第19話 最低ライン

 アドラー教授が講義室を退室してから、生徒が一斉に話しだす。


「教科書の内容を勉強するんじゃねえのかよ!?」


 おそらく18~19歳くらいの男性が二人で話している。当然の反応だ。わざわざ教科書を生徒に買わせているのだ。僕も教科書の内容を講義するんだろうと思っていた。


「だいたい、教科書の内容だって理解してねえのに……こんなことってねえよ……」

もう一人の男が言葉を漏らす。


 僕は事前に自己学習で改訂前の教科書を読んでいたから、教科書の内容は理解しているが、当然、教科書をまだ理解していない人もたくさんいるはずだ。それなのに、教科書をはるかに越えた講義を行う。こいつはちょっと理不尽じゃないか、と考えていると、20代半ばくらいの男たちが、こちらも二人で話しているのが聞こえた。


「予想はしてたけど……実際に講義を受けるとしんどいな」

「ああ、興味深い内容ではあるが、さすがに難解だな。理解するのがやっとってとこだ」


 この二人は講義の内容を理解しているみたいだ……。普段はあまり面識のない人に話しかけるような性格ではない僕だが、聞かずにはいられなかった。


「すいません、お二人はその……今の講義、理解できたんですか?」

「まあ、9割くらいだけどね。理解してるよ」

 二人の内の一人が答えてくれた。


「君、天野君だっけ、すごいね、若いのにこの学園に入学できるなんて……」

「いえ、そんなことは……」

「この教科書はもう見た?」

 メガネをかけた男が分析化学の教科書を指さして尋ねてくる。


「ええ、一応、目を通して理解もしているつもりです。改訂前の教科書にはなりますけど……」

「オッケー、なら最低ラインはクリアしてるね」

「最低ライン……」

「あそこにいる高校卒業して間もなさそうな二人、川永の生徒としては失格だろうね」

 眼鏡をかけた男が、さっき僕が会話を聞いていた10代と思われる男性二人の方を見ながら、ばっさりと切り捨てる。


「あの若さで入学できているから、僕なんかより能力ははるかに優秀だと思うよ。でも、ここの生徒をやっていくにはそれだけじゃ足りない。おそらく彼らは偏差値が高いという理由だけでこの学園に入学してしまったんだ。リサーチ不足だね」

「まあ、そんなこと言うなよ。未成年で経験もないから当然だろ。先生や親に勧められたら大してリサーチせずに受験しちゃうと思うぜ。俺もあいつらくらいの年齢で才能があったら同じ過ちを犯しているよ」

 もう一人の坊主頭の男性が口を挟む。


「川永学園は優れた研究者を養成する機関、今や就職斡旋機関になり下がってしまった他大学とは一線を画す組織だ。与えられたことをこなすだけじゃ生き残れないよ。この学園は……」

「ごめんな、天野君、こいつ社会人経験してるもんだから、ちょいとばかし厳しいこと言っちゃてるんだ。勘弁してやってよ」

「『社会人経験してる』じゃないよ、現在進行形で社会人だ。僕は」

 メガネが反論する。


「こいつは企業の研究室に所属してるんだ。んで、企業に金出してもらってこの学園に来てるってわけ。だから、学園がどんな講義をしてるか、日本の教育機関においてどの立ち位置にいるのか、いろいろ調べきってからここにいるんだ。ちなみに俺は3流、いや5流大学大学院の修士課程を卒業してここに来たんだ」

 坊主頭の方が愛想よく話してくる。


「でもよ、お前も俺もよ、このクラスに甘んじているんだぜ? 若いやつらにどうこう言える立場じゃねえ気はするけどな!」

「それは言うな!」

 坊主頭がメガネを茶化し、メガネは不機嫌そうに答える。


「すいません、まだお名前を伺っていませんでした。僕は……もうご存知みたいですが、天野と言います」


 僕が自己紹介をすると、まずメガネの方が、「僕は石田と言います。よろしく、若くして入学する子は噂になるからね。名前は聞いていたよ」と答え、続いて坊主頭の方が、「俺は金山。石田とは小学生の時、一緒の学校だったんだ。腐れ縁ってやつだな。まあよろしく」と答えてくれた。


「さて、そろそろ移動しないと次の講義に間に合わなくなるよ」と石田さんが促す。


 講義と講義の間のインターバルは20分だが、もう2限目開始時刻の10時40分まで10分を切っている。そうだ、シンヤはどうしたんだろう、もう移動したのか? シンヤが座っていた机の方に目をやるとそこには机に突っ伏して寝ているシンヤの姿があった。


「初日の1限目終わりから寝てるのかよ……」


 僕はシンヤを起こして講義室を後にした。

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