003

 えっ?

 死姦って、いった? えっ、待って、それって……それに食べた? 肉を? なんの肉を?




 人の肉を?




 胃が反転するような感覚が一瞬やってきたなって認識するかしないかくらいで胸のあたりの筋肉が痙攣するみたいに三回くらい跳ね上がって胃が熱いって、あれ、私、なんだろう、涙ぐんでるし、別に悲しいことなんてないんだけどって、あっ、でもお気に入りなんだけどな、コンパの時に会ったマッシュで丸メガネの古着好きなんだろうなって感じのすっごいタイプの美術大卒のあの男の子が褒めてくれた白いジャックパーセル。私の喉が熱いのは喉を通っていったハンバーグだった何かのせいで、それは熱い胃の中にあって、っていうか胃が熱いんじゃなくて胃の中の茶色いままで酸っぱい口の中のハンバーグだった何かがそうだったみたいでジャックパーセルの白にハンバーグの肉を、肉を、戻した。






 単純に吐いた。






 ゲロまみれの私のジャックパーセル。


「ちょっとちょっと、大丈夫ですか?」




 少し慌てた様子なんかを見てると、相野さんもやっぱり人間なんだなって感じて、それに私はショックを受ける。




 だって、それって私は相野さんのことを人間らしくないって思ってたことに繋がるし、それなら私が相野さんを人間らしくないって感じてた原因が見た目からの印象、つまり汚らしい身なりだったり火傷でどうしようもない表情だったり、それを作り出しているケロイド状の肌から私は相野さんを、【フリーク】だとか、そんな風に感じていたのかもしれないってことだから。

 それに私自身そんな風に感じているつもりはなかったけど、私の心はそれに差別的な思考を持っていたってことになる。

 それはなにより自分自身の心が一番、【フリーク】ってことの証明になっている気がして気分が悪いし滅入るし最悪以外のなんだっていうんだろう。


「ごめん、なさい、相野さん」私、息も絶え絶え。

「こんな、ですけど、私、あいつとの、こと、一政とのこと、話し、ます」


 ここで一政とのことを伝えないと、私が相野さんを見た目から差別的に判断していたことに対しての償いみたいなのをしとかないと、この気持ち悪さがずっと心の中に残ったままになっちゃうような気がして耐えられない。この考えだって十分に利己的すぎるかもしれないけれど、それでも関係ない。


 それに、




 一政がしたことの詳細が知りたい。




「いや。巴里さん。それより先にすることがありますよ」相野さんは私の体を見る。

「まずその服とかをどうにかしませんか?」


 ジャックパーセルだけじゃなくて、私自身もゲロだらけだ。






 ————






 私は中学時代にかなり太っていて、運動神経も当然悪いし、なによりも鈍くさかった。


 いや、違う。


 なんていうんだろう、鈍くさいなんていいものじゃなくて、愚鈍って言葉がしっくりくるようなそんな子だった。とにかくのろまで誰にも相手にされなくてもおかしくないような、クラスに一人はいる子。


 それでも私はクラスの中でいじめられたりすることはなかったし、誰にも相手にされないなんてことはなかった。

 それは私が愚鈍であることをひた隠しにするでもなく、ある程度自虐的に卑下して明るくひけらかしたことで、それなりにクラスの輪の中に自らを落とし込んだから。




 人間って本当に汚い生き物だと思う。




 学校みたいな狭い社会の中で、それは余計に顕著になるってことを私は知ってた。それでいて私は、汚いその輪に、なんとかすがり付こうとする卑しい人間だった。

 でもそれは弱い人間の生きる術ってだけで、仕方がないことだと自分に納得させて生きていたの。


 あれは中学二年の夏休みが明けてすぐの頃。なんでしっかり覚えてるかっていうと、その事件が印象的なのもあるけどちょうど席替えがあって、実はその時に好きだった子の隣の席になれたからっていうのもあると思う。




 当然それは一政じゃないけど。




 正直、一政とか全然喋ったこともなかったからね、その事件のあとまでは。

 

 なんにしろ私は席替えで一番前の席になったの。


 誰かが、「前にパリがいると見えない」っていった言葉。

 それを聞いて、「私でかいから後ろがいい」って先生にいうと何人かが笑っていたのを今でも覚えてる。

 先生は表向きは笑うんじゃないとかいってたけど、私への笑いを抑止しようなんて気は絶対になかった。




 だって、それまでにその先生が私を本当に庇ってくれたことなんて一度もなかったから。




 まあそんなことはどうでもいいんだけど。

 そのあとに私は、結局一番後ろの席に座ってた子と席を交換することになって、その移動先の席で隣になるのが、その時に好きだった子。

 その子の名前はもう忘れちゃったし、今となっては顔も思い出せない。

 でも当時は本当に好きで、私が前にいたら見えないっていってくれた子サンキューって感じで、うきうき机を移動させたのを覚えてる。


 その時にどうしてなのか分からないけど、やっぱり持って生まれたものなのかなって思うんだけど誰かの机の脚に足をひっかけちゃって、


 あっ、これ転ける。


 って思ったら私の前に突然、だけどこういう時って結構スローに見えたりするんだけど手が現れたから私は、「危ないよ! 私みたいなの支えるの無理だって、やめときなよ」って思うんだけど、そんなのどうすることも出来ないって分かってるのにやっぱり私は愚鈍で、「危な」って声を出した。


 でも次の、「い」って言葉が出なかったのは私の口に何かが飛び込んできたからで。




 そう、それが一政の薬指。




 対して接点もなかった私なんかを助けようとして差し出した手。

 それはタイミングが悪く私の口に入ってきて、愚鈍な私の、「い」で失われちゃった一政のものだった薬指の第一関節より先。


 噛み千切っただけでも衝撃的だっていうのに、私、それを、






 飲み込んじゃって。






 その時は何が起こったのか、多分一政も分かってなかったんだと思う。


 結局私を支えきれなかった一政は私と一緒に倒れて、クラス中から聞こえる、「大丈夫?」とか、「なにやってんの?」とか、他にもその隙間から聞こえる笑い声の下でうんうん唸る一政に気付かないのは私以外の全員で、愚鈍な私がどうしようと思っている内に世界はぐるぐる目まぐるしく事態を吸収していくらしく、一政が気付いて小声で私にいった。






「指、食った? 俺の指」






 床に落ちていく血。


 そこで何人かのクラスメイトも気付いたみたいで、「やばいって」とか、「指ねえよ」とか、「えっ? 血じゃね?」とか、ぐるぐる考え出して、「私がやったんだ私がやったんだ私がやったんだ私がやったんだ私が」っなってきちゃって。




 でも口の中に残った一政の指の味は、なんだかしょっぱくて血の鉄っぽい味とか、なんだか美味しいとか思っちゃったんだよね。

 そう思った瞬間に、でもやっぱり無理ってなって吐いちゃって。






 ————






「私、吐いてばっかりですね、今も昔も」


 皮肉っぽく笑ってみせたけど、相野さんは真剣に聞き入っていて厳しい表情を崩さない。


「それで?」


 促すその表情に光る瞳がなにかを探っているように思える。勝手なイメージだけど、警察って目で人を威圧するような気がする。

 それは悪いことをした覚えがなくても萎縮してしまう、そんな剣呑さを備えている気がする。


「それで、なんでか分からないんですけど、一政は転けた拍子に自分で自分の指を噛んじゃったとかいいだして、変に私のこと庇いだしたんですよ。私としても、なんで? って感じだったんですけど、あとになって理由を聞いたら……」


 ちょっと恥ずかしいなと思っても変に疑われても嫌だし、それに一政の容疑の件を聞き出したい気持ちもあるから、なるべく真実を話して相野さんに不審に思われないようにしといた方がいいかなと思って事実をただ伝える。






「一政、私に恋したとかなんとか……」






 相野さん、きょとん。

 そりゃ、そうなるか。

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