007

 浴槽の中で私は、隅に付いた赤カビみたいに残っている流しきれなかった血を眺める。


「今日は絶対綺麗にしようと思ったんだけどな」




「いつもそういって先延ばしにして」




 血の痕の横で、開いた瞳孔を私に向ける女の声。


「あんたがそんなところに座ってるからいけないんじゃない」


「なに、私が悪いっていうの? あんたが私を殺したっていうのに?」


「そりゃそうでしょ。私にぶつかっておいて謝りもしなかったのは誰?」


 女は突然黙り込んで、それっきり私に喋りかける事はなかった。

 なんだかむしゃくしゃしたから洗面器でお湯をすくって女にかけてみる。別になにがあるってわけじゃないけど少し満足した私は浴槽を出た。




 女の横を通り過ぎて脱衣所に出ると、スマホの着信音が聞こえてきたのでさっと体を拭いて、バスタオルを体に巻き付ける。

 リビングに置いたスマホからはまだ着信音が鳴り響いている。




 誰から?




 スマホの画面には一政の文字があって、なんだか嫌な予感がする。だって一政から連絡が来るのは月に一度の食事への誘いだけで、他の用事だったりで連絡なんて今まで一度も来たことがなかったから。


 何もないのに連絡なんて来るはずがない。

 何かがあったから連絡が来たんだと思うけど、このタイミングで連絡が来るとどうしても考えてしまう。






 一政は私が殺人を繰り返していることを知っているのかもしれないと。






「もしもし、なに?」


 震える手をどうにかしようとすると、余計に震えは大きくなる。

 その震えを悟られないように、口調を強くしてバランスを保とうとしてもなにも変わらない。


 一政の言葉を待つ。






「もう終わりにしようか、パリ」






 私の中で崩れ去っていく安心。

 私のせいで恐怖を感じた人々の、その全ての恐怖が一気に流れ込んでくるように、私は恐怖に包まれた。


 それは当然のことだろう。


 だって誰にも知られていないと思っていた秘め事を誰かが知っていたとして、なぜ知っているのか、どうして知ったのか、どこまで知っているのか、そう考えた時に湧いてくる感情は怒りや不安ではなく純粋な恐怖であって、それは秘め事の大きさが大きければ大きいほど比例して大きくなる。


 殺人。


 社会的にも道徳的にも、当然倫理的にも許されないだろう殺人という秘め事はとてつもない恐怖を生むみたいで、私はスマホを壁に投げつけるとキッチンで包丁を取って風呂に行って女を蹴って女を切って私は食べる女を食べる血抜きは済んでいるので血は出ない私はいつだって冷静にいられる自信があったのにいつからこんなに冷静さを失うようになってしまったのだろうかってこれは絶対に相野さんに会ってからだくそあの男殺してやる私の冷静さを奪ったせいで一政にバレたのかもしれないそうだったら相野さんが私の相野が私の。






 リビングではまたコール音が鳴っている。






「私を殺したのが運の尽きだったのかしらん?」


「うるさい」


「わたしはあなたのことしらないけどあなたもわたしのことしらないものね」


「うるさい」




「早く死にたい」




 目の前にいる女が喋るはずない。

 なのに陽花と名乗ったあの女の子の声を聞いた気がするし、昨日殺した名前も知らない女の声を聞いた気がしたし、もういつ殺したか覚えていない風呂の隅の汚れになった女の声を聞いた気がしていたけれど、私は彼女らの思いを妄想し発言することで自分の都合のいいように解釈し殺人の罪にたいする意識を軽減させていただけだった。


 死んだ人間が喋るなんてバカバカしい。


 相野さんと喋った時に感じた自分の心が【フリーク】みたいだって感情を持った瞬間の私。

 あの時の私の心だけは真面だったのかもしれないと【フリーク】の私が思ったところで、それが世間の真実として正しいのかどうかなんて私にも分からない。


 だけど一政だけは、そんな私を分かっているのかもしれない。




 彼もまた【フリーク】だと、そう思うから。




 私は昨日の女を食べる。






 ————






「繰り返しになるけど、もう終わりにしようか、パリ」


「なにいってるの?」


 先日と同じ店で有名なハンバーグを食べ終えた私は、冷めた鉄板の上に半分以上残った一政のハンバーグを見ながらいった。

 相変わらず食べるのが遅い。






「僕はパリが陽花ちゃんを殺したことを知ってるよ」






 なぜか分からないけど笑顔で答える一政はいちいち爽やかイケメン。

 本当に萎える。


「なんのことだかよく分からないけど」


「誰なのかは分かっているみたいだね」


 笑顔。




 これじゃあ言い逃れは出来そうにないか。

 一政は完璧主義だから確実に私が人を殺しているっていう証拠を見つけているのだろう。それだけじゃなくて私が人を食べていることだって知っているかもしれない。




 私は逮捕されるのだろうか?




 以前は大学生くらいの女の子二人組が座っていた席の先、窓から見えるカーブミラーに相野さんの姿はない。

 今日は一政を尾行してはいないみたいだ。


「本当に何をいってるか私には分かんないんだけど」


 反抗してみたところで意味がないと意識では分かっているつもりなのに、無意識に人に知られてはいけない秘め事を隠そうとしてしまうのは人間故の行動なのだろうか。


 それとも普通の人間に紛れる【フリーク】の性なのだろうか。


「全部説明した方がいいのかな?」


 一政は手に持ったナイフとフォークを置くと背もたれにもたれ、私の目を見据えて一呼吸置いた。


「沈黙は肯定と受け取るよ。パリが中学三年の時の一月。推薦入試の合格が決まって間もない頃だね。大下山公園で一人の女の子が亡くなったんだ。その亡くなった女の子は、僕の家の近所に住む木下陽花ちゃん。当時はまだ八歳だった。彼女は名前の由来になった紫陽花のように、雨の似合う女の子でね。でも普段は家に閉じこもっていたんだ。それを知っているのは僕くらいだったかもしれないけどね。彼女は両親から虐待を受けていて、その日は午前中に両親の怒りを買うなにかをしてしまったらしく家の外に放置されていた。学校にはいっていなかったから、学校で傘を借りる事なんて出来ないし、それに友達がいなかったから傘を貸してくれるような人もいない。だから僕が傘を貸してあげたんだ。妹が気に入っていて外にも出さない、観賞用としてしか利用価値のない傘を。コミュニケーション能力が決して高くないというか、一般的に【普通】と呼ばれる育て方をされた子達とは会話が続かないみたいな、話題が飛ぶような独特の話し方をしていたのがすごく印象に残っているなあ。間の詰め方というのがよく分からなかったといったら分かりやすいかな。まあこれは僕の推測になるんだけど、一番近しい関係である家族という枠でさえ、虐待のせいで距離感が理解出来ずにいた女の子が他人と仲良くするのはなかなか困難な事だったんじゃないかな。それこそパリみたいなフリーク、いや異形のものでもあれば別だったのかもしれないけどね」


「つっ……」


 思わず舌打ちをしてしまう。

 私の思考でも読み取ってるのかって感じるくらい、私が嫌がる表現で煽ってくるあたり、本当に一政こそが真の【フリーク】なんじゃないかって感じる。


「まあ僕も彼女と話せてるわけだから、パリと同等に【フリーク】と呼ばれるに値するのかもしれないけどね」






 またあのイケメン笑顔でくそこいつ本当に殺してやりたいけど殺せない。






 悔しいけど私はこいつに硫酸でもぶっかけて顔さえ汚らしくなってくれれば最高に好きになれるくらいには好きなんだ、性格が。






 結局のところ【フリーク】の事は、【フリーク】にしか理解できない。


「つっ」






 二度目の舌打ちは私自身に。

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