第3話:天敵

 青い空に、白い雲。

 風や草木の匂い。

 リゲルにとって物語の中に存在する遠いものだったそれら全てが、今自分の周りに広がっている。

 その事実に感動よりも先に夢でも見ているような実感の無さが先行する。

 巨木の根の下で、リゲルは放心に似た状態で立ち尽くしていた。

 外の世界は、光と色で満ち溢れていた。

 頭がクラクラする。

 視覚情報の処理が追いつかない。

 木の根の下に隠すように作られていた出入り口。

 蓋をしていた平たい岩を避けるとそこは、濃い緑が広がる森の中だった。

 多くの木が生い茂っているため直接日光が降り注いている場所は少ないが、木陰がチラチラと揺れそのたびに光が動く様は宝石のように美しい。

「やった……」

 初めて土と石以外を踏んだ。

 少しチクチクするが、柔らかくてくすぐったい。

「やった」

 じわじわと腹の底が熱くなる。

 ずっと夢見ていた外の世界に、リゲルは今、確かに立っている。

「やったーっ!」

 天にも昇る様な気に持ちは、まさにこのことを言うのだろう。

 感情を抑えることもできず、リゲルは一人喜びはしゃいだ。

 ずっと地中で生きてきたリゲルは知る由もないことではあったが、現在の時間は正午を回った頃。

 カウム族は決して強い種族ではない。

 外の世界には天敵が多く存在する。

 出来る限り危険を回避するために、彼らはおのずと昼間に眠り夜間に行動する生き方をとっていた。

 そう、昼間は危険が多く付きまとう。

 ふいに、後方から物音がした。

 続いて湿った生臭さが漂う。

 地中で暮らすカウム族は聴覚と嗅覚に過ぐれており、リゲルは周囲の変化に気が付き降り向いた。


【どうして外への出入り口を頻繁に変えているかわかるか? 相手も生き物だ。同じことを繰り返せば学ぶ。だから出入り口は固定しない。それでも運悪く待ち伏せをされている時があるから、外に出る際はどんな時でも慎重さを失ってはいけないんだ】


 昔聞かされたカストルの言葉が脳裏を過る。

「ウオオオォォーっ!」

「う、うわああぁーっ!」

 リゲルがさっきまで立っていた木の根の上で、ジャッカルが雄叫びを上げた。

 それに負けないくらいの大声で叫びながら、リゲルは一目散に逃げ出した。

 本当のことを言うと、あれがジャッカルかはわからない。

 本物のジャッカルを目にしたことがないリゲルには、その判断がつかなかった。

 しかし、本能が告げている。

 あれは、命を奪うものだと。

 このままでは殺され食べられると、瞬時に信号が全身を駆け巡った。

 巨大な牙と爪。

 バランスのいい筋肉に覆われたしなやかな身体。

 ぎらぎらと獲物を狙う鋭い瞳。

 自分よりも2倍はあるだろう巨体を持つ生物は確かに、よく聞かされた『ジャッカル』の特徴と一致している。

 走った。

 兎に角走った。

 四本の手足で地面を蹴り、知らぬ世界を駆けまわる。

 後ろから粗い息遣いがどんどん近付いてきている。

 足音は静かで分かりにくいが、息遣いや生臭い吐息、僅かに振動する地面のおかげで、何となくだがジャッカルとの距離を測ることができた。

 しかし、いくら距離を測ることができても、救いにならないのが現実だった。

 身体の大きさが歴然のため、走る速度もリーチも違う。

 おまけに相手はハンターだ。

 さっき地中から出てきたばかりで逃げることにも慣れていないリゲルに勝ち目など微塵もない。

 それでも、そんなことを考えている暇はない。

 無我夢中で逃げる。

 恐怖だけが全身を支配し、景色を認識する余裕もない。

 顔のすぐ横を、牙が通る。

 ガキンと牙と牙が合わさる音がした。

 あんなものに挟まれたらひとたまりもないだろう。

 爪が頭上を通り過ぎる。

 木の幹に当たったのか、木屑や葉っぱが大量に降り注いだ。

 まるで黒い線の羅列のように風景が流れる。

 ――死ぬ。

 直感で思った。

 恐怖で涙が溢れて視界が霞む。

 またも爪が振り下ろされるが、空気の動きを感じ取りギリギリでかわす。

 イラついたような唸り声が、すぐ後ろから聞こえてくる。

 木の幹を利用し、少しでも姿を隠しながら走り続ける。

 身体能力から考えてとっくに追いつかれてもおかしくはないのだが、この辺りには岩が多く点在しているおかげかジャッカルは思い通りに身動きがとれていないようだった。

 対して小柄なリゲルは限られた空間でもするすると動き回ることができる上に、こまめに身を隠せる壁に守られているも同然。

 そんな偶然の立地が、勝ち目のなに勝負を少なからず引き延ばすも、2匹の力の差が埋まることは無かった。

 とうとうジャッカルの手がリゲルをとらえる。

 川から鮭を叩き出す熊と同じ要領で、リゲルを岩の隙間から無理やり引き出したのだ。

 脇腹を思い切り殴られたリゲルは、なすすべなく硬い地面に叩きつけられる。

 連続する衝撃で、上手く息ができない。

 おまけに全速力で走り続けた肉体疲労で起き上がろうにも身体が言うことをきかなかった。

 近くに隠れられる場所のひとつもない、開けた場所だった。

 ずっと木の葉の上に隠れていた太陽の光が、まんべんなく降り注ぐ。

 視界の先で、ジャッカルがゆっくりと近づいてくるのが確認できた。

 必死に後ずさるが行動虚しく、気が付けばジャッカルの顔が目の前にあった。

 剥きだしの牙が唾液で光っている。

 喉の奥から漏れる唸り声に、身がすくんだ。

 今度こそ死ぬ。

 糸を引きながら開かれた口の中を見ていられず、目を閉じたその時だった。

「うわぁ!」

 地面が崩れ、落下する。

 石が崩れる音と供に、ジャッカルの驚いた鳴き声が聞こえた。

 無い上がる土ぼこりが鼻と器官に入って咽返る。

 目を開けると一緒に振って来ただろう石で出来た長方形のブロックが無造作に散乱しているのが確認できた。

 頭上から、ジャッカルの鳴き声が聞こえる。

 見上げると、2メートル程上でリゲルが落ちた穴から首を突っ込み、必死に牙を鳴らしているジャッカルの姿。

 どうやら穴が小さく、それ以上は入ってこられないらしい。

 リゲルが落ちたのは、人工的に作られたであろう地下通路だった。

 四角く切り取られたブロックが四方を囲み、かなりの年月が経っているのか蔦や蜘蛛の巣が非常に目立つ。

 隅には昆虫や小動物の死骸も転がっていた。

 元々脆くなっていた部分にリゲルとジャッカルの体重が加わったことで、天井が抜けたらしい。

 ブロックに手足を挟まれていたら骨の1本でも折れていたところだろうが、幸運なことに目立った外傷はないようだった。

 未だ諦めきれないのか、ジャッカルはなおも首を突っ込み、穴を広げようと足掻いている。

 リゲルは慌てて立ち上がり周囲を確認した。

 前と後ろ、伸びるのは真っ暗な空間。

 どちらに行くのが正解なのか、その先に何があるのかなど見当もつかなかったが、ジャッカルから逃げたい一心で、リゲルは前方に続く暗闇へと掛け込んだ。

 生憎、暗がりへの恐怖心は持ち合わせていない。

 あんなに嫌っていた暗がりが、この時ばかりは心地よく感じた。











  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る