第8話【権謀術数】

どうして僕は、人を殺して平然としていられるんだろう?


やっぱり、犯罪者の子供だからなのか。


それとも、危険な香りに気付くこともなく、吸い寄せられてくる女性たちに無関心だからなのか。


僕は高校の入学式で鮫島ユリと出会うまで、そんなことを考える時間が多かった。


自分の唇で命を奪った女性の数は、正確には覚えていない。


そもそも、どうして自分にキスをした女性が様々な形で命を落とすのかもわからない。


きっと、科学的な根拠なんてないんだろう。


あの頃わかっていたことと言えば、自分の父親は何十人もの女性たちを殺し、僕自身も多くの女性を殺したという事実だけ。


そして、幼い頃僕を捨てて出て行ったはずの母親が、実は父さんに殺されていたと知ったのは、中学校の卒業式の日だった。


「キミが、影野康仁くん?」


学校から帰宅すると、家の前に見知らぬ男が立っていた。


年は30代前半くらいに見えた。


均整の取れた体つきでダークグレイのスーツを着こなし、黒髪をオールバックにきめているその男は、こちらへゆっくりと距離を詰める。


「あの……どちら様ですか?」


霧島きりしま じゅん。キミのお父さんとは、10年来の知り合いでね……。それにしても、話に聞いていた通りの美少年だな。こりゃ、モテるわけだ。その年齢で、今まで何人の女を泣かせて来たんだ?」


霧島さんはボタンが全て無くなった、僕のブレザーを見て笑った。


そして、僕が無言で霧島さんを睨むと苦笑を浮かべて口を開いた。


「冗談はさておき。今日は、少しだけキミと話がしたくて会いに来たんだ。直人なおとさん、今朝から出掛けているんでしょ? 一人息子の卒業式にも出ずに……」


直人というのは、僕の父親の名前だ。


知り合いとはいえ、どうして霧島さんは父さんの予定を把握しているんだ?


この男は、一体何者なのか。


僕は警戒心を強めたけれど、霧島さんは気にする様子もなく歩み寄って、耳元でこう囁いた。


「直人さんが何十人もの女性を殺しているのは知っているよね? その中に、キミのお母さんも含まれているって知ってた?」


「えっ……?」


霧島さんの言葉に、僕は思わず身震いした。


今まで、最悪なケースを考えなかったわけじゃない。


ただ、確信が持てなかった。


もしかしたら、自分の母親は父さんの異常さに恐れを抱いて逃げ出したのかもしれない。


その可能性を、否定できなかったからだ。


「もし、興味があるのなら、直人さんの部屋にあるサイドボードの1段目を開けてみるといい。置き場所が変わっていなければ、キミのお母さんのモノも、必ずそこにあるはずだ」


「母さんのモノ……?」


「ああ。それを見て、お母さんがどんな方法で殺されたのか知りたくなったら、ここへおいで」


そう言って不敵な笑みを浮かべた霧島さんは、僕のブレザーの胸ポケットに1枚の名刺を入れて立ち去った。


僕は、母さんの顔を覚えていない。


父さんからは、僕が生まれて間もない頃家族を捨てて出て行ったとだけ聞かされていた。


まさか本当に、自分の妻を手に掛けていたとは……。


正直、驚いた。


そもそも、父さんが殺人鬼であることを知ったのも、殺す直前に被害者たちとした極上のSEXについて本人が自慢気に語っていたからだ。


どうやら彼は、性欲が高まると殺人衝動を抑えることができないらしい。


小学校高学年で初めてその話を聞いた時、狂っているとは思ったけど、別に警察に通報しようとは考えなかった。


きっと、父さんに対して僕が無関心だったことが影響していたんだろう。


それに、犯罪者の子供だなんて世間に知られたくもなかった。



僕は家に入るなり、階段を昇って2階の角に位置する父さんの部屋へ向かった。


鍵の掛かっていない、木製のドアを開ける。


普段から一切入ることのない空間は、綺麗に整頓されていたけれど、タバコの臭いだけは不快だった。


これかな……。


部屋の一番右奥。


窓とは反対側の壁際に置かれた、黒いサイドボード。


霧島さんの言っていた1段目を、僕はゆっくりと引き出す。


するとそこには、直径5センチメートル程の円柱のケースが、まるでボーリングのピンを上から見たように逆三角形に10個並べられていた。


ケースは白いプラスチック製で、中は見えない。


一体何が入ってるんだろう……?


一番手前に位置するケースを手に取って、蓋を外す瞬間。


まるで宝箱を開ける時のように、僕の胸は高鳴った。


ケースの中には、人の眼球を型取った標本が入っていた。


食品サンプルを作る仕事をしている、父さんのことだ。


殺した女性たちのコレクションとして、樹脂か何かで作っているんだろう。


それにしても、よく出来てる……。


不気味なほどリアルな眼球は、僕と同じダークブラウンの瞳。


ケースの蓋の裏側には《A.Kageno》と書かれたシールが貼られていた。


きっと、これが霧島さんの話していた僕の母さん……影野かげの 麻実あさみのモノだ。


ん? 何だ……これ?


眼球の部分を注意深く見ると、コンタクトレンズが付けられていることに気付いた。


まさか、本人が付けていたモノ?


僕は右手の人差し指と親指で、コンタクトレンズをそっと外した。


次の瞬間、見たことのない光景が頭の中へ流れ込んでくる。


薄暗い部屋。


血塗れの刃物をもつ、父さんの姿。


第1関節で切り落とされた、左手の薬指。


『アイツヲコロシタイ……』


それと共に、突如聞こえた無機質な女性の声に僕は驚いて、反射的にコンタクトレンズを元の位置へ戻した。


今の声は……?


心の中で呟いたのと同時に、今度は激しい動悸が僕を襲う。


立っていられず、崩れ落ちるカラダ。


『アイツヲコロシテ……』


再び響いたこの声は、ひょっとして母さんの声なのか?


僕は床に倒れこんだまま、喧しい心音を鎮めるため、深呼吸をしながら胸に手を当てた。


血液の循環と共に湧き上がる、今までに抱いたことのない父さんへの殺意。


まるでドス黒い負の感情が、自分の中に根付いて行くようだ。


『アイツを殺して……』


さっきまで無機質だった声には、次第に抑揚がついていく。


「アイツを……殺す……」


そして、意思に反して自分の口からその言葉が溢れた直後、心音は驚くほど静かになった。


自分の中に、異質なモノが存在する感覚。


自分であって自分じゃないみたいだ。


僕はその感覚に戸惑いながらも、ゆっくりと上体を起こした。


そうだ、さっき霧島さんが入れた名刺……。


胸ポケットから取り出した名刺には《Origin》という、池袋にあるバーの所在地と、彼の携帯番号が書かれていた。


僕は自分の携帯電話を取り出して、その番号をダイヤルする。


「もしもし」


4回目のコールで、霧島さんは電話に出た。


「あの……影野です」


「ああ、康仁くんか。どうだ、アレを見た感想は?」


「……悪趣味だと思いました」


「まあ、普通はそう言うわな。あれだけリアルな眼球を作って、コレクションにしている時点で、直人さんは十分イカれてる」


「霧島さんは、僕の父さんが母さんを殺した時、その場に居たんですか?」


「……ああ、俺は一部始終をカメラで撮影してた。キミが望むなら、その映像を見せてあげるよ。今から、店に来るかい?」


「はい、すぐに行きます」


通話を終えた僕は、引き出しの中身を全て元の状態に戻し、私服に着替えて家を出た。


豊島区南大塚にある自宅から、歩いて25分。


池袋駅西口の繁華街の中に、そのお店はあった。


僕が木製のドアを開けると、白いシャツに黒のベストを着た霧島さんが店の奥から出て来た。


店の中はカウンター席が5つと、テーブル席が3つ。


カウンター奥の棚には、数十種類のリキュールが並べられている。


「いらっしゃい、ドアの鍵だけ閉めて来てくれるかい?」


霧島さんの言葉に頷き、僕は入口の鍵をかけた。


「さあ、奥へ行こう。キミには真実を知る権利がある」


霧島さんに案内された部屋は、3畳くらいの狭い空間だった。


「どうぞ、座って」


事務作業用なのか机の上にノートパソコンが置かれていて、僕はその前へ座るように促された。


「えっと、ちょっと待ってね……」


霧島さんはパソコンにヘッドホンを繋いで僕に手渡すとデータファイルの中から1つの動画を選んだ。


僕はヘッドホンをつけ、画面を注視する。


再生された動画の中で、母さんは手術用のベッドの上で両手首と両足首、そして首元を拘束されて、下着姿のまま仰向けに寝ていた。


薄汚れた部屋の中には、彼女の恐怖に満ちた荒い息遣いが響いている。


「麻実……残念だよ。お前だけは、俺を心から愛してくれると思っていたのに……。俺を傷付けた罪は、とても重い」


父さんは淡々と告げながら、ナイフを右手に母さんへ近付く。


「やっ、やめて……どうして……?」


「康仁が生まれてから、お前は俺を見なくなった。俺はこんなにお前を愛しているのに……。お前はいつだって、康仁に夢中だ。全くヒドイ女だよ」


そう言って父さんは躊躇うことなく、母さんの左手を押さえ付けて、薬指にナイフを突き刺した。


耳を劈くような、母さんの悲鳴。


第1関節から切り落とされた、細い薬指。


傷口から溢れる、血液。


「それでも、麻実は特別だから……。こうして映像に残して、殺した瞬間を何度も何度も楽しむことにしたよ」


父さんは笑いながらナイフに付いた母さんの血液を舐め、ズボンの上から左手で自分の股間を撫でた。


「いや……お願い……やめて……」


拘束された手足をばたつかせ、恐怖に顔を歪めた母さんに欲情したのか、父さんはズボンとトランクスを脱いだ。


「最期に俺を目一杯楽しませてくれよ」


母さんの下着をナイフで切り裂き、今度は右手にナイフを突き刺す。


再び与えられた激痛に悲鳴を上げる母さん。


拘束していた両足首だけを自由にすると父さんは彼女の両脚を広げて、秘部をしつこく舐め回した。


ビチャビチャといやらしい音が響く。


時折蜜を啜るような音が聴こえて、僕の鼓動は更に早まり、自分の局部が膨らんで行った。


父さんは舌を動かしながら、秘部に右手の中指と薬指を沈めて母さんのナカを搔き回す。


この親にしてこの子あり。


こんな場面を見ながら欲情している僕自身も、やはり最低な人間だと思った。


そして父さんは指を引き抜いて母さんの上へ跨ると、自身の欲望を突っ込んで、無我夢中で何度も何度も腰を振った。


苦痛と恐怖に塗れた女の声と、極上の快楽に浸る男の喘ぎ。


最悪な映像。


鼓膜を揺らす生々しい音と、目の前に映し出される光景に、僕は殺意と性欲を同時に刺激されていた。


やがて、母さんのナカで果てた父さんは右手に刺さったままのナイフを引き抜き、彼女の喉元を横一線に切り裂いた。


盛大に舞い上がった血飛沫が、彼女と殺人鬼を赤く染める。


血の臭いに再び欲情したのか、殺人鬼は屍相手に狂ったように行為を続けていた。


『アイツを殺して……』


さっき聞こえた声は、やっぱり母さんのものだ。


映像を見終えた僕は、ゆっくりとヘッドホンを外した。


「どうだい? 母親の死の瞬間を目の当たりにした気分は?」


「最悪ですね。霧島さん、こんなモノを撮影していたあなたも、十分狂ってますよ」


「あはは……そうだな。でもね、どんなAVよりもこの映像が一番興奮できる」


同じ穴の狢……か。


「そもそも、なんで霧島さんは、母さんが殺された現場に居合わせたんですか?」


怒鳴るわけでもなく、淡々と尋ねる僕に霧島さんは少しだけ顔を引きつらせた。


「当時バイトしてた飲み屋で知り合った直人さんに、誘われたんだよ。人が殺される瞬間を見たくないか?ってね。

興味本位で見たあの光景は、本当に衝撃的だった。まして、殺した女性の眼球を標本にするなんて正気の沙汰とは思えなかった……。

だけど、あんなことが平然とできてしまう直人さんに、俺は惹かれた。それと同時に、彼の息子であるキミにも興味を持った。キミはどんな人間で、この真実を知ってどう動くのか、その答えを知りたくなったんだ」


霧島さんの言葉に黙って耳を傾けていた僕は、鋭い視線を向けたまま口を開いた。


「僕は近いうちに、父さんを殺します……」


「へぇ……それは、キミの意思? それとも、キミの中に居る麻実さんの意思?」


思いがけず核心に迫った霧島さんの問いに、僕は驚きを隠すことができなかった。


「どうして? って顔をしているね。実はさっき会ったとき、俺にはキミに麻実さんが重なって見えたんだ」


多分、霧島さんには《そういった類のモノ》が見えるんだろう。


信じる信じないはこの際どうでもいい。


僕は隠すことはせず、彼に事実を説明した。



「なるほど……。殺人鬼は自分の息子に殺される……なかなか悪くないラストだ。直人さんには悪いが、俺はキミが気に入ったよ。何か力になれることがあれば、いつでも頼ってくれ。死体の処理に人探しや尾行、情報収集も得意なんでね」


「……ありがとうございます」


口先だけのお礼を言って、僕は立ち上がった。


「ところで、康仁くんは人を殺したことってあるのかい?」


「さぁ……どうでしょう?」


「やっぱり、すぐには信用してもらえないか。まあ、そのうち気が向いたら話を聞かせてくれ」


霧島さんが僕の肩を叩いて笑った。


この男を信用するかどうか。


復讐を果たすまでは、しばらく様子を見よう……。


僕は軽く頭を下げてお店を出た。


そして、自宅へ戻りながら父さんの殺害方法を繰り返し考えていた。



それから2週間半後、僕は高校に入学して、とても興味深い女と出会った。


鮫島ユリ……優等生の仮面を被った同級生。


放課後の教室で話してみると、母子家庭で育った彼女も、親に対する憎しみを胸に秘めた人間だった。


きっと話を聞いて、彼女も僕に親近感を覚えたはずだ。


父さんへの復讐を果たすための協力者として、僕は鮫島ユリを選んだ。


協力者と言っても、彼女の手で殺人鬼を殺すわけじゃない。


必要だったのは、情緒不安定な彼女の母親が使用しているという強力なバルビツール系の睡眠導入剤。


父さんが家にいる時は必ず食事と晩酌用の水割りを作るのが僕の仕事である以上、その中にクスリを入れるチャンスはいくらでもある。


そして、狙いはその後。


いくら殺人鬼とはいえ、睡魔には勝てないだろう。


クスリによる強制的な睡眠効果と、入浴時の驚愕反射による急激な血圧低下を利用して、意識障害を起こして父さんを溺死させる。


ユリから睡眠導入剤を受け取った翌日、僕は計画を遂行した。


いつものように夕飯を作り、水割りの中へ細かく砕いたクスリを混ぜた。


何食わぬ顔でそれをテーブルへ並べて、自分は黙々と箸を進める。


会話のない食卓には、テレビの音だけが響く。


温度のない、無機質な家庭。


いつもと変わらない光景。


そんな中、父さんがグラスに口をつける瞬間だけは、さすがに僕も鼓動が早まった。


味の変化には、気付いていないのかな?


そう思っていると、半分ほど飲み終えたところで、突然父さんが口を開いた。


「明日は外で済ませるから、食事の支度はしなくていいぞ」


「うん……わかった」


必要最低限の短いやり取り。


きっと、また女を落としにいくんだろう。


父さんが饒舌になるのは、酒が入って過去に殺した女たちの話をするときだけだ。


基本的に、僕へ対する関心は薄い。


息子に嫉妬して妻を殺したにも関わらず、怒りの矛先を向けることがない彼の行動は少し不可解だったけど、僕にとっては都合が良かった。


食事を終えてしばらくすると、父さんは眠そうに欠伸をしながら風呂場へ向かった。


そろそろクスリが効き始める頃だ……。


食後の片付けをしながら、僕は不敵な笑みを浮かべた。


熱いお湯に浸かると、人間のカラダは驚愕反射を起こし、血管は一時的に収縮して血圧が急上昇する。


その後、血圧を下げようとする働きによって今度は急激な血圧低下がおこり、意識が朦朧とするんだ。


もちろん、必ず意識障害を起こす訳じゃ無いけど、睡眠導入剤との相乗効果でそれを起こすことは可能だった。


様子を見るために僕が風呂場へ向かうと、既に父さんのカラダは滑り、顎のあたりまでお湯に浸かっていた。


殺人鬼のあまりにもだらしのない姿に、思わず緩む口元。


『早く、殺して……』


母さんの声に導かれ、殺意に流されるまま動く両手。


僕は彼の頭を押さえつけ、お湯の中へ沈めた。


さよなら……父さん。


この日、初めて僕は自分の手で人を殺した。



あくまでも入浴中の事故死に見せかけて、若くして両親を失った哀れな高校生を演じる。


それが、自分にとってデメリットがなく、母さんの復讐を果たす方法だった。


そして、葬儀や納骨、父さんの死に関する全てが終わった数ヶ月後。


僕はカラダの異変に気付いた。


夕飯の支度中に誤って包丁で切ってしまった指の傷口が、僅か数秒で塞がったんだ。


まさかとは思ったけど、試しに左手の人差し指を切ってみるとほぼ痛みは感じない。


それどころか、異常な回復スピードで、何事も無かったかのように傷が治ってしまった。


自分が自分ではなくなっていく感覚。


更に僕の中に居る母さんを受け入れたことで、殺意や憎悪といった負の感情を認識する時間が増えていった。


『ヤスヒト……。あなたにキスをした女性は、呪われて死ぬわ……』


彼女の声が頭の中で響く度に、僕のダークブラウンの瞳には怪しい輝きが宿る。


『復讐に協力してもらったお礼に、あの子を苦しめている母親も、ヤスヒトの唇で殺してあげましょう……?』


それはまるで、悪魔の囁きだった。


しかし、ユリが幼少の頃から母親に苦しめられて来たのも事実だ。


僕は言葉に流されるまま、次の獲物にユリの母親を選んだ。


ただ、僕の周囲で立て続けに人が死ねば違和感を覚える人間も出てくるかもしれない。


警察だって、バカじゃない。


カンの鋭いヤツはいるかもしれないんだ。


たとえ証拠がなくてもマークされる危険性を避けるために、僕はしばらくの間霧島さんにユリの母親の行動を探ってもらい、自分が動く機会を伺っていた。



そして迎えた、高校3年生の春。


僕は自分の中にもう1つ、不思議な力を秘めていることに気付いた。


それは僕に告白をしてきた、名前も知らない1年生の女子生徒をフった時。


ショックだったのか泣き続ける彼女に辟易して、自分への好意を消してくれと心の中で願った。


すると、彼女はまるで僕の願いを叶えるかのように泣き止み、興味まで無くしたようにその場から去って行ったんだ。


もしかしたら、目が合った女性を意のままに操ることができるんじゃないか?


都合のいい解釈かもしれないけど、試してみる価値はある……。



翌日。僕はユリが塾へ行っている時間帯を狙って、仕事先から帰宅する途中の母親に接触した。


パンツスーツを着こなし、ショートカットにメガネを掛けた、生真面目そうな女。


細い路地ですれ違いざまに目を合わせて、自分にキスをするように心の中で呟く。


すると彼女は、不思議な力に引き寄せられるように唇を重ねてきた。


ようやく、ユリもこれで自由になれるんだ……。


僕の狙い通り、その夜ユリの母親は眠っている間に心筋梗塞を起こして、死亡した。


だけど、僕にとって予想外のことが起きた。


焼香をしにユリの自宅を訪ねると、あれほど憎しみを抱いていた彼女が母親の死を悲しみ、涙を流していたんだ。


なぜ、ユリは泣いているんだ……?


日を追うごとにやつれていく彼女の姿を見た僕は、疑問を抱いた。


「私ね、小さい頃からお母さんが嫌いだったの。自分の思い通りにならないとすぐ怒って叩くし、大人になったらいつか復讐してやろうって思ったこともあった」


「うん……」


「それなのに、どうしてかな? あれ程憎んでいたはずなのに、どうしてこんなに悲しいんだろう……?」


ポツリポツリと言葉を紡ぎながら、涙を流す彼女の言葉を聞いた時、僕は初めて人を殺したことに対する罪悪感に襲われた。


そうか……ユリ、キミは……。


このままでは、ユリが壊れてしまう。


僕は彼女の憎しみを父親へ向けさせるため、咄嗟に悪魔の言葉を囁いた。


「憎む相手は、別にいるだろ?」


自分の言葉に、ユリが驚きの声を上げる。


「父親が自分だけ幸せになる道を選んだから、キミたち親子はあれだけ苦しんだんじゃないか。許せるのか? そんな父親を……。復讐したくないのか? そんな最低の男に……」


考え込むようにしばらく沈黙を続けた後、力強く見開いたユリの両眼は、優等生を演じてきた彼女のものとは思えないほど血走っていた。


「あの男を……殺してやりたい」


この返事を聞いた瞬間、僕は安堵し、殺意と憎しみを纏うユリの美しさに惹かれ、自分からキスをした。


僕にキスをした女性は命を落とすが、僕からキスをしたユリは死ぬことは無い。


そして、復讐に駆り立てることで、生きる目的を与えることには成功した。


だが、実際に復讐を果たしてしまったら、目的が無くなってしまう。


何より、殺意と憎しみを纏う美しい彼女が消えてしまうことが嫌だった。


《人を殺したくてたまらない自分》と


《ユリに復讐を果たして欲しくない自分》


だったら僕が、ユリを苦しめたヤツらを殺せばいい……。


《二人》の利害は一致していた。


ユリが20歳の誕生日を迎える、数ヶ月前。


僕は手始めに、父親と肉体関係を持ったマオというキャバ嬢を殺すことに決めた。


マオの情報を得るために、霧島さんの店に出入りしていた同じキャバクラで働くリナという女を利用した。


リナはマオを心底嫌っていたから、彼女が交通事故で死んだ時は嬉しそうに笑ってた。


他人の不幸は蜜の味。


本当に女って生物は、醜くておぞましい。


マオとSEXを終えホテルから出る時、死の直前に悪夢を見るように念じたが、一体彼女はどんな幻を見たのだろう?


苦しみながら死んでくれていれば良いんだけど……。


その真偽を知ることができないのは、少しだけ残念に思った。


次いで、ユリの父親が不在の時を狙って中村夫妻が経営する店へ行き、サナエに近付いた。


夫との冷めきった関係に、ウンザリしていたんだろう。


僕が優しい言葉をかけ、好意のある素振りを見せるとサナエはいとも簡単に堕ちた。


ユリの母親を裏切って手に入れた男に、今度は自分が捨てられる。


そんな焦燥感に駆られながらも、必死に僕の唇とカラダを求め、ベッドの中で涙を浮かべて快楽に溺れる彼女の姿は、ひどく滑稽に見えた。


サナエの喘ぎ声を聞く度に不快感が増して行き、自分の両手で彼女の首を絞めてしまいたくなる衝動を堪えることが何より大変だった。


それでも、ユリを傷付け苦しめた人間を全て殺すまで、僕は仮面を被り続ける……。


「サナエさんは、いつまで我慢の生活を続けるんですか? ご主人は今も新しい女に夢中で、きっとこれからもあなたに目を向けることなんてありませんよ」


「そうね……。もう、限界なのかもしれないわね……」


「だったら、自分の本当の気持ちを解放しちゃいましょうよ……。僕で良ければ、今後も相談に乗りますよ。もちろんあなたが持て余している性欲を満たすことも……」


ベッドの中で甘く低い声で囁くとサナエは黙って頷き、僕の腕の中で夫に対する不満を膨れ上がらせていた。



それから数週間が経った、10月10日。


遂に不満は憎しみに変わり、自分の奥底に眠っていた殺人衝動を抑えきれなくなったサナエは夫を殺害。


そして、口を封じられるように、大塚警察署の留置所で突然死した。


これでユリは美しいままで、僕の傍に居てくれる。


計画通りの結末を迎え、僕がユリの復讐を阻止できたことに喜んでいたのも束の間。


サナエの残した《銀髪の若い男》という言葉を手掛かりに、今度は刑事に目を付けられた。


偶然にも、バイト先のマッサージ店へ聞き込みに来た刑事の口から、サナエの名前が出た時は少し驚いた。


だが、不思議と焦りは無かった。


対象が代わろうとも、僕のやることは変わらない。


ユリと自分の秘密を探ろうとする者はウソで騙し、術中にはめ、全て消す。


そして、《自分の本当の望み》を叶える。


私利私欲のための殺戮をするだけだ。


さて、どうやって彼らを消すべきか……。


チャンスを伺っていた僕にとって、大晦日に池袋で起きた通り魔事件は、予想外の犠牲者を出したとはいえ、刑事たちを誘き出す絶好の場だった。


わざと自分の足跡を残した上で証拠となる目撃情報は消し、彼らの疑心と真実を知りたいという欲望を駆り立てた。


その結果、僕の掌の上で転がされ、この店へ足を踏み入れてしまったヨウコさんと藤原という2人の刑事。


そして、仮面を剥がされ、本能の赴くままに行動したユリは、躊躇いもなく邪魔者を排除した。


「一体どうやって、赤城陽子を殺したの?」


ユリは右手に刃物を持ったまま、屍と化した2人の横を通り過ぎ、僕の隣へ腰を下ろした。


「唇さ……」


「……唇?」


訝しげな視線を送る彼女に、僕は苦く微笑む。


「ああ。僕はもう、ウソはつかないよ。やっとキミに全てを話せる時が来たんだから……」


血の匂いが立ち込めたバーの中で、僕の穏やかな声が響いた。

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