⑦ 腫れた足を引きずって。
オイディプスという名前の意味は「腫れた足」を意味するそうです。つまり、オイディプスはまっすぐ歩けない存在なんだとか。
古代ギリシャの神話、オイディプス神話は捨てられた子(オイディプス)が巡り巡って、知らぬ間に父親である王を殺し、母親である王妃を妻に迎えてしまう。後に真実が明らかになって、絶望して自らの目を潰してしまいます。
確かに目を潰してしまえば、まっすぐ歩ける訳がありませんが、それ以上にオイディプスは自分の進んだ道を振り返った時、まっすぐに進んでいたつもりなのに父を殺して、母と交わってしまった。それに絶望する彼を見て、僕たちが思うのは、歩いてきた道を振り返った時、ようやく自分はふらふらと間違った道を歩いていたのだと、気付くんだという点です。
振り返らなければ、もしくは無知なままであれば、オイディプスは自分の罪に気付かぬまま一生をまっとうできたはずです。真実を知ってしまったからこそ、彼は自分が「腫れた足」、まっすぐ歩けない存在だと気付いてしまったんです。
それでも、オイディプスは真実を知るべきだった、と安易に言うつもりはありません。知らない方が良いことは、やっぱりあると思いますから。
傷つけば痕が残る可能性がある以上、簡単に傷を作るべきではありません。それは身体でも心でもそうだと思います。傷つかなければ、成長できないとか、気付けないことがあるとしても、無垢であれる部分を残すことには意味があります。
もちろん、傷ついてしまったのなら、それを受け入れて強くあるべきですし(いや、そうでなくてもいいんですが)、自分がどういう人間になりたいのかを考えた時、傷つくのだとしてもその道を進むことは、とても勇気のある選択です。
僕たちは常に何かしらの影響下での行動を余儀なくされます。オイディプスが父を殺すことを神託(呪い?)として宿命づけられていたように、目に見えない力が常に僕たちの足を引っ張ります。
それを感じられるか、感じられないかは人によるでしょうけど、その神託だか、呪いだかの力によって僕たちはオイディプスのように、まっすぐ歩けない存在になってしまいます。
ふらふらとあっち行ったり、こっち行ったりして、本当に行きたい場所に辿り着けず、良く解らない場所に腰を下ろしてしまったりします。けれど、まっすぐ歩けないことはそれほど悪いことでもないように思います。
あくまで僕は、ですけど。
道草や回り道をして、気付けたり、本来なら見なかったはずの光景を目撃したりする訳ですから。その結果、たどり着きたい場所に至れなかったとしても、まぁそういうもんか、と思います。納得が出来なければ、またその納得できない思いを抱えて新しい場所を目指します。常に下方修正は必要です。
死ぬまで納得ができなければ、納得できねぇなと思いながら死ぬ他ない訳です。それが悪いのか良いのかは、その時にならなければ分からないような気がします。ただ、そこにたどり着くまでの道を振り返った時、ふらふらとまっすぐ歩いていない軌道を思って、「ちょっと、人とは違う道をふらふらと歩いてたじゃん」と、にやっと笑えれば十分なように思います。
繰り返しますが、それは死ぬその時にならないと分からない訳ですけれど。
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