第4話【暗中模索】

10月10日。


その日は、朝から雨が降り続いていた。


無線で連絡を受けたヨウコが、文京区春日二丁目で発生した殺人事件の現場へ急行すると、血の匂いが鼻を刺した。


大塚警察署刑事課強行犯係に勤務しており、その匂いは嗅ぎ慣れてはいるものの、やはりいい気分はしない。


現場は、戸建ての1階部分にある小さな居酒屋。


キープアウトのテープが張られた店の周囲には、人だかりができていた。


赤城あかぎ先輩、お疲れ様です」


手袋をはめて中へ入った彼女へ声を掛けてきたのは、同じ班に所属する藤原ふじわら巡査だ。


彼はまだ23歳という若さだが、仕事に対する熱意と誠実な人柄で、情報収集には抜け目が無い。


ヨウコより30分程前に現場へ到着していた藤原は、手帳を開きながら報告を始める。


「被害者は、中村なかむら隆司たかし52歳。死亡推定時刻は今から1時間ほど前の、午後2時頃。死因は、腹部と胸部を包丁で刺されたことによる出血性ショック死。彼を殺害したと供述している被疑者本人が110番通報しています」


「被疑者本人が……?」


苦悶に満ちた表情で仰向けに横たわる遺体の確認をしながら、怪訝そうな声を上げたヨウコに、藤原は冷静に言葉を返していく。


「はい。被疑者は彼の妻、中村 早苗さなえです」


「夫婦喧嘩のもつれか……」


「まだ、現場検証の途中ですので断定はできませんが、恐らくその線が濃厚かと」


ヨウコは遺体から殺害現場全体へ視線を移した。


「最近、この手の事件がやけに多いわね。他に情報は?」


ヨウコの言葉に、藤原は手帳のページを捲って続ける。


「近隣住民からの情報によりますと、亡くなったタカシは女性絡みのトラブルが多く、数日前には両者が激しい口論をしていたそうです。また事件が発生したとされる時刻に、物音が聞こえたとの証言もあがっています」


確かに殺害現場となった店内は食器の割れた破片が散乱し、カウンター席の椅子も倒れている。


争った形跡があることから見ても、その情報は間違いないだろう。


「なるほどね……。それで、被疑者は今どこ?」


「既に大塚警察署の方へ移送されました。黙秘を続けているとのことで、取り調べは同性の方が良いだろうから先輩に頼むと、班長から伝言を預かっています」


「……わかった。ありがとう。検死結果と鑑識からの見解はもう少し時間がかかるでしょうから、私たちも一度署の方へ戻りましょう」


車へ戻る途中、ふと人だかりの方へ視線を送ると20歳前後の茶髪の女性が傘も差さずに魂を抜かれたように立ちすくんでいた。


―――― マル害の知り合いかしら……。


ヨウコは日頃の習慣から女性の顔を記憶して、助手席へ乗り込んだ。


次第に雨足が強くなっている中、藤原の運転する車は大塚警察署へ向かって駆け抜けて行った。



10分後。ヨウコたちが大塚警察署に戻り、2階の角にある取調室の扉を開けると、黒髪のロングヘアーを1つに束ねた、おとなしそうな印象をもつ女性がイスに腰掛けていた。


女性の背後にある窓には鉄格子がはめられ、四方は灰色の壁に囲まれた狭い空間。


その中で、一気に張り詰めた空気が漂い始める。


―――― 彼女が被疑者……。


出入口に近い場所に置かれた記録用のデスクに藤原が腰かけたのを確認すると、ヨウコは被疑者を注意深く観察しながら対面の席に着き、簡単な自己紹介をする。


続いて黙秘権などについて説明したが、サナエは興味のない様子で静かに頷くだけだった。


ところが、ヨウコの声が一度途切れる瞬間を狙っていたかのように彼女は突然口を開いた。


「あの……刑事さんは、独身ですか?」


「……ええ」


「恋人は居ますか?」


「いいえ」


なぜ目の前にいるサナエが、そんな質問をしてきたのだろう。


ヨウコは疑問を抱いたのと同時に、32歳にもなって仕事一筋の人生を歩んでいる自分にとって、痛いところを突かれたと思った。


だが、サナエはその答えにもあまり反応を示さず、こう続けた。


「殺したいと思うほど、人を憎んだことってありますか?」


「ありませんね。仮にも警察官ですから」


「そっか、そうですよね……。すみません、つまらないことを聞いて……」


「たとえ殺したいほど憎い相手が居たとしても、その間違った衝動を理性で抑える。それが本来人間のあるべき姿だと、私は考えます」


まるで死んだ魚のように濁った目をしたサナエの問いかけに、ヨウコは威圧的に答えた。


「正論ですね……。私もね、女にだらしなくて身勝手な夫の行動にずっと我慢してきたんです。どんなに帰ってくる時間が遅くても寝ずに待っていたし、夜遊びに出ていく彼に変わってお店も続けてきました。これは、“高校時代の同級生を裏切った自分への罰”なんだろうって……。でも、人間には限界があるんですよ」


「限界を感じたからと言って、殺人を犯していいことにはならないでしょう?」


正義感と怒りに満ちたヨウコの瞳に、サナエは乾いた微笑みを浮かべた。


「普通の人……いえ、正しい人間は皆、そう言うでしょうね。私自身少し前までは、殺人衝動なんて感じたことはありませんでしたから。でも、あの日“彼”に出会って、私の胸に眠っていたモノが徐々に溢れ始めたんです」


「彼というのは、誰です?」


「銀髪の若い男……」


「その男の名前は?」


「……知りません。いくら聞いても、教えてくれませんでしたから」


「あなたとその男は、どこで知り合ったんですか?」


「うちの店です。彼が店に来たのは3回だけでしたが不思議とその日は、決まって主人はいませんでした」


―――― 銀髪の男は、この事件の重要参考人……?


サナエの言葉に、ヨウコは思わず後ろで記録を取っていた藤原へ視線を向けた。


彼もヨウコの意図に気付いたのだろう。


無言で頷いている。


「あなたとその銀髪の男は、どのような関係だったのですか?」


「別に交際していたわけではありません。あくまで、相談相手です。ただ、店が休みの日に何度か、ホテルへ行きましたけど……」


―――― 普通、交際していない相手とホテルへ行くか? 夫婦揃って、全く……。


呆れたようにヨウコがため息を吐くと、サナエは口をつぐんだ。


額には、うっすら汗が滲んでいる。


「どうされました?」


「すみません、ちょっと気分が悪くて……。続きは明日にしてもらえますか?」


仮病かもしれない。


だが、捜査を円滑に進めるためにも、ここで無理に問い詰めてまた黙秘を決め込まれることだけは避けたい。


「……わかりました。詳しい話はまた明日、伺います」


その日は仕方なく、サナエを大塚警察署の留置場に入れることにした。



その夜、ヨウコは一度自宅へ戻り熱めのシャワーを浴びた。


頭をクリアにしてから状況を整理するためには、この方法が一番いい。


短く切られた黒髪をタオルで拭きながら、リビングのソファーに腰掛ける。


藤原の得た情報では、中村夫妻の一人息子は高校を卒業したのと同時に家を出てしまい、現在の詳しい消息は周囲の人間も掴めていないらしい。


そして、取調中にサナエの口から突如飛び出した《銀髪の若い男》というキーワード。


サナエはその男に、マインドコントロールでもされていたのだろうか?


それとも言い寄られ、若い男に乗り換えるため夫と別れようとしたのだろうか?


いずれにせよ、サナエが殺人という最悪な手段を選ぶに至った経緯を知るためには、銀髪の青年に関する情報を引き出すことが先決だ。


そう自分に言い聞かせたのと同時に、仕事用の携帯電話が着信を知らせた。


画面には、藤原の番号が表示されている。


「もしもし」


通話ボタンを押すと、受話器の向こうでは男たちの騒々しい声が飛び交っていた。


何かあったのだろうか。


「先輩、緊急連絡です! 中村早苗が留置場で突然死しました!」


さすがに今まで経験したことのない、最悪な事態。


けれど思考よりも先に、ヨウコの口と体は動いていた。


「……すぐ行く!」


幸い、ここから大塚警察署までは目と鼻の先だ。


走れば10分とかからずに、駆けつけることができる。


彼女はハンガーに掛けておいたスーツをひったくると急いで身支度を整え、部屋を飛び出した。



署に入ると、中は慌ただしい空気に包まれていた。


「おお、赤城。早かったな」


階段を駆け上がったヨウコに、角刈りの頭を掻きながら氷野ひの警部補が声をかけた。


係長の彼はここ数日署内に泊まり込んでおり、無精髭を生やしている。


少し汗臭いが、そこは多忙なためと目を瞑ることにする。


「被疑者が突然死したってどういうことですか?」


「今、解剖の方に回っているが、胸部を押さえたまま死亡していたことから、おそらく循環器系の疾患だろうな。まあ、自殺じゃないことだけは確かだ」


比較的落ち着いている氷野とは対称的に、ヨウコの胸中は穏やかでは無かった。


このままでは真相がわからないまま、被疑者死亡でこの事件の捜査は打ち切られてしまう。


実際、大塚警察署管内で起きている事件はこの案件だけではない。


だが、ヨウコにはどうしても銀髪の青年が深く関わっている気がしてならないのだ。


確証はない。


ただ自分の中の刑事としてのカンがそう言っている。


ヨウコたち強行犯係が3階の講堂で捜査内容を報告しながら待機している中、サナエの検死解剖の結果が出たのは、それから4時間後のことだった。


「死因は大動脈解離。この事案は、被疑者死亡で処理を進めていく」


氷野係長の言葉に、あちらこちらから深いため息がこぼれている。


無理もない。


今までの苦労が水の泡になった挙句、これから残された作業は検察庁に提出する膨大な量の調書作成なのだから。


「ちょっと待ってください」


湿った空気が漂う講堂に、ヨウコの声が響いた。


「……何だ?」


「まだ、気になる点がいくつかあります。それに、中村夫妻の息子の事情聴取も済んでいません」


「同居していない息子の話は、もう何の役にも立たんだろう。それより早く捜査資料の作成に移れ。管内で発生している事件で未解決のものは、まだあるんだぞ」


氷野の強い語気に、ヨウコは返す言葉が出なかった。


―――― 必ず、この事件が起きた本当の原因を突き止めてみせる……。


一人、心の内で呟きながらヨウコは講堂を後にした。


サナエが突然死したという記事は、早くも翌日の朝刊に掲載されていた。


マスコミにとっては、夫婦喧嘩のもつれによる殺人事件など何の面白みもないのだが、その被疑者が大塚警察署内の留置場で病死したとなれば話は変わってくる。


《警察の執拗な尋問によるストレス死》などと書かれた週刊誌は、それからしばらく話題になり、連日報道陣が詰めかけていた。



事件発生から3週間が経過した、10月31日。


ヨウコに面会を求めるため、一人の女性が大塚警察署を訪れた。


黒のスーツに身を包み、メガネをかけた小太りな女性。


「高橋と申します」


面会用の小部屋に置かれたイスから立ち上がり、丁寧なお辞儀をしながら彼女の差し出した名刺には、アーヴァン探偵事務所と書かれていた。


「お忙しいところ、お時間を頂き申し訳ありません」


「いえ、探偵事務所の方がなぜ、こちらへ?」


「赤城さんは、中村隆司さんの事件を担当されていたと伺いまして……」


高橋はそう言いながら、黒い鞄から資料を取り出してテーブルの上へ並べていく。


「事件のニュースを見て、2年ほど前に中村さんの身辺調査を依頼されたことを思い出したんです」


「身辺調査?」


「はい。依頼主は当時高校3年生だった、鮫島ユリ。被害者の娘さんです」


「娘……? 確か彼には、息子がいたはずですが」


「ユリさんは被害者の前妻との子供です。お母様が病気で亡くなった際にどうしても父親に会って話がしたいとこちらに依頼があったのですが、女性関係にだらしのない父親の姿を目の当たりにして、酷く傷ついていました」


「その、鮫島ユリという女性の写真はありますか?」


「すみません。依頼主の写真は1枚も……。依頼された当時の住所は残っていたのですが、既に転居されていました。私の方でも転居先を当たってみたのですが、行方がわからない状態で……」


高橋の話を聞きながら、ヨウコは資料を1枚1枚手に取り、丁寧に目を通していく。


そこには、中村家の家族構成や店の経営状態。


そして、被害者の素行調査結果も記されていた。


「最近、調べてわかったことなのですが、実はこの写真の女性も、今年の8月に交通事故で亡くなっているんです」


高橋が指差した先には、ラブホテルから出て来た隆司と派手な服装の女性が写っていた。


「偶然かもしれませんが、1つの調査依頼から情報を集めた対象者が次々と亡くなっているのは、正直異常としか言いようがありません。本来であれば依頼内容を外部に漏らすことは守秘義務に違反するのですが、本日こちらへ伺ったのは、このことをご報告するためだったんです」


「確かにここまで繋がると、この事件の背景には、誰かの意思が感じられますね……」


言葉を呟いた瞬間、ヨウコは10月10日に事件現場にいた茶髪の若い女性の姿を思い浮かべた。


―――― 高橋さんの話からすると、鮫島ユリは今、20歳前後か……。あの女性とおそらく年齢的には一致する。


「わかりました。捜査は既に打ち切られていますが、私もこの事件に関しては不可解な点が多いと感じていました。こちらでも、少し調べてみても宜しいでしょうか?」


「ありがとうございます。ぜひ、よろしくお願い致します」


高橋は深々と頭を下げると資料をヨウコに預けて、大塚警察署を後にした。


正直なことを言えば、書類送検も済んだこの事件に費やす時間はヨウコにはない。


だが、必ず真相を解明すると決意し、突如舞い込んだ有力な情報をみすみす手放すことなどできないのだ。


ヨウコは机上に広がった資料をファイルにしまい、仕事へ戻った。


そして、休む間もなく大塚警察署管内で新たな事件が発生したのは、その翌日だった。


事件発生から約8時間半が経過した、午後9時。


署内3階の講堂には長机とパイプイスが並べられ、重い空気が流れている。


無論、上座にいる氷野係長も険しい面持ちだ。


しかし、そんな状況など気にも留めない様子で職務を全うするかのように、藤原は捜査状況を淡々と報告した。


「現場は文京区音羽二丁目にある、カインズマンションの801号室。被疑者の村岡むらおか 時子ときこが母親の首を素手で絞めて殺害しようとしていたところ、物音で異変を感じた息子の村岡 隼人はやとが止めに入りました。

その直後、被疑者は突然激しい頭痛を訴え、駆け付けた救急隊員が死亡を確認した為、警察へ連絡。なお先程、死因はくも膜下出血と断定されました」


「おいおい。また、被疑者死亡かよ……」


「勘弁してくれ……」


誰かのため息混じりの声が、ヨウコの耳にも届いた。


「村岡トキコの母親によりますと、本日昼過ぎ、パート先から帰ってきた被疑者は突然怒り狂ったように意味不明な言葉を叫びだし、突如母親に掴み掛ったそうです。パート先は池袋駅東口にある、全国展開をしているドラッグストア。そこでの被疑者の評判は非常に悪く、度重なる遅刻と欠勤が原因でトラブルを起こしています。

また、パート先の同僚の話では同駅西口のホストクラブにも通い詰めていたらしく、これから被疑者が指名していた男に話を聞いてきます」


「そうか……。ご苦労さん」


氷野は、頭を掻きながら藤原に着席を促した。


「赤城と藤原はそのホストクラブで被疑者の情報を集めてくれ。他の者は引き続き、担当捜査の資料作成を続けるように」


「了解」


講堂から強行犯係の面々が退室していく中、藤原はヨウコの傍へ行き小声で尋ねた。


「先輩、ホストクラブって行ったことありますか?」


「いや、無いけど」


「自分の同期がつい先日、歌舞伎町で聞き込み捜査をしていたそうなんですが、やつら(ホスト)から確かな情報を聞き出すには骨が折れるらしいんですよ。もちろん、新宿と池袋ではまた違った部分もあるとは思うのですが……」


「何が言いたいの?」


鋭いヨウコの視線に、藤原は一瞬たじろぐと申し訳なさそうに切り出した。


「これから行く店のホストに……うまく取り入っていただけないでしょうか?」


「つまり藤原が話を聞くより、女の私の方が相手の警戒心を煽らずに済むってことね」


「失礼は重々承知しています。ですが、この事件に巻き込まれた被疑者の息子はまだ中学1年生。本来ならまだまだ親に甘えても良い年齢です。彼のためにも、自分は村岡時子がどうして自分の母親を殺害しようとしたのか。その動機を知っておきたいんです」


―――― 相変わらずの真面目さね……。


「わかった。その代わり、今度美味しいお酒奢ってよね?」


ヨウコは悪戯っぽく笑いながら、藤原の左肩を叩いた。



大塚警察署を出た2人は護国寺駅から有楽町線に乗り込み、池袋で下車した。


雨の上がった西口周辺はまだアスファルトが湿っており、平日の夜10時の今も傘を持って歩いている人が多い。


丁度青になった横断歩道を渡り、マクドナルドの横を通り過ぎた右手にあるKSビルの5階。


そこにホストクラブ《Venus》が入っている。


黒いスーツ姿の2人はエレベーターに乗り込み、5階のボタンを押した。


「いらっしゃいませ!」


エレベーターから降りるなり、活気のいい声が響く中、鬱陶しい髪型をした1人のホストが満面の笑顔でヨウコと藤原の元へ近付いて来た。


お世辞にも美形とは言えない容姿。


見るからにチャラチャラしており、頭の悪そうな男だ。


しかし、周囲には見えないよう、ヨウコが警察手帳を見せるとホストは一瞬にして表情を強張らせた。


「えっ!? なっ、何で……?」


「村岡時子さんの件で、こちらのカズという方にお話を伺いたいのですが」


単刀直入に切り出したヨウコに慌てふためくホストの姿に、気付いたのだろう。


店の中央で接客中だった別のホストが歩み寄って来た。


「あっ……警察の方が……」


まるで助けを求めるように呟いたホストを遮り、男は前に出た。


「いらっしゃいませ。申し訳ありませんが、他のお客様の目がありますので、奥のVIPルームにお越し頂けないでしょうか?」


「あなたは?」


「カズと申します」


ホストらしくないと言えば失礼かもしれないが、程よく筋肉のついた引き締まった身体、黒の短髪に清潔感のある白シャツを着たその男に、ヨウコと藤原は面食らってしまった。


「どうぞ、こちらへ」


女性客や他のホストから向けられる稀有な視線を受けながら、店の奥へ進む。


Venusの内装は白を基調としており、ヨウコが勝手にイメージしていた暗くて如何わしい雰囲気は全く感じられ無かった。


「お入りください」


カズが白い扉を開くと、その個室だけはまるで別空間のようにインテリアが黒一色になっていた。


右手のソファーを勧められ、ヨウコと藤原は腰を下ろす。


後から付いて来たホストに何かを耳打ちすると、カズはVIPルームの扉を閉めた。


「すみません、店の中で個室になっているのはここしか無いので……」


苦く微笑んだ彼が席に着くのを待ってから、ヨウコは口を開いた。


「いえ、なるべく手短に済ませますので。改めて、大塚警察署刑事課の赤城と申します」


ヨウコが差し出した名刺をカズは両手で受け取った。


「それで、お話というのは?」


「実は今日の昼ごろ、村岡時子さんが自宅で亡くなりました。聞き込み捜査の中で村岡さんがこちらのお店によく出入りしており、あなたを指名されていたと伺ったのですが、ここではどのような様子だったのか聞かせて頂けないでしょうか?」


鋭い視線を送りながら尋ねるヨウコに、彼はやや気まずそうな顔をした。


「うーん、あまりお客さんのことを悪く言うのは心苦しいのですが……。正直、トキコさんは酒癖の悪い女性でしたね。少しでも自分の気に入らないことがあると暴言を吐いたり、物に当たったり。酷い時は他のお客さんにまで絡んで営業妨害することもありました。

店の売り掛け金も未清算のことが多くて、いくら俺が店のNo.1と言っても、やっぱり収入が減るのは困るので……」


彼の話した内容を藤原が手帳に書き込むのを横目で確認しながら、ヨウコは質問を続ける。


「村岡さんは週にどれくらいのペースで通ってらっしゃったのですか?」


「イベントなんかがあると、多いときで4回。大抵は週末に2回ですね。それにしても、刑事さんたちも色々大変ですね」


その言葉の意味がわからないという2人の表情に、カズは気の毒そうに眉を下げた。


「ついこの前も大塚警察署の留置場で、殺人事件の犯人が突然死したって話題になっていたじゃないですか」


「……よくご存知で」


「あはは、ホストはニュースなんて見ないと思ってました?」


「いえ、そんなつもりでは」


徐々に声のトーンが低くなっていくヨウコに、カズは自分の顔の前で両手を合わせた。


「ごめんなさい、冗談です。実は、あの殺人事件があった場所は俺の実家なんです」


「えっ!? じゃあ、あなたが中村夫妻の一人息子の……」


「はい。ここでは源氏名でカズと名乗っていますが、本名は中村なかむら 一樹いつきです。親父に勘当された身ですけど、事件のことを店には知られたくないので秘密にしておいてください」


思わぬところから出てきた真実に、ヨウコは何度も瞬きを繰り返し、隣の藤原はボールペンを落とした。


「すっ、すみません」


慌てて拾った彼の仕草に、カズは笑っている。


「てっきり、お2人がいらしたのは実家の件だと思っていたので、トキコさんの名前が出てきたときはビックリしました。こんな偶然もあるんですね」


高校卒業と同時に家を出た息子と聞いて、どんな不良かと思っていたヨウコたちにとって、目の前にいる爽やかな青年の姿はあまりにも予想外だった。


確か、資料には19歳とあったが、とても未成年には見えない。


しかし、実の母親が父親を殺し、拘留中に病死したというのにこんなにも明るく振る舞えるのはどういうことなのだろう。


それに、サナエと隆司の遺体はそれぞれの実家が引き取り、彼とは全く連絡がつかなかったはずだ。


「あっ、すみません。お客さん待たせちゃってるんで、そろそろ仕事に戻らせてもらっても良いですか……? この部屋の使用料は俺からのサービスにしておきます。なので、俺が未成年ってこともできれば秘密で……」


「我々は刑事課ですので、今のお話は聞かなかったことにしておきます」


「あはは、刑事さんが外見だけではなく、内面もステキな女性で良かった!もうすぐ誕生日なんで、安心してください。それまで、ちゃんと店長がうまくやってくれてるんで」


「わかりました。お忙しいところお時間をいただき、ありがとうございました」


ヨウコが苦笑しながら言うと、カズは会釈をして扉を開けた。


入れ替わりにVIPルームへやって来たホストに促され、ヨウコと藤原は店を出た。


まさか全く別の事件の情報がこんな形で手に入るとは、正直思いもしなかった。


嬉しい反面、まるで誰かに踊らせれているような感覚だ。


―――― あとは、銀髪の若い男か……。


様々な情報が飛び交う頭の中を整理しながら、駅への道を歩いていると、ヨウコの目にあるものが映った。


「先輩!?」


無意識のうちに走り出したヨウコの背中に、藤原の大声が響く。


気のせいだったのだろうか。


駅前の人混みの中に、事件現場で目撃した女性の姿を見た気がしたのは。


「どうしたんですか?」


慌てて追いかけてきた藤原は、驚いた表情を浮かべている。


「ごめん、なんでもない。ちょっと考え過ぎてたみたい……」


ヨウコはそう呟きながらも、人混みの方へ視線を向けていた。



大塚警察署へ戻り、事務仕事を一通り終えた頃には、時計の針は深夜2時を示していた。


眠い目を擦りながらコーヒーを飲んでいると、右ポケットに入れていた仕事用の携帯電話が鳴った。


見覚えのない番号からの着信。


ヨウコの対面に座っている藤原も、こんな時刻に着信とは何事かと言わんばかりに、不思議そうな眼差しを送っている。


「はい、赤城です」


「先程、お越し頂いたVenusのカズです。遅くにすみません。今、電話大丈夫でしょうか?」


「ええ。どうされました?」


「さっきは気が動転していて、話すのを忘れてしまったらしいんですけど……。後輩が今日の昼頃、傘も差さずにビルから飛び出してきたトキコさんを見たって言ってるんです。これって何かの参考になりますか?」


その言葉を聞くなり、ヨウコは勢いよく席を立った。


「今、どちらにいらっしゃいます?」


「えっ? まだ、店にいますけど……」


「わかりました。すぐに向かいますので、目撃した方にも待っていてもらってください!」


ヨウコは手短に藤原にも説明すると、署の車に乗り込み、池袋へ向かった。


15分ほどかかって再び店へ戻ると、カズの隣にはヨウコが最初に警察手帳を見せたホストが立っていた。


営業が終わって疲れているのか、先程よりも顔色が悪い。


テンションが下がっている方が、何故だかまともな人間に見えた。


「村岡さんを目撃したのは何時頃ですか?」


「えっと、東口にある寮から出て、昼メシを買いにコンビニに行ってた時だから……丁度12時くらいっすかね」


「出てきたビルの場所ってわかります?」


「確かサンシャインに向かう途中のファミレスの隣にある、ボロいビルっす。1階にタバコ屋があって、2階のマッサージ屋の看板が歩道に立ってるとこ」


「その時の村岡さんの様子ってどんな感じでした?」


「うーん。焦ってたっつーか、何かにビビって逃げ出してきたような感じっすかね。結構周りにいた人間は見てたと思いますよ。ピンクのミニスカ履いたオバサンだし、どしゃ降りの雨だったのに、傘差して無かったっすから」


「……なるほど。ありがとうございます」


まさか、この男が有力な情報を提供してくれるとは。


その功績に免じて、お客をオバサン呼ばわりしたことは聞かなかったことにしよう。


ヨウコは礼を言いながらも、眉間にシワを寄せていた。



ホストから新たな情報を得た後、自宅で仮眠を取っていたヨウコは枕元に置いたデジタル時計のアラーム音で目を覚ました。


時刻は午前9時45分。


昨日の雨とは打って変わって、窓の外は晴天が広がっている。


―――― あれ? 光ってる……。何だろう?


何気なく視線を流した先でLEDの光を放つ携帯電話の画面を覗くと、藤原からメールが1通届いていた。


受信時刻は、20分ほど前。


おそらく電話で起こしてはマズイと、彼なりに気を遣ってくれたのだろう。



お疲れ様です。

これから、村岡トキコが目撃された池袋東口のビルへ行ってきます。

聞き込みが終わりましたら、またご連絡致します。



必要な要件だけが並べられたメール。


藤原はよく気が効くし、年齢の割にだいぶ落ち着いている。


柔道参段の実力者で将来有望な若手刑事として、署内でも評価は高い。


おそらく何か大きな事件で功績を残せば、すぐにでも本部へ異動ができるだろう。


―――― 私も、うかうかしてられないわね……。後輩がこんなに頑張っているんだから、しっかりしないと。


ヨウコは自身を鼓舞するように両頬を叩くと、手早く身支度を整えて、池袋の東口へ向かった。



その頃、藤原は目的のビルの前に立っていた。


ホストの言っていた通り、1階はタバコ屋。


2階に《Reset》という、マッサージ店。


3階は特にテナントなども無く、現在は使われていないようだ。


看板の奥に位置する古びた階段を上がり、マッサージ店のドアを開けた。


「いらっしゃいませ」


出てきたのは、銀髪の若い男。


見た目は、20代前半といったところだろうか。


男の自分から見ても驚く程、とても整った顔立ちをしている。


しかし、白衣姿には違和感のあるその髪色に、一瞬藤原は言葉を詰まらせた。


―――― まさか、この男……?


「お仕事中に失礼します……。私、大塚警察署刑事課の藤原と申します。昨日、村岡時子という女性がこちらのお店から出てきたという目撃情報がありまして、少しお話を伺いたいのですが」


「ムラオカ トキコ……?」


「この女性です」


わからない。といったような表情をした男に、藤原は1枚の写真を取り出した。


「ああ。この方なら、確かに昨日こちらにいらっしゃいました」


「目撃者によると、逃げるように出てきたような印象受けたそうなんですが、店内で何かトラブルでもあったのでしょうか?」


質問に対する、一瞬の沈黙。


その間、銀髪の男と藤原の視線がぶつかり合う。


―――― 何かを警戒するような目。やはりこの男、ウラがありそうだな……。


「えっと……実はマッサージを終えた後、突然抱きつかれてキスされたんです」


「村岡さんの方からですか?」


「はい。何か“そういうお店”と勘違いされたようで……。止めたんですけどかなり強引な方でラチがあかなくなって。僕が警察を呼ぼうとしたのを見て、慌てて店から去って行きました」


思い出すのも気分が悪いと言わんばかりの彼の表情に藤原は同情しつつも、先程から頭の片隅にあるもう1つの疑問をぶつけてみた。


「ちなみに、中村早苗という女性のことはご存知ですか?」


「ナカムラ サナエ? いや、知りません。その方も何か事件に巻き込まれたんですか?」


―――― 完璧なまでの冷静な態度。逆に怪しいと思うのは、考え過ぎか……?


「……いえ。ご存知ないようでしたら、結構です。お忙しいところ、ありがとうございました。ご協力、感謝致します」


作り物の笑顔を向けながら丁寧に礼を言うと、藤原は階段を降りて行く。


一方、銀髪の男はそんな彼の後ろ姿を敵意にも似た眼差しで眺めていた……。


ビルから出たところで一度立ち止まった藤原はヨウコに報告するため、スマホを取り出した。


ロックを解除しアプリを開いてみたが、新たに受信したメールはない。


―――― 先輩、まだ寝ているのかもしれないな。仕方ない、先に署へ戻るか……。


そう1人納得して、スマホをしまおうとした時だった。


丁度、ヨウコから電話がかかってきたのは。


「はい、藤原です」


「お疲れ様。今、どこにいるの?」


「例のマッサージ店から出てきたところなので、池袋のサンシャイン通りです」


「じゃあ、東口のヤマダ電機本店の前で待っててくれる? 私もあと5分くらいで着くから」


「了解です」


平日の朝にも関わらず、池袋は様々な年代の人間で溢れていた。


警察官という職業柄、道行く人々をつい観察してしまうが、本音を言えばこうした人混みはあまり得意ではない。


藤原は人通りの少ない裏道を歩くことにした。


細い路地を抜け、ヤマダ電機本店の前に着いた数分後には、横断歩道を挟んだ反対側にヨウコの姿を確認した。


向こうもこちらに気付いたようだ。


信号が青に変わるや否や、彼女が走ってくる。


「ゴメン、お待たせ。藤原、朝ご飯はもう食べちゃった?」


「いいえ、まだですけど……」


「良かった。朝から聞き込みに行ってくれたお礼に、奢るわ」


そう言いながらヨウコは周囲を見回し、反対の通りに位置する喫茶店を指差した。


「あっ! あそこなら落ち着いて話ができそう。って、また横断歩道渡る羽目になっちゃうけど……」


おそらく、何も考えずにここを待ち合わせ場所に選んだのだろう。


苦笑している彼女に、思わず藤原もつられて笑ってしまった。


「昨夜から、二度手間続きですね」


「ホントよ。あのバカ面ホストが最初に話してくれてれば、あんな深夜までかからずに済んだのに……。ただでさえ忙しい時に勘弁してほしいわ」


来た道を戻りながら、年甲斐もなく頬を膨らませているヨウコは普段署では見せないほど、自然な表情をしていた。


ヨウコの指差した、煉瓦造りの外装のビル。


その2階に位置する店内へ入ると、コーヒーの香りと共に姿勢を正したウエイトレスが2人を出迎えた。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」


「じゃあ……あそこにします」


ヨウコが選んだのは、ほぼ人の姿はなく空いている窓際の禁煙席だ。


「かしこまりました。すぐにお水とおしぼりをお持ちします」


そう言って一度奥へ姿を消し、すぐさま戻って来たウエイトレスに、ヨウコと藤原はコーヒーとサンドイッチのモーニングセットを1つずつ注文した。


「藤原、モーニングセットだけで足りるの? 遠慮しないで、沢山頼んで良いよ?」


「あっ、はい。大丈夫です」


「本当に? 私に変な気、遣ってくれてない?」


「そんなことありません!」


「そう……。それで、聞き込みはどうだった?」


「村岡時子が昨日パート先を出た後、マッサージ店を訪れたのは間違いありませんでした。ですが、彼女がマッサージ師の男にセクハラ行為をしたため、警察に通報されそうになり、逃げ出して来たというのが目撃情報の真相のようです」


予想外の藤原の報告に、ヨウコは呆れ果てたように大きな溜め息をついた。


「全く……。捜査が進めば進むほど、被疑者の悪い話ばかり耳に入ってくるわね」


「はい。誰に聞いても、村岡時子は自己中心的で感情的になりやすいタイプの女性という情報しかありません。母親を殺害しようとしたのも、頭に血が上ってという流れだったのかもしれませんね……。ただ、1つだけ気になることがあります」


そう言って藤原が身を乗り出したところで、ウエイトレスがモーニングセットを運んで来た。


「お話中、失礼致しました。ごゆっくりどうぞ」


淡々と仕事をこなした彼女の後ろ姿を横目で追いながら、ヨウコはゆっくりコーヒーに手を伸ばす。


「……気になることって、何?」


「店のマッサージ師、銀髪の若い男だったんです」


「えっ!?」


ヨウコは口元に運んだコーヒーカップを反射的にソーサーへ戻した。


危ないところだった。


藤原がその言葉を発するのがあと数秒遅かったら、コーヒーを彼の顔面目掛けて吹き出していたかもしれない。


「その男、いくつくらいだった?」


「おそらく、20代前半かと。念のため中村早苗についても聞いてみたのですが、残念ながらそこは空振りでした」


「確かに銀髪の若い男ってだけじゃ、その男が春日二丁目の事件にも関与していたと考えるのは難しいわね。でも、銀色に髪を染めてる人間もそう多くはないでしょうし、もう少し当たってみる価値はあるか……。よし、空いた時間を使って、私が探りに入るわ」


「えっ、先輩1人でですか? 他に従業員の姿もありませんでしたし、自分も同行します」


「いや……仮に、その男が中村早苗と接点があったとすれば、藤原が警察官だとわかっていながら、自分が怪しまれるような発言はしないはずよ。大丈夫、非番の日にあくまで一般の女性客として近付くから」


「……わかりました。ただ、これは自分のカンなのですが、何か彼には黒い部分がある気がしてならないんです」


「うーん、割と藤原のカンは当たるからな……。でも、そんなに深追いはしないし、心配ないわよ」


「何かあったら、すぐ自分に連絡してください!」


「わかった……」


ヨウコは苦笑しながらも、頭の中は銀髪の男のことで埋め尽くされていた。



しかし、その5日後。


ようやくできた非番の日を使い、昼前にヨウコが足を運んだマッサージ店に銀髪の男の姿は既に無かった。


店のドアには閉店を知らせる貼り紙がされ、外から見える店内には暗闇が広がっている。


ヨウコはこのビルの持ち主であるタバコ屋の女店主に話を聞いたが、2階を借りていたのは銀髪の若い男などではなく、整体師を名乗る初老の男性だったという。


度重なる家賃の未納により3日前強制退去を言い渡し、その男性が今はどこに居るのか見当もつかないそうだ。


掴みかけた手掛かりは、一体何だったのだろうか。


まるで、狐につままれた気分に襲われたヨウコはすべての繋がりをもう一度整理するため、春日二丁目の事件現場へ向かった。



池袋から丸ノ内線で3つ目の後楽園駅。


日曜日の今日は、何かイベントでもあるのだろうか。


改札を出るとやけに派手な髪型や服装をした若者たちが、あちらこちらにたむろしていた。


そんな賑やかな光景を横目に、歩道橋を降りる。


そして、10分ほど歩き、管轄が隣接している富坂警察署を通過して、閑静な住宅街に入った。


さすがに事件から1カ月近く経つと、人間の興味というものも薄れてくるのだろうか。


あれほど、周辺に群がっていた報道陣や野次馬の姿は全くない。


しかし、ヨウコが最後の角を右に曲がると中村夫妻の経営していた居酒屋の前には1人の女性が立っていた。


―――― あれは、まさか……。


肩まで伸ばし、緩やかにウェーブのかかった茶色い髪。


黒のトレンチコートにデニムのパンツ。


10月10日、事件現場にいた女性と背格好も似ている。


もしかして、彼女が鮫島ユリなのではないだろうか。


そう考えるのは、都合が良過ぎるかもしれないが……確かめてみる価値はある。


「あの、失礼ですが……」


突然掛けられた声に驚いた女性は、反射的にヨウコの方へ顔を向けた。


「鮫島ユリさん、ですね?」


「えっと……すみません。どこかで、お会いしましたか?」


「いいえ。私、こちらで発生した殺人事件を担当しております、大塚警察署刑事課強行犯係の赤城と申します」


非番とはいえ、警察手帳を携帯していて正解だった。


ヨウコはコートの内側から、自分の顔写真付きのそれを見せる。


「刑事さんが、どうして私の名前を?」


「実は、この事件の捜査を進めていくうちに、殺害された中村隆司さんには前妻との間に娘さんが居たことが判明しまして。それが、ユリさん……あなたですね?」


どんなにやましい事が無いにせよ、突然警察手帳を見せられた挙句、自分のことを調べられていたと聞いて平然としていられる人間は少ない。


ここで何かを聞き出せればしめたものだ。


しかし、ヨウコの言葉にユリはあまり表情を変えず、静かに頷いた。


「警察の捜査って、そんなところまで調べちゃうんですね。スゴイなぁ……。私自身、ここに住んでいた方が自分のことを捨てた父親だと知ったのは、探偵事務所に調査を依頼した2年くらい前なんです」


「新宿にある、アーヴァン探偵事務所ですね?」


「……そうです」


「ちなみに、事件の起きた10月10日もこちらへ足を運んでましたよね? もし宜しければ、なぜ現場にいらしたのか、理由を聞かせて頂けないでしょうか?」


この質問は、予想外だったようだ。


まさか目撃されていたとは……。


ユリの両目がほんの僅かだが、そう言わんばかりに泳いだのをヨウコは見逃さなかった。


「あの日は、私の20歳の誕生日だったんです。高校3年の春に母が病気で突然亡くなってしまって。以来、父親にもそのことを伝えるかどうか迷っていたのですが、この機会に一度会って話をしてみたいと思って……。それなのに、ここへ着いたら殺人事件が起きたと聞かされて、あまりにもショックで」


「そうでしたか……。辛いことを思い出させてしまって、すみません」


「いえ、多分子供を捨てるような最低な父親には会う必要が無いってことだったんですね」


儚げな表情を浮かべたユリに、ヨウコは少しだけ気の毒なことをしたと思った。


だが、もう1つ彼女にも聞いておかなければならないことがある。


「実は今回の事件の犯人である中村早苗……つまりあなたのお父さんの再婚相手の知人には、銀髪の若い男性がいたそうなんですが心当たりはありませんか?」


「銀髪の若い男性……? いえ、探偵事務所に依頼した調査結果にも、そんな記載は無かったと思いますけど。第一、私は再婚相手の女性と面識もありませんでしたから」


そう呟くユリの表情は先程とは打って変わって氷のように冷たく、思わずヨウコは一歩後ずさった。


「すみません。用事があるので、私はこれで失礼します」


そして、これ以上の質問は止めて欲しいと言わんばかりに会釈をして去っていくユリの背中には、どこか物悲しい雰囲気と共に狂気を感じた。


早まる鼓動を鎮めながらヨウコはゆっくり現場に向き直り、2階建ての一軒家を眺める。


全く霊感など持ち合わせていない彼女には、死者の声など聞こえはしない。


―――― 仕方ない、ここまでか……。


ヨウコはこの事件に見切りをつける時が来たのだと、自分の心に言い聞かせた。


しかし、そんな彼女の決意を嘲笑うかのように、銀髪の男の殺戮は加速していった……。

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