第5話【殺人衝動】
「どうして、人を殺してはいけないの?」
それがわたしの幼い頃からの口癖だった。
両親や教師にこの質問を投げかけたところで、納得のいく回答は貰えない。
「誰かを殺したら、悲しむ人がいるから」
「人には生きる権利があるから」
「殺人は法律で禁止されているから」
「自分がされたら嫌なことは、人にもしてはいけないから」
そんな漠然とした答えを聞きたいんじゃない。
わたしが求めていたのは、自身を納得させてくれる具体的な答え。
だけど義務教育を終えたところで、どんな答えも頭に残ることは無かった。
きっと、誰もその答えを知らないんだ。
だったら自分で答えを探してみれば良いか……。
腐りかけたわたしの脳裏に浮かんだものは、世間から見れば最も危険な選択肢だった。
中学や高校の授業の中で歴史を学ぶにつれて、わたしはある1つの事実を見つけた。
それは第二次世界大戦でも、幕末でも、戦国時代でも、変わらない。
《人は人を殺して新たな時代を築き上げて来た》という、弱肉強食の世界だ。
強い者は弱い者を蹂躙できる……。
それならどんな形でもいい、私も歴史に名を残す、強者になりたい。
そう決意したわたしは都内の名門大学へ進学するのと同時に実家を離れ、練馬区で一人暮らしを始めた。
更にカラダを鍛えるために週3回、総合格闘技のジムへ通った。
元々運動神経は良かったし、小学生の頃から器械体操と空手をやっていたわたしには格闘技の世界は最適な環境だった。
自分のカラダを痛めつけて鍛えることに苦痛を感じることは無い。
むしろ頭に描く俊敏なイメージと実際の動きが近づいて来るほど、快感を覚えた。
当然、何となくで通い始めた甘い考えの男たちには負け無し。
そんな自分の中に殺人衝動があることに気付いたのは、充実した生活が丁度1年過ぎた頃だった。
トレーニング後自宅へ戻り、テレビを点けると偶然ニュースで流れていたのは、都心部での通り魔事件。
テロップには死者7名、重軽傷者10名と表示されている。
普通なら、事件に対する恐怖とか、犯人に対する嫌悪に属する感情を抱くのかな?
しかし、わたしの思考はそれとは全く違った。
わたしが犯人なら、何人殺せるんだろう?
突如頭に浮かんだ、1つの疑問。
その答えを導き出せるのは、他ならない自分自身だ。
今回の事件で捕まった犯人は男だったけど、色白で細くて弱そうな印象だった。
こんな体格では、すぐに警察官に取り押さえられても仕方ない。
それに比べてわたしは体力はもちろん、格闘術にも自信がある。
唯一気掛かりな点があるとすれば、取り押さえようと飛び掛かってくる人間。
偶々居合わせた通行人であれ、事件を知って駆け付ける警察官であれ、相手の動きを鈍らせるのに役立つのはやっぱり凶器だよね。
使うなら、刃物が一番良いかな……。
わたしはその夜、どうやったら短時間により多くの人を殺すことができるのか。
ただそれだけを頭の中で繰り返しイメージしていた。
後日調べてわかったことだが、過去に起きた通り魔事件の中でも、死者10人を超えたケースはない。
どの事件も犯人は男が多くて、女性の通り魔事件は大概感情的な犯行ばかり。
しかも、すぐ取り押さえられている。
わたしは別にこの世に絶望した訳でも、死にたい訳でもない。
ただ、自分が強者として一体何人の命を奪うことができるのかを知りたいだけなんだ。
シミュレーションの中から、遂にわたしは1つを選択した。
決行は今年の大晦日。
場所は多くの人々で賑わう、池袋の東口五差路からサンシャイン通り。
そして、凶器は家庭にあるような一般的な包丁。
普段まな板の上で野菜や他の動物の肉を切る包丁をいざ自分に向けられた時、人はどんな表情をして、どんな行動を取るのだろう?
その答えを知る人間も、きっと居ないよね?
早く試したいな……。
好奇心に駆り立てられるわたしは、まるでサンタさんが来るのを待ちわびる子供のような気持ちだった。
犯行を決意し、実行に移すまでの約半年間。
わたしは毎日5キロメートルのジョギングを欠かさず、更に刃物を使った戦い方を様々な方法で調べていた。
中でも、映画の戦闘シーンやインターネットで配信されている動画はとても参考になった。
それらの映像を一度見れば、大体その通りに動くことは簡単だったからだ。
特に殺意を高めた状態での自分の反射スピードは通常の倍以上になり、ジムでのスパーリングも相手の拳がスローに見えるほどだった。
「カリン、最近ますます強くなってきてるな」
「ああ、しかもモデル並みにキレイな顔してるのに、あのイカツイ体ってギャップがすご過ぎるだろ……」
周囲は驚きながらもそんなわたしをプロの総合格闘家に育て上げようと躍起になっていた。
だけど、誰1人としてわたしの中に潜む殺人衝動を見抜ける者はいなかった。
そして迎えた、大晦日。
わたしは年末で帰省した実家から持ち出したワゴン車に乗り込み、東口五差路から100メートルほど離れた路肩で頃合いを見計らっていた。
スマホに表示された時刻は、午後4時15分。
日が傾きかけた辺りは、多くの人々で賑わっている。
良い年を迎えられる人間が、果たしてこの中に何人いるかな?
そんなことを考えながら、騒がしい光景からゆっくりと移した視線の先には、左足で踏み付けた出刃包丁が2本。
また、黒いストレッチジーンズのベルトの左右には鞘付きの果物ナイフを挟んでいる。
今日使う凶器は全て事前に購入して、念入りに研ぎ上げたものだ。
それじゃ、そろそろ行こうかな……。
丁度後続の車が途切れたところで、ギアをドライブに入れゆっくりと走り出す。
殺戮の舞台はもう、すぐそこ。
ああ、ワクワクするな。
早く殺したくてウズウズする。
左前方にはセブンイレブンとauショップ。
その先で都道435号 音羽池袋線が横切り、交差点の向こうにはサンシャイン通りが見えている。
五差路に到着したわたしの前には、赤信号で停車している軽トラックが1台。
そして、横断歩道は多くの歩行者が行き交っていた。
当初の予定では、信号が青に変わるのと同時にサンシャイン通りへ車を走らせるつもりだった。
しかし、信号待ちの最中ふと左へ視線を向けると、auショップの前でスマホを操作しながら微笑んでいる女性が目に止まった。
よく見る光景。
まるで危機感のないその姿に、自然と口角が上がる。
予定変更。
まずは、あの女から殺そう……。
前の軽トラックが走り出したのを確認するなり、わたしはハンドルを大きく左へ切り、アクセルを踏み込んだ。
けたたましいエンジン音を轟かせながら勢い良く歩道に乗り上げたワゴン車は、次々と周囲の歩行者を撥ね、狙いを定めた女性へ向かって突き進む。
迫り来る暴走車のヘッドライトに照らされて、女性が恐怖の色を浮かべたのも束の間。
彼女の体は宙を舞い、路上に叩きつけられた。
ヒビの入ったフロントガラスは血に塗れ、まるで赤い蜘蛛の巣が張られたようだ。
うわぁ、すごい! とっても綺麗!
わたしは興奮したまま、更にアクセルを踏み込む。
ワゴン車は止まることなくauショップに突っ込んで、その衝撃音と危機的状況に、店内全ての人間が悲鳴を上げていた。
だけど、そんなことを気にしている暇はない。
わたしはすぐさま足元から2本の包丁を掴んで、車を降りた。
薄暮の中、両手に光る禍々しい刃に野次馬たちの表情が凍りついていく。
「はっ? 何? 冗談でしょ……?」
「やっ、やめろよ……!」
あまりの恐怖に硬直したままの若いカップルとぶつかる視線。
2人が怯えているのがよくわかる。
わたしは走って一気に距離を詰めると、男女の腹部をそれぞれ突き刺し、左右の手に伝わる感触に興奮しながら包丁を引き抜いた。
轟く悲鳴と、飛び散る血液。
これで、3人……。
わたしはそのまま横断歩道を駆け抜け、目的のサンシャイン通りへ向かった。
そして、ロッテリアを越えたところで足を止め、性別や年齢を問わず手の届く範囲の人間に次々と襲い掛かる。
切るのではなく、刺す。
狙うのは事前に調べていた人体の急所。
つまり、血管が集中している腎臓のある腰部や、動脈の走っている頚部と腹部だ。
数人は刺し損ね、切傷で逃がしてしまったようだけど、仕方ない。
瞬く間に2本の包丁と自分の衣服は血に塗れ、両手に伝わる肉を突き刺す感触に、思わず笑みがこぼれる。
さあ、ここからが本番だ……。
そろそろ警察官も異常に気付いて、駆け付けて来る頃だろう。
スリルに満ちたこの状況が、わたしは楽しくて仕方無かった。
来た、来た……!
遂に、逃げ惑う人々の流れに逆らい、わたしに向かって走って来る制服姿の警察官を見つけた。
パッと見た感じ、30代後半ってところかな。
さあ、わたしをもっと楽しませて!
「サンシャイン通り、ロッテリア付近で両手に刃物を所持した女性を発見! 服装は黒の上下! 周辺に重軽傷者多数! 至急応援願います!」
無線で状況報告しているその男に間髪入れず、襲い掛かる。
「……なっ!?」
信じられないほどのスピードで間合いを詰められ、焦った警察官は右手に持った特殊警棒をわたしの持つ凶器目掛けて振り下ろそうとした。
甘い……!
わたしはその動きを予測していた。
左腕でガードしながら、一足飛びで相手の懐へ飛び込む。
そして次の瞬間、突然の体当りを受けて前傾姿勢になった警察官の顎を押し上げるように、喉元から脳天へ向かって包丁を突き刺した。
「あはは、わたしの勝ちだ……」
僅か数秒の攻防を経て、わたしが包丁から右手を離すと、力尽きた警察官は仰向けに倒れ込む。
何だ、もっと戦いたかったのに。
こんな簡単に殺せちゃうの……?
ちょっと呆気ないけど、仕方ない。
口から血を吐き、何度か痙攣したその体は程なくして静止した。
目を見開いたままの死体の喉元には包丁の柄が生え、その光景を目の当たりにした周囲の人間は激しく嘔吐している。
うわっ、汚いな……。吐くなよ。
ゲロまみれになるのは嫌だし、あの人たちは放っておこう。
左手に残った包丁を右手に持ち替えながら、わたしは軽蔑の眼差しを向け、再びサンシャイン通りの奥へと走り出した。
「おかぁさぁぁん!」
次の獲物を選ぶ中、シネマサンシャインの前には母親とはぐれたのか、ひたすら泣き続ける少女がいた。
耳障りな少女の声に、自然と殺意がそちらへ向いた。
「おい! 逃げろ!」
少し離れた位置から中年男性が叫んだが、もう遅い。
涙で潤んだ少女の瞳には、わたしの姿が映し出されている。
子供って、ギャーギャーうるさいから鬱陶しいんだよね……。
躊躇いなど無かった。
不快感をぶつけるかの如く、わたしは一瞬で少女の喉元を切り裂いた。
パカっと割れた笹の葉状の切り口から、吹き上がる鮮血。
そうそう、この色が何より一番美しい。
まあ、子供は大嫌いだけどね。
血と涙に塗れた彼女の顔面にわたしは唾を吐き捨てると、まるで道路に捨てられた空き缶のように遺体を右足で蹴飛ばした。
軽々と飛ぶ少女のカラダ。
正に、強者が弱者を蹂躙した瞬間。
だけど思っていたより、子供を殺しても楽しくは無かった。
「キャァァァ!」
「邪魔だ! どけっ!」
殺戮の舞台と化した、大晦日のサンシャイン通り。
現場に居合わせた人間たちは少しでもわたしから遠ざかろうと他者を押しのけ、我先に逃げ惑う。
あはは、どんなに綺麗事を並べたって、これが人間の本性だ!
わたしは高らかに笑いながら逃げる彼らを追い、容赦なく命を奪っていく。
だが、その阿鼻叫喚の中、1人だけ微動だにしない銀髪の男がいた。
少女を殺したことに対する怒りなのか、それとも全く別の理由か。
彼は鋭い目つきでこちらを睨み付けている。
何、あの男……。
吸い込まれそうなダークブラウンの瞳に、わたしは一瞬たじろいだ。
しかし、警察官が増員されるまでの限られた時間の中で1人でも多くの人間を殺すため、立ち止まってなどいられない。
アイツも殺そう……。
わたしは力強く1歩を踏み出し、10メートルほど先にいる獲物へ襲い掛かる。
絶えず交わる、2人の視線。
「死ね!」
男の顔面目掛けて包丁を突き出した瞬間。
彼は何の躊躇いもなく、素手でその刃を受け止めた。
は? 何で?
目の前にいるこの男は、痛みを感じないの?
刃を握る左手の力は更に強まり、夥しい血液がアスファルトへ流れ落ちていく。
コイツは危険すぎる……!
凶器を向けられて怯まない銀髪の男はわたしにとって、想定外の存在だった。
理解し難い彼の行動に、わたしは思わず包丁から手を離し数歩後ずさる。
一方、銀髪の男は何事も無かったかのように奪った包丁を道端に放り投げ、口を開いた。
「キミは一体、何の為にこんな真似をしたんだ?」
「どうして、そんな質問に答えなきゃならないの?」
「良いから、答えて……」
「……自分がどれだけの人間の命を奪えるのか。それを知りたいだけ。単なる好奇心よ。邪魔するなら、アンタも死ぬよ!」
「なるほど、キミの脳も腐っているんだね……」
男は淡々と呟きながら、自分の左手に刻まれた傷口を舌先で舐めた。
その姿を見たわたしは突如、性的な欲求に駆られ、呼吸までもが荒くなる。
ウソでしょ……!?
一体、どうしたっていうの?
男の背後から感じる得体の知れない何かに恐怖し、立ちすくみながらも、自分の秘部が急速に濡れていくことに気付いた。
同時に辺りの騒音と景色はかき消され、まるでこの世界には彼と自分しか居ないような錯覚に陥る。
ダメッ! 抗えない……!
男が更に1歩近付いたところで、引き寄せられるようにわたしは彼の唇に自身の唇を重ねてしまった。
キスをした瞬間、全身を駆け抜けた甘い衝撃。
今までに味わったことのない快感にわたしの腰は砕け、立っていることすらままならない。
それでも、抑えることのできない欲求をぶつけるように何度も何度も唇を重ねるわたしを銀髪の男は力強く突き飛ばした。
「キミの殺戮は、美しくない……」
「どういう意味!?」
怒りを露わにしながらフラつく両足を何とか踏ん張り、立位を保つ。
そして、消えかけていた男への殺意を取り戻し、ベルトに挟んだ果物ナイフに右手を掛けようとしたその時だった。
「キミの時間は、もう終わりだ」
淡々とした声が鼓膜を揺らしたのと同時に、わたしの体は自由を奪われアスファルトへ倒れ込んだ。
「さようなら、醜い殺人鬼……」
その姿を冷やかに眺めた男は興味を削がれたように踵を返し、サンシャイン通りの奥へと消えていった……。
一体何が起きたのだろうか。
気が付いた時には既に銀髪の男の姿はなく、わたしはアスファルトの上でうつ伏せに横たわっていた。
体が動かない……。
右を向いた視線の先には、道端に投げ捨てられた包丁を拾い上げる1人の中年女性。
彼女は目を血走らせ、鬼の形相でこちらへ向かって来る。
ああ、こんなオバさんにわたしは殺されるの……?
それは嫌だ。
立たなきゃ……。
けれども、自分の意思に反して、わたしのカラダは全く動かない。
「あんただけは許さない!」
彼女の唇がそう動いたのと同時に背中に衝撃を受けた。
痛みはあったけど、不思議と声は出なかった。
何度も何度も背中を突き刺される感覚に、なぜか笑みがこぼれる。
結局、わたしは何人の命を奪ったんだろう?
どうやら、結果は分からず終いになりそうだ。
どうして、人を殺してはいけないんだろう?
やっぱり、その答えも見付からなかった。
それならわたしは、何の為にこんな事件を起こしたんだろう?
消えゆく意識の中で、答えの出ない問い掛けがわたしの頭の中で繰り返し響いていた……。
周囲の人々が未だ混乱している中、ヤスヒトは東急ハンズの手前を右へ曲がり、1本入った路地を歩いていた。
「おい、通り魔だってよ!」
「犯人は若い女らしいぞ!」
すれ違う野次馬たちは興味津々といった様子で、サンシャイン通りの方へ走っていく。
危機感の無さそうな彼らを尻目に、ダウンジャケットのポケットに突っ込んでいた左手を出し、掌を眺めた。
―――― もう、治ってる……。
あれほど深く切りつけられた傷口は既に塞がり、何事も無かったように指も動いている。
わかっていたこととは言え、その異常な回復力に、深いため息がこぼれた。
―――― やっぱり僕は、死ぬことができないのか……。
カリンと対峙した時とは打って変わって、悲しげな表情を浮かべたヤスヒトの背中には、禍々しい黒い影が付き纏っていた。
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