009
「へえ、こんな部屋なんだ。女の子の部屋っていうのは、総じていい匂いがするものだと思わない?」
そんな言葉を無視して、私はキッチンに立った。
「なにか飲む? コーヒーか紅茶か、あとビールならあるけど」
食器棚からマグカップを二つ出しながら聞く。一つは赤で、もう一つは、もっと赤い。
「ビールでも貰おうかな。だからマグカップはいらないよ」
右手にまとめて二つ持ったマグカップは、どうやら必要ないらしい。それにこちらを見ていないと思っていたのに、マグカップを持っていると一政が分かっていた事に薄ら寒さを感じながら、左手にこっそりと持っていた包丁を元々あったところにおいた。
「それじゃあ、私もビール」
マグカップを戻して、冷蔵庫からビールを出す。
ソファに座った一政に手渡すと、ぷしゅっと小気味いい音を響かせ私を不快にさせる。
かしゅこ。
私のビールは下品な音を立ててプルタブを泡が包む。
数滴、床にビールが垂れた。
「限界……パリが人として保たれる限界は、もう越えてしまっているんじゃない?」
「どういう事?」
「パリは気付いていない。世間でいわれる一般人ってカテゴリーに分類される人たちは気付いていないかもしれないけれど、パリからは異質な、【フリーク】特有の、真面な人間になろうとする努力みたいなものが私生活から滲み出しているよ。拒否すべきものを拒否し、受け入れるものを受け入れ、律儀で、論理的。その全てが過剰で、無理に神経質な人間を演出しようとしているように僕には見えるけどね。その癖、家の中はプライベートな空間だからか、神経質とは言い難いような点が多い。違うかな?」
一政の前にあるテーブルの上には、昨日や今日だけのものではない、郵便物の束。部屋の角にはうっすらと積もる埃。風呂の角に残ったままにしている、流しきれなかった血。
思い当たる節はいくつでもある。
「違わないんじゃない?」
ビールを呷る。
飲み込んだビールと感情が混ざり合って、少しずつ殺意で満たされていく。
「だろうね」
私の何を知っているんだって感じだけど、それをいうなら私だって一政の何を知っているんだろう。ビールの表面に浮き上がる泡が弾ける音がやけに大きく聞こえる。一政はビールに口をつけない。飲み口に毒を塗っているとでも思われているのかもしれない。でもそんなに簡単に一政の事を殺してしまっても楽しくない。殺す? ああ、そうか。私の中ではもう一政を殺すって事で確定しているんだ。私の好意は殺意という行為に挿げ替えられた。相野さんを殺す? そんな事よりも私は一政を殺して食べてしまいたいし、そうする。
「私が人を殺して食べてるって知ってて、自分は食べられないって自信みたいなのってあるの? 私の家にのこのこやってきてさ」
台所に戻りながら、包丁より、アイスピックの方が良いかもしれないと引き出しを開ける。
「本当に好きな人を食べるっていうのは、なかなか出来ないもんなんだよ。かなりの覚悟がいる」
アイスピックは、無かった。
「パリが今まで食べてきた人は、思い入れのない見ず知らずの人たちばかりだろう? でもその人たちを殺して食べて、実際どうだった? 美味しかった? 美味しかったはずなんだよ。だって、それはただの食肉と一緒だから」
一政の方を向くと、その手にはアイスピックが握られていた。
急いで包丁を手に取る。
抑制と統制の存在が消える。
一政は、そのイケメン顔には似合わないけど、性格に似合うよう口を歪める。
「パリは、僕のコトが女子kiなんでしョ(はてな)」
私の中の一政への色々が溢れる。
かず政のナニが木にクわなゐとかjaな胃。
かず政のナニが女子Kiとかjaな胃。
「どうかしたパリ?」
目の前に突然現れた一政。
咄嗟の出来事に手が出る。
白い肌。
滲む血。
表情。
怒り。
____
痛み。
それは大きなもので、明確にどこが痛んでいるのかを理解するのは困難で。左手のあたり。その程度。それしか分からない。でも、この痛みは針が刺さった程度のものでは当然ない。この痛みは、もっと大きなもの。手を思いっきり踏まれるより、もっと、もっと大きな痛み。経験した事がないような傷み。部屋は暗くてよく分からない。いや、そうじゃない。暗いのは部屋じゃなくて、私の視界。目隠し。時間はそんなに経っていないのではないかと思う。あくまで想像でしかないのだけど。
「んんん」
突然傷みが大きくなり声を荒げたつもりだったけど口も塞がれているみたいで声が出ない。痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたい指だ左手の指薬指薬指きっと今一政が私の指を薬指を切っている違う違う切ってるとかじゃない噛んでる噛み千切る為に噛んでる痛い熱い熱い痛い熱いやめてごめんごめんごめん。
「んっぐんんぐん」
なんでなんでなんでこうなるの?
「パリの薬指、肉が少ないから、あんまり美味しくないね」
体が固まる。
恐怖。嫌悪。畏怖。
「こっちはどうかな?」
頬。頬になにかが、いたいあつい。全身があつい。
「頬は意識しなくても、普段から結構動かしているからなのかな? 誰のものでも、それなりに食べれる味をしているよね」
あつい。
「あっ、でも僕は脚が好きなんだ。大腿四頭筋のあたりの大きい筋肉は食べているって実感がある。固いけど、噛めば噛むほど人を食べているって感じられるよね。パリも、そう思わないかい?」
あつい。
「そういえば本当に好きな人を食べるには、かなりの覚悟がいるって話をしていたね」
痛くない。アドレナリンが出ると痛みを感じないと聞いたことがある。アドレナリンは興奮すると分泌されると聞いたことがある。興奮? 私は何に興奮しているのだろう?
「食べてみたら分かるんだけどね、食べた相手の記憶や思い出がいくつもいくつも蘇ってきて食べることに集中できなくなるんだ。それがなにを意味するか分かるかい?」
返事を待つように言葉を切る。でも私は口を塞がれていて声が出せない。
「美味しくないんだよ肉が。体が拒否反応を起こしているのかもしれないね。面白いと思わないかい? 目に入れても痛くないって表現があるよね。かわいくてかわいくて、愛するあまり痛みを感じないことはあるのに、口には入れると不味いんだ」
なにが言いたいのか分からない。
「不味くて不快に思いながら、愛する人を食べているという背徳を感じると、嫌でも悲しみが生じる。僕はその悲しみってやつを感じたくて、人を愛する努力をしてきた。でもパリのことはいくら頑張っても、好きにはなれたけど愛せなかったから、もういいんだ」
お腹が熱い。
私は死にたくない。
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