002

 噛みちぎったといっても、それはわざとじゃなくて偶然。


 普通の人は故意に他人の指を食べようなんてしないし、私だってそれは同じ。






 私だって普通の人だから。






 昔を思い出して、気分が悪くなりながらも店を出た。


 私にはあの出来事は衝撃的でそれに辛かった。

 最初の頃は一政を見るだけでも吐き気を催したけど、それは次第に慣れてきて問題なくなった。それでも不意にあの味が口の中に蘇る時、私はいまだに一政の薬指一本、それも第一関節から先に囚われているのだなと感じる。


 でも正直それよりきつかったのが同級生たちの目。


 別にいじめられたりしたわけじゃなかったけど、みんな私を見る目が冷たかったのを覚えている。

 いや、冷たいというより恐怖があったのかもしれない。

 本人たちから聞いたわけじゃないからちゃんとは分からないけれど。




 外の空気は思っていた以上に体に纏わりつくし、日差しは私を非難するように肌に突き刺さってきて、暑さがどんどんと体に浸透していくのが分かる。


 ふらふらと危なっかしい足取りのままでは倒れかねない。どこか座れるところがないかなと、きょろきょろと周囲を見回してみる。



 するとカーブミラーに映っていた、黒いパーカーを着た男が私に近づいてきた。






 危ないやつだ。






 黒いパーカーとデニムはうす汚れていて、左足を引きずるように歩いている。


 なによりフードの中に収まった顔から不気味に吊り上がる口が見えていて、どう考えてもおかしい。絶対に異常者だ。




 やばい、逃げないと。 




 でも、こんなときに限って足がもつれて上手に歩くことができない。






「大丈夫ですか?」






 耳をくすぐるような、美しい声。


 それは黒いパーカーを着た男の声。


 私が必死に逃げようとしたその男は知らない内にすぐ横まで来ていて、身なりに似合わない風のざわめきや木々のにぎわい、波のさざめきみたいな自然界の中で耳につきやすい音を混ぜて薄めたような心地よい声をしていた。

 いつまでも聞いていたい。そんな声。


「大丈夫ですか? 体調でも悪いんですか?」




 そのときになってようやく、私は気づいた。

 この人に心配されているんだと。




「あっ、はい。あっ、いや、ちょっと気分が悪いだけで、でも大丈夫です。すみません」


 なにがすみませんなのか分からないけれど、私は謝った。


「あっちのベンチで少し休んだ方がいいですよ」


 男は私の話を聞いているのか聞いていないのかよく分からない、そんな言葉を返してくると、通りからは木の陰に隠れて見えにくくなっている公園の方を、すっと指さす。




 普通に考えたら、普通じゃない。




 どう考えたって、男はいかにもって感じで怪しい。

 こんな男に促されるまま人目の付きにくい公園のベンチに座るなんて、そんなの自殺行為に等しいんじゃない?


 それなのに、






 その声の心地よさのせいで、私はそれを受け入れてしまっていた。






 公園のベンチの方へ歩を進める途中、男は意外にも優しく私を支えてくれた。私は少しの安心を得て、男の全体像を再確認するだけの心のゆとりができた。


 もう一度見たところでパーカーとデニムの汚さに変化はないし、不気味な表情にも変化はなかったけど。


 でもその不気味な表情は、男の意思に反しているものなんじゃないかなと思った。






 男の顔に大きな火傷の痕があったから。

 それが男の表情の変化を著しく困難にしていたから。






 そんな中で男の目は無垢な輝きを放っていて、それが男の顔を余計にアンバランスにしているだけなんじゃないかなって。


「すみません」


「さっきからどうして謝るんですか?」


 男はきょとんと本当にどうしてといった表情をしている。それはなんだか歳に不相応な反応に思えた。

 それに、どうしてって確かにどうしてなんだろう?


「心配してくれた……からですかね?」


 ベンチに座った私を見下ろすようにして、その男はいう。




「心配されると謝るんですか? 感謝ではなく? それに聞きたいことがあるだけですから、心配しているのとは少し違います」




 確かに正論みたいな事をいってるけれど、どうなんだろう。

 それよりも、私が気になるのは、こっち。




「聞きたいこと?」




 ポケットをごそごそと探る男を見据える私。


 女の勘ってやつかな?


 ちゃんとした答えがあるわけじゃないけど、この男が私に聞きたいことは【一政】のことなんだろうなと予感めいたものが渦を巻いて心にすとんと落ちる。


 昔からそうだった。


 一政は良くも悪くも女からも男からも人気があって、それに派生する憎しみや妬みや怒りを普通の人より余計に受け取らなければならない不運さも持ち合わせていた。

 だから今回もそうなんじゃないかなって。




「この男なんですけど」一枚の写真が男のポケットから飛び出す。

「流音一政。知ってますよね」


 当然知ってはいるけれど、どういう意図での質問なのか真意が読み取れないので私は戸惑う。


 知り合いだろうと正直なところ一政とは関わりたくないのに、更にこれが厄介なことだったならもう最悪。

 あんまり悩んでいても怪しまれるかもしれないと思って、素直に答えることにした。


「知ってはいますけど、正直その人とはあんまり関わりたくないんですけど……」






「そんな事は知ったこっちゃないんですよ、わたくしとしては」






 火傷をした顔が見える。声のトーンから怒っているのかなと思ったけれど、口だけじゃなくて顔全体が引き攣っていて不気味な笑顔がお面みたいに張り付いているから、どうなのか分からない。


 男は私に顔を近付ける。






「お姉さん、流音一政の何なんです?」






 突然の詰め寄るような態度に少しいらついたので、「中学の同級生で腐れ縁で今でもご飯食べに行ったりするけど、それがなにか?」と冷たく言い捨てた。


 男はやっぱり怒ってはいなかったのかもしれない。




 さっきまでより口を吊り上がらせて、にやっと不気味を増幅させると写真を握りつぶした。




「探してたんですよ、流音一政の唯一のご友人を。申し遅れましたが、わたくしは相野片爾あいのかたじといいます。一応警察なんてやっておりまして」


 男は一政の写真を出したポケットから、手帳を出した。


 本当に? こういうのってドラマとかではよく見るけど本当なんだ。警察手帳って思ってたより、結構普通。

 っていうか、もしかして一政なんかやったの?


 それよりも私はいわないといけないことがあるのに気付いた。






「ちょっと待ってください。私、あいつと友達なんかじゃないです」






「それじゃあ、さっき流音一政と会っていたのは?」


 さっき一政と会っていたのを見ていた?


 なるほど。カーブミラーの下にいてこちらを窺っていたんだ。私がこの男、相野さんだかを窺うのと同じ要領で。


 警察ってちゃんと仕事してるんだなんて、少し考えた。


「あれは習慣です。あれなんですよ、学生時代にちょっとあいつと色々あって。それで罪滅ぼしみたいな感じで、あいつのいうこと聞いてるんですよ、それが月一回の食事なんです。だから本当に友達とかってわけじゃないんですよ」


「そういうのって、友達とはいわないんですか? 食事に行くなら友達みたいなもんですよね?」


 相野さんがもっともなことをいっているのも分かる。






 でも違う。






「なんていったらいいんですかね、その……」


「学生時代に流音一政とあった【色々】っていうのが何かって教えてもらえますか?」




 やっぱりそうなっちゃうだろうなとは思ってた。

 本当は話したくないし、今は気分が悪いから尚更話したくないのに。




「今じゃないと駄目ですか? そのこと思い出すと気持ち悪くなっちゃうんですよ」


「なるべく早い方がいいのですが、無理にとはいえませんので構いませんよ」


 相野さんは一政の写真と警察手帳が入っていたポケットから名刺を差し出した。

 そこのポケットになんでもかんでも入れすぎじゃない?

 それに一政と一緒で、相野さんも爪を切った方がいいと思う。どうして男って爪を切ることを面倒くさがるんだろう?




「ご都合のいい日をまた、教えてください。疑っているわけじゃないんですが、念のために巴里さんの電話番号を聞いておいてもよいでしょうか?」


 なんだ、もう私の素性はある程度知られてるんだ。なんにも知らない風だったのに名前とかもうばれてるし。


そういえば、




「そういえば、あいつ。あの、流音って何かやったんですか?」




私はどうしても気になってしまう事を確認した。


「流音一政にはですね、あっ、本当はいったら駄目なんですけどね、巴里さんにはお伝えしときますね。わたくし見た目からも分かると思いますけど、不良警官ですから」


 なにが面白いのか意味が分からないけど、相野は不気味に笑ってからいった。






「女性を殺してから死姦して、そのあとに女性の肉を食べたのではないかという容疑が浮上してましてね」

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