第6話【邂逅遭遇】

鮫島ユリと出会った後、結局銀髪の男に関する情報が得られないまま迎えた大晦日。


ヨウコと藤原は大塚警察署内で、今年最後の調書作成に追われていた。


これが終われば、明日は非番だ。


仕事後に飲みに行く約束を交わしていた2人は、少しでも早く作業を終わらせるため躍起になっていた。


しかし、彼女たちの期待も虚しく、穏やかな年越しを妨げるかのように大塚警察署刑事課へ1本の報せが入ったのは、日没前の午後4時25分。


『池袋警察署管内、池袋駅東口五差路付近にて無差別殺傷事件が発生』


戦慄の事件発生を告げたその言葉は一瞬にして、緊迫した空気を署内に漂わせた。


『犯人は黒い衣服を着用した、20歳前後の女性。凶器は刃渡り20センチ程度の包丁を複数所持していると思料……』


そこまでの情報を耳に入れたところで、ヨウコと藤原は部屋を飛び出し、慌ただしい足音を響かせながら階段を駆け下りた。


藤原は車の運転席に、ヨウコは助手席に乗り込み、現場へ急行した。



響き渡るサイレンと、飛び交う怒号。


そして、血に塗れ横たわる女性の傍らで慟哭する子供。


一報を受けてから10分とかからずに2人が駆け付けた池袋駅東口五差路周辺の現場は、想像を遥かに超える地獄絵図だった。


ヨウコの左側に位置するauショップには犯人が運転していたであろうワゴン車が頭から突っ込み、ガラスの破片が歩道のあちらこちらにも飛散している。


そして、サンシャイン通りへ続く横断歩道の白線に残された、複数の血痕。


僅か数分で、一体何人の尊い命が奪われたのだろうか。


顔をしかめたヨウコの視線は、自然とその血が指し示す第2の事件現場へ向いていた。


それと時を同じくして、すぐそばに位置する警察官の無線には、犯人の身柄確保の報せが入った。


しかし、安堵の息を漏らしたのも束の間。


後に続いた言葉は、信じられないものだった。


『なお、犯人はシネマサンシャイン付近の路上で突如うつぶせに倒れたとの目撃情報があった後、犯行に使用した凶器を拾った通行人の女性によって、腰背部を複数回刺されており、現在意識不明の重体。また、犯人を襲った女性は駆け付けた数名の警察職員によって取り押さえられ、池袋警察署へ移送中……』


そのとんでもない報告内容に、再びどよめく現場。


報告をしている警察官自身も、かなり気が動転しているのだろう。


まくしたてるように発する言葉を聞く限り、こちらからの問いかけに答える余裕は無さそうだ。


―――― ここにいても埒が明かない。指示を待つより、直接自分の目で状況を確認する方が早いか……。


増員された救急隊員が負傷者の処置を急ぎ、制服姿の警察職員が現場保持のためテープを張り巡らせる中、藤原も同じことを思ったらしい。


「先輩、自分たちも行きましょう!」


溌剌とした声を上げ、一足先に駆け出した背中を追うように、ヨウコもサンシャイン通りへ向かって地面を蹴った。


おそらく犯人は東口五差路で車を降り、無差別に通行人を刃物で殺傷しながら、移動したのだろう。


あちらこちらに残された惨状を見れば、報告を待たずともそこまでの想像は容易につく。


だが、問題はその後。


一体何が起こり、犯人は倒れたのか。


そして、なぜ通行人の女性は犯人に襲い掛かったのか。


事件の真相を知るべく、少しでも先を急ごうとしていたヨウコたちだったが、ロッテリアの前に辿り着いたところで思わずその足を止めた。


―――― 最悪だ。


本当にここは連日多くの人々で賑わう、サンシャイン通りなのだろうか。


日没を迎え、街灯に照らされた空間すべてが恐怖と混乱に包まれ、2人の足元には五差路とは比べ物にならないほどの血の海が広がっている。


まるで戦場と見間違う程の、阿鼻叫喚の世界。


「ウソだろ……」


隣に立つ藤原が、そうこぼしたのも無理はない。


ここまでの惨劇を起こした犯人が、たった1人の若い女とは到底信じられないのだ。


無論、ヨウコも同じ気持ちで愕然としていたが、ジャケットの内ポケットで震えた携帯電話によって我に返った。


取り出した携帯の画面には、刑事課強行犯係長である氷野警部補の名前が表示されている。


「はい、赤城です」


「お前、今どの辺りにいる?」


「藤原と一緒に、サンシャイン通り入口のロッテリア付近にいます」


「そうか。被疑者の身柄確保の報告は受けたか?」


「はい。それにしても、とんでもないことになりましたね」


「全くだ。通り魔が犯行途中で倒れた挙句、自分の手放した凶器で通行人に刺されて意識不明の重体なんて、前代未聞だぞ。今回も、被疑者死亡なんてことにならなきゃ良いがな……」


「救急搬送されてからの情報は?」


「まだだ……。現場は相当混乱している状態だろうが、ひとまずお前たちは目撃者からの情報収集にあたってくれ。また詳しい情報が入り次第、連絡する」


「了解」


どうやら池袋署に特捜本部が設置されるのを受けて、大塚署も協力体制を整えるのに慌ただしくなっているようだ。


受話器の向こうから聞こえてくる音も、騒がしい。


ヨウコは手短に電話を切り、係長からの指示を藤原にも伝えた。


「……まずは、あの男に話を聞いてみよう」


周囲を見回し、聞き込みの対象者を選択したヨウコの視線の先には、路上に一人で座り込み、膝を抱えたままガタガタと震えている小太りな男の姿があった。


彼は真冬の寒さに凍えているのではなく、事件現場に居合わせた恐怖に怯えているのだろう。


顔面を蒼白にして、ブツブツと独り言を呟いている。


見たところ、年齢は30代後半といったところか。


何か情報を聞き出せれば良いが……。


一抹の不安を胸に、ヨウコは男の傍へ歩み寄る。


「あの、すみません」


なるべく驚かせることのないよう、穏やかな声を出したヨウコに気付くと、男はゆっくり顔を上げた。


「けっ、警察……?」


「はい。大塚警察署刑事課の赤城と申します」


「同じく、藤原です」


2人の刑事が顔写真付きの警察手帳を取り出すと、なぜか男は見る見るうちに顔面を紅潮させ、勢い良く立ち上がった。


「なんで……なんで、もっと早く駆け付けてくれなかったんですか!?」


突如投げつけられた抗議の声に、ヨウコと藤原は思わず目を丸くした。


そんな2人の様子に苛立ちを募らせた男は、更にこう続ける。


「おっ……大勢死んだんですよ! まっ、まだ、幼稚園生くらいの女の子も……あの悪魔みたいな女に、一瞬で喉を切られて……」


目に涙を浮かべ、今にも掴み掛って来そうな勢いでまくしたてた男は、右手に持っていたハンディカメラを差し出した。


「こっ……これを見て貰えれば、どれだけ悲惨な状況だったか……。刑事さんたちにも、わかるはずです!」


まさか、犯行現場を撮影していたのか。


怯えていたわりには、彼も大胆なことをしたものだ。


しかし、犯行当時の映像記録が捜査関係者にとって貴重であることは、紛れも無い事実。


「お借りします……」


ヨウコは男に向けられた敵意にも似た視線を感じながら、両手でそっとカメラを受け取り、再生ボタンを押した。


横から覗き込む藤原と共に小さな画面を食い入るように見ていると、丁度自分たちが今立っているロッテリア周辺で、犯人が次々と通行人に襲いかかる光景が映し出された。


カメラを持つ男の手が恐怖で震えていた為か、画面は上下左右に激しく揺れている。


衝撃的な映像と共に聞こえてくる悲鳴。


パニックに陥り、逃げ惑う人々の姿は、自然とヨウコの心拍数を増加させた。


―――― これが、事件の被疑者か……。


両手に包丁を持ち、黒い衣服に身を包む殺人鬼は報告通り、20歳前後の若い女だった。


彼女の動きからは凶器を振るうことに対する躊躇いが全く感じられず、肩まで伸ばした黒髪をなびかせながら、軽い身のこなしで殺傷を繰り返している。


その様はまるで、アクション映画のワンシーンを彷彿させた。


そして、駆け付けた制服姿の警察官も数秒のうちに仕留められた現実に、ヨウコは表情を強張らせた。


もし、自分がこの殺人鬼と対峙していたとして、果たして止めることができただろうか。


……いや、おそらく自分もこの警察官と同じ末路を辿ったに違いない。


とっさに頭を過ぎった、最悪な状況。


不覚にも、ヨウコの背筋に冷たいものが走った。


だが、その間にも録画された映像は進み、シネマサンシャインを背景に泣き叫ぶ少女が、遂に凶刃に倒れた。


吹き上がる、鮮血。


耳に突き刺さる、悲鳴。


更に犯人はその小さな亡骸を蹴り飛ばし、唾を吐きかけた。


―――― この、悪魔……!


人間の所業とは思えないあまりの惨劇に耐え切れず、ヨウコが心の中で叫んだのとほぼ同時だった。


返り血に塗れた殺人鬼の前に、とても整った顔をした銀髪の青年が現れたのは……。


そして、数秒遅れて藤原が驚きの声を上げる。


画面を注視したまま動揺を隠し切れない後輩の姿に、まさかとは思いながらも、ヨウコは問いかけた。


「……どうしたの?」


「間違いありません、彼です。自分が村岡時子の聞き込みで訪れたマッサージ店にいた、銀髪の青年!」


―――― やっぱり、銀髪の青年は複数の事件に大きく関わっている……!


思いもよらないところで見つけた手掛かりに、ヨウコは慌てて映像を一時停止し、カメラの持ち主である男に詰め寄った。


「すみません、このデータのコピーを取らせて頂けないでしょうか!?」


「もっもう、そんなカメラ……要りませんよ! けっ、刑事さんたちの好きにしてください!」


一体、どうしたというのだろう。


男は額に汗を浮かべながらそう吐き捨てると、突然何かから逃げるように、その場から走り去ってしまった。


「追いかけますか?」


「いや、事件のことを思い出してパニックになっているのかもしれない。これ以上、彼から話を聞くのは酷だわ。それより、続きを確認しないと……」


ヨウコはそう言って、駅の方へ消えて行く男の背中から視線を戻し、再びハンディカメラの再生ボタンを押した。


ところが、犯人が右手に持った刃物を振りかざし、銀髪の青年に襲い掛かった瞬間で突如映像は途切れてしまった。


「えっ!?」


慌ててもう一度初めから再生したが、やはり肝心な部分の録画がない。


それどころか、徐々にカメラの画質は荒くなり、終いには全ての映像記録が消えてしまったのだ。


「そんな……何で!?」


非科学的な現象を目の当たりにし、声を荒げたヨウコの隣で、藤原は咄嗟に男の走り去った方を向いていた。


「今から行って間に合うかわかりませんが、さっきの男を探してきます!」


的確な状況判断と、迅速な行動。


後輩とはいえ、この2つを兼ね備えた藤原が、刑事として自分より優秀なのは間違いない。


―――― 私は一体、何をしているのだろう……。


あっという間に見えなくなった彼の後ろ姿に、思わずヨウコは愕然とし、無力感に苛まれた。


しかし、今はへこたれている場合ではない。


現場にいる以上、少しでも事件に関する情報を集めること。


それが自分に課せられた使命だ。


ヨウコはひとまず頭を切り替えるため、大きく深呼吸をしてから、再び聞き込み捜査に乗り出した。



事件発生から、およそ30分。


ヨウコの左腕につけられた時計の針は、午後4時50分を示している。


東口五差路に続いて、サンシャイン通りにひしめいていた負傷者も、あらかた病院へ搬送されたようだ。


現場に残された民間人は、最も軽傷と判断された負傷者数名と野次馬たちだけだった。


―――― 負傷者への事情聴取は可能だろうか。


ヨウコは近くにいた救急隊員に声を掛け、状況を確認した。


すると隊員は、


「皆さん、意識もはっきりしてますから、事情聴取は問題ないと思います」


と答え、救急車の中で手当てを受けている負傷者の元へヨウコを案内した。


車内には、3名の若い女性。


彼女たちは幸い、犯人の手によってケガを負ったわけではなく、逃げようとした際に誤って転倒し、手や膝を擦り剥いただけだった。


「この中で、銀髪の若い男性を見た方はいらっしゃいますか?」


「銀髪の男……?」


「そんな目立つ髪色の人、いたかな?」


お互いに顔を見合わせた彼女たちは、どうやら見覚えがないらしい。


残念ながら、ヨウコの期待する答えを持つ者はいなかった。


一方、逃げ出すように走り去った男を追っていた藤原は、駅前の交差点で足を止めた。


―――― くそっ! やっぱり見つからないか!


ただでさえ人が多い夜の池袋に、大晦日に発生した通り魔事件を聞きつけた野次馬や報道陣が殺到したこともあり、いくら周囲を見回したところで、男の姿を見つけることはできなかった。


だが、ひょっとするとあの男以外にも、犯行現場を撮影していた人間はいるかもしれない。


ふと頭に浮かんだ1つの可能性に、藤原は再び来た道を戻り、サンシャイン通りへ走り出す。


手当たり次第に聞き込みをした目撃者の中には、彼の予想通り犯行現場をスマホで撮影していたという若者が多数いた。


しかし、目撃者のスマホに収められた映像のデータを確認すると、それらはすべて消えており、犯人が刃物を手放し、倒れる直前に何を見たのかは思い出せないという人間が続出したのだ。


―――― 何かがおかしい……。


同様に違和感を抱いたヨウコと合流し、1時間ほど掛けて現場にいた人々に詳しく話を聞いたが、やはり犯人と対峙した銀髪の青年を見たという者は1人もいなかった。


気付いた時には、犯人は突然足を止め、刃物を手離し、路上に倒れ込んだところを中年女性に襲われたのだという。


犯行を中断した経緯も原因も、誰も覚えていない。


まるで記憶を操作されたかのように、目撃者全員の証言は一致していた。


その夜、ヨウコと藤原が招集された特捜本部の報告の中にも、銀髪の青年という言葉は出なかった。


ただ、救急搬送先の病院で被疑者の死亡が確認されたこと。


そして、現場に乗り捨てられていたワゴン車のナンバーから、被疑者は練馬区に住む20歳の大学生……廣川ひろかわ 花凛かりんだということが判明した。


車は世田谷区池尻にある実家から持ち出されており、両親は自分たちの娘が起こした事件に驚愕するのと同時に、幼少期から見られていた彼女の異常性を看過したことに対し、陳謝しているという。


一方、池袋警察署内で行われている、廣川 花凛を刺殺した中年女性の取調べは、本人の精神状態が不安定なことを受けて、難航を極めていた。


「動機を聞いたところで、本人はわかりませんの一点張り。正当防衛にしたって、あそこまで滅多刺しにしますかね……」


「旦那を傷付けられてパニックに陥っていたのなら、仕方ないだろう。根気よく聞き出すしかないな……」


手掛かりの少ない状況の中、取調べを担当している捜査員たちは深いため息をつきながら会議の終了した講堂を辞した。


そんな2人を横目に、藤原はヨウコに問いかける。


「先輩、さっきのカメラってまだ持ってます?」


「うん。何のデータもないんじゃ、証拠品として提出するわけにもいかないしね……」


ヨウコは呟くと、黒いカバンの中からビニール袋に入れたハンディカメラを取り出した。


「これ、一度鑑識に預けてみませんか? 可能性は低いですが、もしかしたら、消えたデータを復元できるかもしれません。あくまで、現場での拾得物として持って行けば混乱を招かずに済むかと……」


「……そうね。ダメ元で頼んでみよう」


藤原の提案にほのかな期待を寄せていたものの、残念ながら意図的にデータが消去された形跡は見付からず、このメモリーには初めから映像など無かったのではないかというのが、 鑑識からの回答だった。


《池袋サンシャイン通り無差別殺傷事件》と名付けられた今回の事件は死者14名、重軽傷者12名という、異例の数字を記録し、戦後最悪の通り魔事件となった。


各放送局の年末年始に予定されていた特別番組は、すべてこの通り魔事件の内容に変更され、不可解な点が非常に多かったことから《大晦日に発生した怪奇事件》として、しばらく物議を醸すこととなる。


また、事件発生から3日後にヨウコの手元へ届いた被害状況の報告書によると、ワゴン車に撥ねられた5名のうち、3名が死亡。


他2名は腰を打撲するなどの軽傷を負っており、刃物で襲われた被害者は、東口交番に勤務していた丸井巡査を含む11名の死亡が確認された。


重傷を負いながらも、一命を取り留めたのは、僅かに4名。


これは、被疑者が包丁を用いた際に切りつけるのではなく、人体の急所を的確に狙って刺していたことが原因であると、司法解剖の結果で明らかになった。


そして、死亡した被害者の中には、以前面会したアーヴァン探偵事務所の高橋の名前もあり、ヨウコは複雑な心境のまま、目まぐるしい日々を送っていた。



捜査状況がようやく落ち着きを見せた、1月16日。


ヨウコはおよそ2週間ぶりの休暇を得て、池袋のサンシャイン通りへ足を運んだ。


事件の影響なのだろうか。


平日の池袋の駅前は、以前と比べて閑散としている。


すれ違う数人の歩行者たちを尻目に青く澄み渡った空の下、東口交番の横を通過し、五差路へ辿り着いた。


血に染まり、阿鼻叫喚の世界と化していた周辺も、人通りの少なさを除けば本来の姿を取り戻しつつある。


だが、どんなに時間が経とうとも、あの日奪われた14名の命はもう戻ることはない……。


青に変わった横断歩道を渡り、ロッテリアの先に置かれた献花台に花を添えて、手を合わせた。


そして、脳裏に犯行当時の映像が浮かぶ中、不意に左側から感じた気配。


他にも、誰かが花を手向けに来たのだろう。


ヨウコはゆっくりと目を開け、何気なく左へ視線を移した瞬間、息を呑んだ。


そこには、銀髪の青年の姿があった。


黙祷を捧げていた青年も、ヨウコの視線に気付いたようだ。


犯行当時の映像にあった、見事なまでに整った顔がこちらを向く。


―――― 間違いない、彼だ……。


黒いダウンジャケットにジーンズ姿の、銀髪の美青年。


中村早苗の事件以来、3ヶ月間捜し求めていた存在が今、自分の目の前にいる。


氏名や年齢、各事件の被疑者との接点など。


彼に聞きたいことは山ほどあるが、この興奮を悟られ警戒されることだけは避けなければならない。


無論、自分が刑事であるということも。


ヨウコは必死に平静を装い、相手の様子を窺った。


やがて、数秒間の沈黙を破るように先に口を開いたのは、銀髪の青年だった。


「あなたも、誰か大切な人を亡くされたんですか?」


まっすぐ見つめてくる彼のダークブラウンの瞳は、悲しみの色を浮かべている。


ヨウコにとって、亡くなった高橋や丸井巡査は大切な人……というわけではない。


だが、一先ずここは話を合わせておくべきか。


「ええ、親しくしていた方が事件に巻き込まれて……」


「一緒ですね……。僕もあの日、大切な友人を失いました」


そう言って青年はダウンジャケットの右ポケットから、新聞の切り抜きを1枚取り出した。


「この記事に友人の名前を見つけた時は不謹慎ですが、同姓同名の別人であって欲しいと思って、被害者の写真を探しました。でも、インターネット上で見つけた写真は、やはり彼女だった。ついこの前まで元気に笑っていたのに、犯人の運転していたワゴン車に撥ねられて亡くなったなんて、未だに信じられません……」


銀髪の青年は、見たところ20代前半。


確かワゴン車に撥ねられ亡くなったのは、


草間 利奈(26)


平野 美穂(37)


佐藤 伊佐子(71)の3名だ。


この中で彼の友人は、おそらく最も年齢の近い《草間 利奈》だろう。


ヨウコの視線は無意識のうちに、彼女たちが犠牲となった五差路のauショップへ向いていた。


「しかも犯人は、20歳の女子大生だっていうじゃないですか。ワイドショーに出てた写真を見て、驚きましたよ。僕と同い年のあんなに可愛らしい人が、14人もの命を奪ったのかって」


―――― なるほど。この男は、廣川 花凛と同じ20歳か……。


青年の声が途切れたところで、ヨウコは彼へ向き直った。


「亡くなったご友人とは、長年のお付き合いだったんですか?」


気を付けてはいても、なかなか日頃の習慣というのは抜けないものだ。


ヨウコがつい問い掛けてしまった、被害者との関係性。


だが、青年はそれに対して気にする様子もなく、左右に頭を振った。


「いえ、出会ったのは1年くらい前です。僕の行きつけのバーで偶然一緒になって、いろいろなことをお互いに話しているうちに、仲良くなったんです」


「そうでしたか。知り合って間もないうちに亡くなるなんて……。心中お察しします」


この言葉の真意は、青年と知り合って間もなく草間 利奈が死亡したことへの懸念だったが、彼が返してきた言葉は予想外のものだった。


「あの……。もし、お時間があるようでしたら一緒にそのバーへ行きませんか?」


「えっ、この後ですか……?」


「はい。本当は亡くなった友人を偲んで、1人で飲むつもりだったんですけど、ご迷惑でしょうか?」


思いがけない誘いに、ヨウコは目を見開いた。


このチャンスを逃す手はない。


しかし、2つ返事で彼の誘いに乗るのも、怪しまれるだろうか。


何より、今し方知り合った男と飲みに行くなど、軽い女のようで気が引ける。


ヨウコは咄嗟に左腕につけた時計を見て、迷うフリをした。


実際、時刻はまだ午後3時を過ぎたところだ。


バーが開くには、だいぶ早いだろう。


「お店って、何時からやってるんですか?」


「夕方5時からです。結構早い時間からやってるんですけど、まだ開店まで2時間ほどありますし、どこかでお茶でもしませんか?」


「わかりました。あまりお酒は強い方ではないので、少しだけならご一緒させてください」


「……良かった。ありがとうございます」


そう言って満面の笑みを見せた美青年に、思わずヨウコの胸は高鳴った。


「お名前を聞かせて頂いても良いですか?」


「……赤城あかぎ 陽子ようこです」


大塚警察署刑事課と頭に付けずに名乗ったのは、いつ以来だろう。


影野かげの 康仁やすひとです。宜しくお願いします」


銀髪の青年は穏やかな表情を浮かべ、ヨウコへ右手を差し出した。


バーで一緒になった草間 利奈も、彼のこういう気さくさに和んだのだろうか。


ヨウコはふとそんなことを思いながら右手を伸ばし、握手を交わす。


自分の手が冷えていたためか、ヤスヒトの右手はとても温かった。


しかし、視線が手の方へ向いた瞬間、ヤスヒトのダークブラウンの瞳が怪しい輝きを放っていたことに、ヨウコは気付かなかった。



献花台を離れ、駅前へ戻った2人は近くにあった喫茶店へ入った。


ここは以前、ヤスヒトに聞き込みを終えた藤原と一緒に来た店だ。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」


ドアを開けるなり、まだ大学生くらいの若いウエイトレスが、可愛らしい笑顔を振りまく。


「ヨウコさん、タバコは吸います?」


「いいえ」


「じゃあ、あそこにしましょうか」


そう言ってヤスヒトが指差したのは、窓際の禁煙席。


―――― 同じ店……。同じ席……。


その偶然にヨウコは少し違和感を覚えたが、ヤスヒトに促され席に着いた。


すぐさま、隣の席にいた2人の女性客が、ヤスヒトの綺麗な顔を見てざわめき始める。


確かに、テレビに出ている男性アイドルや俳優と比べても見劣りはしない。


むしろ、外見だけならば大多数の女性は見とれてしまう程だろう。


ところが、ヤスヒトが女性たちに一度会釈をすると、頬を赤らめた彼女たちは不思議なことに、その後こちらを見ることは無かった。


「ご注文はお決まりでしょうか?」


先程のウエイトレスも自身をアピールするかのようにヤスヒトの方へ顔を向けて、おしぼりとお冷をテーブルに置いた。


「ヨウコさんは何にしますか?」


「えっと……。ブレンドで」


「じゃあ、僕も同じものを」


「かしこまりました。ブレンドコーヒーお2つ、すぐにお持ちいたします」


ウエイトレスの媚びるような上目遣いに、ヨウコは微かな苛立ちを覚えた。


だが、きっと女性たちが自分に好意の視線を送って来ることには、慣れているのだろう。


ヤスヒトは爽やかな笑顔を向けてオーダーすると、そんな仕草には目もくれず、何事も無かったようにヨウコへ視線を戻した。


それから数分と待たずに運ばれてきたコーヒーの香りにヤスヒトは満足気な表情を浮かべると、カップを手に取る。


流れるようなその動きにヨウコは思わず見とれそうになったが、自戒してこう切り出した。


「影野さんは、学生さん?」


「はい、今は按摩マッサージ指圧師の資格を取るために渋谷にある専門学校へ通ってます」


「マッサージ師の専門学校って、3年制ですか?」


「そうです。普段は午前中に学校へ行って、午後からマッサージ院で研修なんですけど、今日は休みになったので」


「大変ですね。一番遊びたい年頃でしょうに」


「いえ、自分のやりたい事の為ですから。ヨウコさんは、何のお仕事をされてるんですか?」


突然の質問に対する、一瞬の沈黙。


―――― マズイ。何も考えて無かった……。


「あっ、ちょっと待ってください。僕が当てますね」


そう言って、まっすぐヨウコを見つめて来る視線。


主婦とか、パートとか適当に答えれば良かったんじゃないか。


何なら、OLでもいい。


ヨウコが目を泳がせながらそんな事を考えているうちに、ヤスヒトは口を開いた。


「もしかして……刑事さん?」


思いも寄らない答えに、ヨウコは自分の心臓が一瞬止まったように感じた。


「実は僕、人の心が読めるんです」


「えっ?」


予想通りの反応だったのだろう。


思わず目を丸くしたヨウコの姿に、ヤスヒトは笑った。


「すみません、冗談です。質問の仕方がどことなく警察の方に似てるなって思って、適当に言ってみただけなんですけど……。当たってました?」


「……はい」


適当という言葉とは裏腹に、有無を言わさぬ説得力があった。


彼は藤原以外にも、警察関係者と話したことがあるのだろうか。


だが、一番驚いたのは見事に言い当てられたことではない。


ヤスヒトと目が合った瞬間。


自由を奪われた感覚に襲われ、ウソを言って否定することができなかったのだ。


―――― この男、やっぱり何かある……。


ヨウコの背中には、嫌な汗が伝っていた。


「ところで、ヨウコさんは彼氏います?」


なぜ、ヤスヒトが突然話題を変えてきたのかはわからない。


だが、ヨウコにとってこれ以上仕事の話を突っ込まれるのは、避けたいところだったのは間違いない。


ここは、素直に乗っておこう。


「いいえ、ここ数年全く。影野さんは、引く手数多でしょう?」


「そんなことありませんよ。一応、彼女はいますけど……」


この言葉に、ヨウコの胸は鈍い痛みを訴えた。


まさか、ヤスヒトに心を奪われてしまったとでも言うのだろうか。


―――― さっき知り合ったばかりの、一回りも違う男に? いやいや。いくら整った顔をしているとはいえ、そんなバカなことあるはずがない……。


そう思う反面、ヤスヒトと言葉を交わす度にざわつく自分の胸中。


ペースを乱されているのは間違いなくヨウコの方だった。


その後も、お互いの私生活に関するたわいのない話をしながら、冷静さを保つことに意識を集中しているうちに、気付けば窓の外はすっかり暗くなっていた。


店の壁に掛けられた時計の針は、午後5時20分を示している。


「さて、そろそろ行きましょうか」


喫茶店を出た2人は駅の方へ戻り、パルコの隣にある地下道を抜けて北口へ向かった。


北口は線路沿いに風俗店やラブホテルが並ぶため、量販店や学校のある東口とは、だいぶ雰囲気が異なる。


西口へ向かって歩く際にすれ違う人々も、日本語より中国語を話している方が多かった。


上昇したままの心拍数に戸惑うヨウコは無意識のうちに周囲へ視線を向けることで、なるべくヤスヒトを直視しないようにしていた。


「ここです……」


ヤスヒトが案内した行きつけのバーは北口から5分ほど歩いた、西口の繁華街の一角にあった。


賑やかな店が多い中、珍しく落ち着きのある木製のドア。


看板には《Origin》と書かれている。


「どうぞ」


ヤスヒトが開けてくれたドアを通ると、店内はジャズが流れていた。


5拍子のリズムに合わせて奏でられるアルトサックスの艶やかなメロディーと、ドラムとピアノが特徴的な、この曲は聞き覚えがある。


確か……《Take Five》だ。


「いらっしゃいませ」


カウンターの奥に位置するオールバックのバーテンダーが、2人に深々とお辞儀をした。


店の中はカウンター席が5つ。


奥にテーブル席が3つのこじんまりとした空間だ。


時間が早いせいか、他に客の姿はない。


「何に致しましょう?」


ヨウコとヤスヒトがカウンター席の左側に腰掛けると、穏やかな笑みを浮かべたバーテンダーがコースターを2枚置いた。


「じゃあ、カンパリ・ビアで。ヨウコさんは?」


「私もそれでお願いします」


「かしこまりました」


バーテンダーは綺麗な姿勢を保ったまま、2つのグラスにカンパリリキュールを入れ、ビールを注いでいく。


「このお酒は事件で亡くなった、僕の友人が必ず1杯目に飲んでいたものなんです」


「草間利奈さん……?」


「さすが、刑事さん。リナさんの名前もチェック済みなんですね」


ヤスヒトの言葉に、ヨウコは苦く微笑んだ。


どういった原理なのかは、わからない。


だが、おそらく彼の前で隠し事はできないのだろう。


ダークブラウンの瞳を見つめる度に仮面を剥がされ、自分の深層心理を見抜かれるような感覚に襲われる。


―――― 不思議な男……。


ヨウコは心の中で呟きながら、ジャズの音色に耳を傾けていた。


「お待たせしました」


程なくして、自分たちの前に並べられたカンパリ・ビア。


鮮やかな赤を見て血液を連想してしまうのは、通り魔事件の光景が目に焼き付いて離れないからに違いない。


「……カンパイ」


甲高い音を奏でながら、ヨウコはヤスヒトとグラスを合わせた。


そして、一口喉に流し込んだところでヤスヒトの淡々とした声が鼓膜を揺らす。


「リナさんは、ここの近くにあるブラックフェザーっていうキャバクラに勤めていたんです。5年以上もNo.1の座をキープしてきた彼女を僕は尊敬していました……」


「へぇ……。影野さんもそのお店に行ったことが?」


「いえいえ、さすがに学生の僕にはそんな金銭的余裕はないですよ」


「ああ、そうですよね。彼女はどんな方だったんですか?」


「リナさんは、両親に仕送りする為に水商売を選んだそうで、すごく真面目な方でした。枕営業ばかりしてる後輩がNo.2にいたらしいんですけど、リナさんはたとえお金の為でもカラダだけは売ってはダメだって、よくグチを零してました」


「なるほど……。彼女にとってあなたは相談相手でもあったんですね」


「まあ、そんなところですかね。ところで……ヨウコさんは、僕のことを疑っているんですか?」


「えっ?」


「あなたが銀髪の若い男……つまり、僕を追っている理由を聞きたいんです」


唐突に投げかけられた疑問と、鋭い視線。


やはり、ヤスヒトはヨウコの動きを把握していた。


献花台で接触して来たのも偶然ではなく、意図的なものだったのか。


ならば今更、隠す必要もないだろう。


ヨウコは煩さを増していく心音を落ち着かせるため、一度大きく深呼吸をしてから口を開いた。


「中村 早苗、村岡 時子、廣川 花凛、そして草間 利奈。彼女たちとあなたに、接点があったことはわかってる。そして、例外なく命を落としているという事実も……。だけど、4名の女性たちが同じ運命を辿ったのはただの偶然なのか、それとも何か理由があるのか。私には、どうしてもわからない」


「その答えを知るために、僕を追っていた?」


「ええ。あなたに会えば、答えに近付ける気がしたのよ」


「もし……真実を知ることで自分の命を落とす事になったとしても、答えを聞きたいですか?」


ヤスヒトの問いに、ヨウコは耳を疑った。


―――― どうして否定しないの? まさか、本当に4人の女性が亡くなったのは、彼の仕業だっていうの?


「あなたが捜査していた事件と僕の関わり……。その真相を知る為に命を賭ける覚悟があるのなら、明日の午後6時にまたここへ来てください。ただし、あの藤原という男の刑事は抜きで。1人で来てもらえるなら、ヨウコさんが望む全てをお話しますよ」


淡々とヤスヒトが放った言葉を最後に、ヨウコの視界は暗闇に閉ざされていった……。



翌朝、枕元に置かれたデジタル時計のアラーム音で目が覚めると、ヨウコは自室のベッドで横になっていた。


時刻は午前7時。


カーテンの隙間から差し込む日の光に、思わず目を細める。


そして、体を起こしたのとほぼ同時にヤスヒトと出会った昨日の出来事が、脳内で鮮明に蘇った。


―――― あれは、夢じゃない……。


しかし、どうやってここまで帰って来たのかは、思い出せない。


ヨウコはキッチンへ向かい、冷蔵庫から500mlのペットボトルを取り出すと、半分ほど残っていたミネラルウォーターを一気に飲み干した。


喉から胃へ流れる冷たさを感じながら、ヤスヒトの綺麗な顔を思い浮かべる。


高鳴る鼓動。


込み上げる情欲。


そして、死への恐怖。


―――― バカバカしい……。真実を知ることで命を落とすなんてこと、あるはずがないでしょ。


自身の不安を拭い去るように鼻で笑うと、ヨウコは身支度を整えて大塚警察署へ出勤した。


「おはようございます」


「おはよう……」


署内で藤原と顔を合わせたヨウコは、昨日ヤスヒトに会ったことを話すか否か迷っていた。


以前の彼女ならば間違いなく彼と情報を共有し、冷静な対応をしただろう。


しかし、この時ヨウコの胸の中には、藤原の刑事としての素質に対する焦りと、嫉妬心が渦巻いていた。


まるで、仮面を外され、自分の奥底に眠っていた感情を引き出された気分だ。


―――― 後輩に負けてなんかいられない。影野康仁の秘密は、私が1人で暴いてみせる……。


「先輩、顔色があまり良くないみたいですけど、大丈夫ですか?」


「うん。今日は日勤だし、大丈夫。少し寝不足なだけだから……」


時折心配そうな視線を投げかける藤原を横目に、仕事を終えたヨウコは午後5時30分に署を出て、ヤスヒトの待つバーへ向かった。



普段とは異なるヨウコの様子に胸騒ぎを覚えた藤原は、警察署を出た彼女のあとを尾行していた。


どこへ向かっているのだろう。


池袋駅で下車し、有楽町線の改札を抜け、西口の繁華街にあるバーに入っていったヨウコ。


看板には《Origin》と書かれている。


1人で飲みに来たのか。


それとも、誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。


店の前で入るか否か迷い、嫌な汗に濡れた右手をコートのポケットの中で握りしめた時だった。


「あの、すみません」


不意に掛けられた声に、左を向く。


すると、目の前にはウェーブのかかった茶髪の女性がいた。


清潔感があり目鼻立ちの整った、美人と呼べる部類だろう。


しかし、今はこんな女に構っている暇はない。


藤原は女性を無視して、バーのドアに右手を掛けた。


そして、力を込めてドアを開けた瞬間。


店内のカウンター席に腰掛けたまま、ヨウコと銀髪の男が唇を重ねていた。


―――― ウソだろ……!?


信じ難い光景を目の当たりにし、


激しく脈打つ心臓。


血走っていく瞳。


藤原に気付いた銀髪の男が静かに唇を離し、こちらを向いて口角を上げた。


―――― 何で、お前が……!?


藤原にとってヨウコは、単なる職場の先輩ではない。


ずっと好意を寄せている女性だ。


男に対する敵意、嫉妬、憤怒。


全てを含めて睨み付けた時だった。


「藤原!?」


虚ろな目をしていたヨウコが急に我に返り、悲鳴にも似た叫び声を上げたのは……。


そして、次の瞬間、自分の左腰に鋭い痛みが走る。


何が起きたのだろうか。


バランスを崩しながらも痛みの元へ目を向けると、背後から茶髪の女性が刃物を突き刺していた。


―――― この女……銀髪の男の仲間だったのか!?


そう判断したのと同時に、刃物を抜かれた衝撃で再び激痛が走る。


自身の拍動に合わせて、傷口から溢れ出す血液。


―――― クソッ……。こんなところで、死ぬわけには……。


咄嗟に左手で傷口を押さえ、必死に立位を保とうとしたが、出血と共に全身から力が抜けていく。


藤原は女性に反撃できぬまま、慌てて駆け寄ったヨウコの腕の中へ倒れ込んだ。


「どうして、ここへ……?」


「すみません……。先輩の様子が……気になって……後を……つけて……いたんです……」


ヨウコは泣いているのだろうか。


自分を抱きしめる両手が震えている。


肝心なところで役に立てない自分が情けない。


「逃げ……て……くだ……さい……」


途切れ途切れに呟きながら、藤原はゆっくり瞼を閉じた。


意識を失った藤原をフロアに横たわらせ、ヨウコは静かに立ち上がった。


スーツの右袖で涙を拭い、店の入口へ視線を移す。


「どうして、あなたが藤原を……?」


そこには、刃物を右手に持つ鮫島ユリの姿があった。


刃先から滴となって落ちていく彼の血液が、ユリの足元に広がっていく。


「ごめんなさい。ヤスヒトのことを調べている刑事さんたちが、邪魔だったんです」


ユリは血溜まりを見ながらそう答えると、後ろ手でドアの鍵を閉めた。


「赤城さんをここへおびき出せば、必ず男の刑事も付いてくる。ヤスヒトの言った通りだったね」


「ああ……。昨日、僕と目が合った瞬間からヨウコさんは、術中にはまっていたんだ。だから、死への不安や僕に対する疑念を抱きながらも、真実を知るべくこの店へ足を運んでしまった。それも1人で……。正直、聞き込みに来たこの男の方が厄介だったからね、トラップにかかってくれて助かったよ」


ヤスヒトの言っていることは、おそらく本当なのだろう。


見えない何かに操られていたような感覚は、自分にもあった。


だが、藤原に対する焦りと、事件の真相を知りたいという願望に駆られ、抗うことができなかったのだ。


「安心してください。約束は守りますから……」


ヤスヒトの言葉を合図に、ヨウコは突然激しい頭痛に襲われた。


あまりの痛みに両目を閉じると、ヤスヒトの記憶が自分の頭の中へ一気に流れ込んで来る。


走馬灯のように映し出されたそれには、ヨウコの求めていた真実があった。


ヤスヒトの育った環境。


鮫島ユリとの過去。


呪われた力によって殺された女性たち。


そして、彼の本心。


―――― そうか……影野康仁の目的は最初から……。


全てを悟ったヨウコは糸が切れた操り人形のように、フロアへ倒れ込んだ。


「サヨナラ、ヨウコさん……」


最後に聞こえたヤスヒトの声は、今までにないほど無機質なものだった。

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