが速やかに現れ流れて行く感じとよく似ている。
音楽的で、ゲームのテキスト的で、かつ「自然でシンプルな文体」。
僕はそういうものに惹かれます。
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