第3話【臥薪嘗胆】
「あんたなんか産まなければ良かった!」
私は小学校の入学式の日、帰宅するなりお母さんに顔面を殴られた。
「あんたのせいで、下村とかいう非常識な夫婦に私までバカにされたじゃない!」
どうしてお母さんがこんなに怒っているのか。
どうして自分が殴られ、罵声を浴びなければいけないのか。
「入学おめでとう」という言葉すらかけてもらえない理由が、あの頃の私には、全くわからなかった。
あまりのショックに涙すら出ない。
ただ、口の中に広がる血の味だけがとても気持ち悪かった……。
幸せな家庭って、何なの。
自分の父親の顔を私は知らない。
だって、私が1歳の誕生日を迎えた日、彼はお母さん以外の女を選んで出て行ってしまったから。
物心のついた頃にはお母さんと2人、東京郊外のアパートで暮らしていた。
その頃に関しても、あまり良い思い出は無い。
記憶の中の彼女はとても厳しくて、いつも怒っている人間だった。
あれは確か、私が5歳になったばかりの時だ。
「毎日これをやりなさい」
威圧的な口調で突然渡されたのは、ひらがなとカタカナのワークブック。
「ただ書けるだけじゃ、ダメ。良い? お手本の通りに、きれいな文字を書くの。うちは母子家庭なんだから、ちゃんとしてないと周りからバカにされるのよ」
《うちは母子家庭なんだから》
お母さんの口から出るこのセリフを一体、何回聞いただろう。
もう、耳タコだった。
だけど、幼い私に拒否権なんてない。
小学校に入るまでの約2年間、お母さんが仕事に行っている間にやることは遊ぶことじゃなくて、ひたすら文字の書き取りと勉強だけだった。
あとになって気付いたけど、彼女はとてもプライドが高くて、人からバカにされることを極端に嫌う性格だったんだ。
実は入学式の日にお母さんがヒステリーを起こしたのも、ある夫婦にバカにされたことが原因だった。
式が終わって私達が校庭の桜をバックに集合写真を撮っている間、保護者は端で待機していた。
その時、偶然隣に居た下村夫妻がお母さんに
「せっかくの子供の晴れ舞台なのに、ご主人はいらしてないんですか?」
と余計な言葉をかけたらしい。
全くもって大きなお世話だと思うけど、私が子供の頃はまだ母子家庭は少なくて、冷ややかな視線を浴びることは珍しくなかった。
キレイな字を書くこと。
常に礼儀正しく、周りの大人に気に入られること。
とりあえずこの2つを守っていれば、自分が傷付くことはなかった、歪んだ幼少時代。
それは、次第に崩れていった……。
小学5年生になると、お母さんの要求は更に強くなった。
毎週行われる国語と算数のテスト。
初めのうちは満点を取り続けていたけど、ある日1問だけ間違えてしまった。
「なんでこんな簡単な問題で100点が取れないの!」
満点ではないことを理由に顔面を思い切りひっぱたかれた。
左頬に走った痛み。
それと同時に口の中は切れ、血の味が広がる。
またこの味……。
頭に血が上ったお母さんは、ランドセルの中身を乱暴に取り出して、小学校で使う国語と算数の教科書の表紙をビリビリに破いた。
どうして、そんなことをするの?
子供ながらに自分の母親の行動は、異常だと思った。
どうしよう……。
このままじゃ、学校に持って行けないよ。
私は泣きながら、教科書の表紙をセロテープで貼り付けた。
「ユリちゃん、これどうしたの?」
翌日の放課後、担任の女の先生は私を教室に残して、2冊の教科書を指差して優しく尋ねた。
「お母さんが……」
思わずその言葉を発してしまった瞬間、担任が虐待を疑っていることに気付いた私は咄嗟に口をつぐんだ。
しまった!
「前々から、気にはなっていたんだけど……。ユリちゃん、お家でお母さんに叩かれたりしてない? 今度、先生がお母さんとお話しても良いかな?」
担任の優しい目の奥に潜む、疑惑と怒りの色に私は慌てて首を振った。
「ちっ、違います! 私がいたずらで破いたから、お母さんが直してくれただけで!」
そんなこと、あるわけない。
明らかにウソだって、バレてた。
だけど、もし先生がお母さんを問い詰めたら?
誰も守ってくれない状況の中で、またヒステリーを起こされたら、何をされるかわからない。
もう、叩かれたくない。
傷付きたくないよ……。
助けの求め方を知らなかった私は、自分を守るためには完璧な人間になるしかないと、この時悟った。
常に成績は学年トップ。
運動神経もそこそこ良い方。
強いて苦手科目を挙げるなら、美術くらいのものだった。
『優秀なお子さんですね』
『うちの子にも、娘さんの爪の垢を煎じて飲ませたいですよ』
教師をはじめ、周囲の人間に褒められればお母さんの機嫌は良かったし、叩かれることも罵声を浴びることもない。
優等生を演じて仮面を被っている間は、とても楽だった。
もちろん、同級生からも嫌われないように誰にでも分け隔てなくいつも明るく優しく振る舞い、笑顔を絶やさなかった。
もし私が芸能界に入っていたら、天才子役になれたかもしれない。
だけど、義務教育を終え都立の進学校へ入学した矢先、そんな鉄の仮面を剥がす存在が現れた。
「
まだ入学式から3日しか経っていなかった。
それなのに、同じクラスの
「えっ……どういう意味?」
「言葉のままだよ。キミ、誰にも本心を見せてないだろ」
まっすぐ見つめてくるダークブラウンの瞳に全て見透かされているみたいで、私は思わず窓の外へ目線をそらした。
例年より開花が遅かった校庭の桜は、まだ綺麗に色付いている。
「ああ、ゴメン。別に責めているわけじゃないんだ。僕も同じ片親だから、キミと話してみたくて……」
えっ!?
思いがけない言葉に、顔が自然と彼の方へ向き直っていた。
「鮫島とは逆の父子家庭だけどね」
「ちょっ、ちょっと待って……。なんでうちが、母子家庭って知ってるの?」
「悪いとは思ったんだけど……。入学式の時、新入生代表の挨拶をしているキミの姿を見て、何となく僕と似た雰囲気を感じたから担任に聞いたんだ」
なんで勝手に人の家庭のこと聞いてるのよ。
正直、あまり母子家庭であることは同級生に知られたくなかった。
大抵、どうしてそうなったのか、理由を聞かれるから。
だけど、彼が投げかけた質問は少し違っていた。
「鮫島は、お父さんの顔って覚えてる?」
「ううん、覚えてない……。両親が離婚したのは、私が1歳の頃だったから」
「そっか、一緒だね。僕も母親の顔は知らないんだ」
さっきまでの鋭い視線がウソのように柔らかくなり、彼は苦く笑った。
へぇ……。こんな表情もするんだ……。
《似た環境で育った親近感》だったのかもしれない。
ただ、あまり異性に対して良い印象を持ったことがない私にとって、その笑顔は特別だった。
何でだろう、ドキドキする……。
高鳴る鼓動を悟られないよう、私が視線を桜の方へ移すのとほぼ同時に、彼の口からは信じられない言葉が飛び出した。
「僕の母親はね、父親に殺されたんだ」
再びぶつかり合う、2人の視線。
今のは、聞き間違いだった?
いや、目の前にいる同級生は確かに乾いた声で、衝撃の真実を口にした。
「えっ? どういうこと?」
「確証を得たのはつい最近なんだけど。この話の続き、興味ある?」
彼はなんて目をするんだろう。
優しそうな甘いマスクの下に隠された、危険な素顔。
私は本能で、彼の本質を理解した。
それでも近付かずにはいられない何かを、この男は持っている。
「うん、教えて……」
「良かった。キミなら絶対そう言ってくれると信じていたよ。できれば、僕の復讐に力を貸して貰いたいんだ」
彼の言葉の真意はわからない。
ただ、怪しい笑みを浮かべた《ヤスヒト》に、私は惹き込まれていった。
その日を境に、私とヤスヒトはお互いのことをよく話して、一緒にいる時間が長くなった。
周囲からは学校一の美男美女のカップルと噂されることが多かったけど、恋愛感情があったわけじゃない。
むしろ、それ以上に2人の間には他の誰も踏み込むことのできない絆が生まれていた。
《同志》もしくは《共犯者》
そんな言葉が、最適だったのかもしれない。
そして、秘密の関係が生まれてから2年後。
更に事態は急変した。
高校3年生の春。
私のお母さんが自宅で眠っている間に心筋梗塞を起こして、急死した。
訳の分からないうちに警察や医師の検証が済んで、他に家族も親戚もいない私は2日後に火葬だけを行った。
ストレッチャーに乗せられた棺が納められ、火葬炉の扉が閉じる瞬間。
自然と涙が溢れて、自分の中で最も憎く、大きかった存在が消えた。
あの時の光景だけは私の脳裏に鮮明に焼き付いて、どれだけ時間が経っても離れることはない。
「ユリ、大丈夫か?」
お母さんが亡くなってからというもの、毎日焼香をしに自宅へ来てくれていたヤスヒトが、心配そうに呟いた。
私は彼の隣で正座したまま、呆然と母親の遺影を抱えている。
線香の匂いが部屋中に充満していて、少しだけ鼻についたけれど、動こうという気が全く起きない。
そんな私を見兼ねてか、ヤスヒトが窓を開けて空気を入れ替えてくれた。
「……ありがとう」
「いや、それより何か食べないとキミまで倒れてしまうよ?」
ヤスヒトから見たら、私はとてもやつれていたのかもしれない。
この数日間あまり食欲がなくて、水分しかとっていなかったから。
「ユリ……?」
ヤスヒトが再び声をかけたのと同時に、私はゆっくりと口を開いた。
「私ね、小さい頃からお母さんが嫌いだったの。自分の思い通りにならないとすぐ怒って叩くし、大人になったらいつか復讐してやろうって思ったこともあった」
「うん……」
「それなのに、どうしてかな? あれ程憎んでいたはずなのに、どうしてこんなに悲しいんだろう……?」
ポツリポツリと言葉を紡ぎながら、涙を流す私をヤスヒトはそっと抱きしめた。
温かい……。
ヤスヒトの心臓の音が、耳に心地いい。
「キミはお母さんのことを憎んでなんかいなかったんだ。ただ、優しくして貰いたかっただけなんだよ。どんなに辛くても、苦しくても、言えなくて……。傷付く自分をひたすら押し殺して、仮面を被って生きてきた……。だけど、そんな生活はもう終わったんだよ。ユリはやっと、解放されたんだ」
囁くヤスヒトの言葉に、私は更に大粒の涙を流した。
「でも、このやり場のない悲しみと憎しみは、どこへ向けたらいいの……?」
震える声を絞り出すように問いかけると、ヤスヒトは抱きしめた腕を解き、私の目の前に顔を近付けた。
彼のダークブラウンの瞳が、怪しい輝きを放つ。
「憎むべき相手は、別にいるだろ?」
「えっ?」
それまでの優しい声色とは打って変わって、とてつもなく冷徹な声。
「父親が自分だけ幸せになる道を選んだから、キミたち親子はあれ程苦しんだんじゃないか。許せるのか? そんな自分勝手な父親を。復讐したくないのか? そんな最低の男に……」
「……私は」
「ユリ、キミの本心を僕に聞かせて?」
私はヤスヒトの瞳が怖くて、思わず両目を瞑った。
すると、様々な感情が入り混じった頭の中で、幼い頃から今日までの記憶がフラッシュバックする。
早まる鼓動。
荒くなる呼吸。
蘇る痛み。
そして、込み上げて来たのは、父親に対する殺意……。
そうか、仮面を外した素顔の自分は、憎しみの権化だ。
答えを見つけて力強く見開いた私の両目は、優等生を演じてきた人間のものとは思えないほど血走っていたに違いない。
「あの男を……殺してやりたい」
腹の底から出るような低い声に、自分でも驚いた。
「ああ、苦しめて殺してやろう。何年かかっても、今度は僕がユリを支えるよ。“あの時”、キミがそうしてくれたように……」
ヤスヒトは悪魔の言葉を囁きながら、私にそっとキスをした。
「そうと決まれば、まずは獲物のことを詳しく調べようか」
唇を離したヤスヒトは、言葉とは裏腹に穏やかな声を出した。
「それなら、お母さんの遺品の中に日記と通帳が残ってたよ」
私は部屋の角に置かれたサイドボードの引き出しを開け、中から黒い日記帳と三ッ葉銀行の通帳を取り出した。
まるで、ドラマみたい。
そう思ったのも、無理はない。
日記帳には、母親が妊娠中に父親が他の女と肉体関係を持っていたこと。
その浮気相手は、母親の高校時代の友人だったことが書かれていた。
「キミの父親も、つくづく最低な男だな」
一緒に覗き込んでいたヤスヒトが吐き捨てるように言った。
「ホントに……。お母さんも、どうしてこんな男と結婚したんだろう?」
離婚後たった半年で振込みが止まった養育費の記帳履歴を見ながら、私はため息をつき、真実を知ることを心に決めた。
この遺品からわかったことは、他にもあった。
まず1つ、父親の名前は
そして、もう1つ。
驚いたことに私には、1つ年下の腹違いの弟がいるらしい。
私と1つしか変わらないってことは、浮気している間にもう子供まで作っていたってことだよね?
知れば知るほど最低な男……こんなクズは、この世から消してしまえばいい。
日記の書かれた15年くらい前は、彼ら3人が文京区に住んでいたこともわかった。
「名前と住所がわかれば、もう獲物は僕らの手の中だ。ここから先の情報収集は、プロに任せよう」
「……プロ?」
「ああ、探偵事務所に父親の現在の状況調査を依頼するんだ。できれば女性の担当者がいいな」
「……確かにこの話の流れなら、女性の方が親身になってくれそうだね」
ヤスヒトの助言を受けて私はお母さんの死亡保険金を使って、調査を依頼することにした。
ネットで探して、選んだのは初回相談無料と掲載された女性職員のみで活動している探偵事務所だ。
携帯電話からメールで依頼内容を送信すると、すぐさま詳しい調査の流れが添付されたメールが返ってきた。
どうやら、自宅でも担当者との面談が可能らしい。
「明日、ここで相談できるって……」
「対応が早い事務所なら、信頼できそうだな。僕も明日、一緒に居ても良いかな?」
「ありがとう。でも、大丈夫。ヤスヒトは普段通り学校へ行って。私はやるべきことを全て終えたら戻るから」
「……わかった。何かあったら、すぐ連絡してくれよ」
そう言って立ち上がろうとした彼の腕を、私は咄嗟に掴んでいた。
「ん? どうした?」
「ゴメン、ヤスヒト……。1つだけお願いがあるの」
「……何?」
「今日だけ、一緒に居て? やっぱり、一人は寂しいから……」
涙を浮かべて懇願した私に、ヤスヒトは思わず理性を失ったようだった。
強引に私のカラダを抱き寄せて、何度も何度も唇を重ねる。
初めて見せたヤスヒトの感情をぶつけるような行動に、私は少しだけ戸惑いながらもすぐにそれを受け入れた。
「僕はユリが好きだ……」
「……私も」
ああ、やっぱりこの人だけは特別なんだ……。
優しい彼の愛撫は、私の凍りそうだった心を温めてくれた。
自然と溢れた甘美な声。
そして、今まで味わったことのない快感に身も心も溶けてしまいそうだった。
お互いの体温を感じたまま眠りについた私は、幸せに包まれていて、この先に待ち受ける残酷な結末を知る由も無かった……。
翌日、昼近くになって、インターホンが鳴った。
ゆっくりドアを開けると、メガネをかけた小太りな女性が立っている。
30代後半くらいだろうか。
スーツ姿の女性は、見るからに仕事に生きているような印象だった。
「昨日、お問い合わせを頂きました。アーヴァン探偵事務所の高橋と申します」
丁寧なお辞儀をされ、私もそれにつられて会釈した。
「どうぞ……」
私が中へ促すと、高橋さんは靴を揃えて部屋に上がり、真っ先にお母さんの遺影に手を合わせてくれた。
そのまま畳の上で正座した彼女は、黒い鞄からクリアファイルを取り出して、こう切り出した。
「今回、鮫島様から頂いたご依頼内容は、ご両親の離婚後別居となったお父様と、現在同居されている再婚後のご家族の身辺調査ということでお間違いないでしょうか?」
「はい。調査費用は母の死亡保険金からお支払いしますので、多少高額になっても構いません。できるだけ詳細な情報が欲しいので、手順と時間はそちらにお任せしたいのですが……」
「かしこまりました。調査結果がまとまり次第、こちらからご連絡致しますので、2週間後を目処にお待ちください」
私は憎しみに囚われた自分の心を見透かされないように、平静を装った。
高橋さんからしたら、どうして私のような高校生がこんな依頼をしてきたのか、不思議に思ったに違いない。
依頼をしてから2週間後。
当初の予定通りに連絡を受けた私は、新宿駅西口近くにある事務所を訪ねた。
女性だけのオフィスということもあって、中ではアロマが焚かれていて、白を基調とした内装もとてもキレイだ。
促されるまま一番奥に位置する応接間の黒いソファーに腰かけると、対面に座った高橋さんがテーブルの上に資料を広げながら報告を始める。
「先日いただいた情報通り、お父様は再婚後、飯山から中村に姓が変わり、現在も文京区春日に住んでいらっしゃいます。最寄り駅は丸ノ内線の後楽園駅。そこから徒歩10分ほどの場所にある戸建ての1階で、小さな居酒屋をご夫婦で経営しているようです」
彼女が置いたA4用紙は、全部で9枚。
住所・氏名・電話番号はもちろん、お店の状況や、再婚相手と私の腹違いの弟の情報。
そして、父親の素行調査結果も含まれていた。
探し求めていた私の父親は、50歳という年齢の割には若々しい男だった。
鼻筋もスッとしていて、確かに整った顔立ちをしている。
女に慣れていそうな甘い雰囲気は、その写真からも伝わってきた。
そして、左から順に目を通した資料の中で、一番右端に置かれたものに私の視線は釘付けになる。
この女は、誰……?
そこには、父親が派手な服装をした若い女とラブホテルから出てきた瞬間の写真が載っていた。
「相手の女性は池袋の西口にある、ブラックフェザーというキャバクラに勤めています。店では《マオ》という源氏名でカラダを売りにしていると、関係者からの情報がありました」
なるほどね……。
相変わらず女にだらしない父親の姿に、自分の胸に秘めた怒りはその温度を上げていく。
だけど、それと反比例するかのように、頭の中は冷静さを保っていた。
「ここまで調べて頂いて、ありがとうございます。本当は母が亡くなったことを父に伝え、なぜ離婚したのか理由を聞くつもりでした」
資料を握り締めながら告げる私の言葉を、高橋さんは黙って聞いている。
「でも、この調査結果で父と会っても無駄だということがよくわかりました。きっと、母のことを話したところで迷惑がられるだけで、ろくな事にはならないはずです」
「鮫島様……」
無理矢理作った私の笑顔は、そんなに痛々しかったのかな?
私と目を合わせた高橋さんは、まるで苦虫を噛んだような表情を浮かべていた。
「高橋さんがそんな顔、なさらないでください。私はこれで自分の気持ちに整理がつきました。本当にありがとうございます。調査費用は明日、指定の口座に振り込みますので」
その言葉を最後に、私は資料を片手に事務所を後にした。
見送る高橋さんの視線は、依頼主に対する哀れみの色を隠せていなかった。
「キャバ嬢に貢いでる上に、自宅は居酒屋か……」
持ち帰った資料を見ながら、ヤスヒトは低く唸った。
「下見に行くにしても、僕たちまだ未成年だしな。今の段階で動くのは、少し厳しいかもしれない」
「うん。それでね、私決めたことがあるの」
「……何?」
「自分の20歳の誕生日に、アイツを殺しに行く。下見は必要ない。直接会いに行けば済む話だから。それよりも、残りの約2年半。どうやってアイツを痛ぶり、殺すかを考えるの……」
「ユリの誕生日って、10月10日だよな? その時は、僕も一緒に行くよ」
「ダメだよ。ヤスヒトまで罪を背負う必要なんてない」
「何で今更そんなこと言うんだよ!? 僕たちは共犯者だろ!?」
珍しく声を荒げたヤスヒトに、私は優しく微笑んだ。
「違うよ。ヤスヒトは私の気持ちを初めて理解してくれた、大切な存在……。特別な人。だから、私の復讐には巻き込みたくないの」
「本当に、1人でやるつもりなのか?」
「ゴメン。この手で直接復讐を果たすまでは、憎しみと怒りは消せないから……」
「そうか、わかった。それなら、せめて父親以外の女たちは僕に任せてくれないか?」
「えっ?」
「いい考えがあるんだ……」
黒い過去を抱えた男と、黒い罪を背負うことを決めた女。
ヤスヒトと私は年月を重ねるごとに、底すら見えない深い闇の中へ堕ちて行った……。
そして、20歳を迎えた、10月10日。
私はこの日を、どれ程待ちわびていただろう。
刺殺・絞殺・毒殺・焼殺・撲殺……。
数々の殺害方法の中から、最低な父親にふさわしいものを選んだ。
《ナイフによる刺殺》
もちろん、一度や二度では済まさない。
まず、相手の身動きを封じるため、背後から右の腎臓を刺す。
腎臓は大量の血管が集中していて、刃物で傷つけられれば一撃で致命傷になる。
何より、人間の臓器の中でも骨に守られていないから、女の私でも十分に狙えるはず。
そこから更に局部を刺し、両耳を切り取ってから、腕を刺し、脚を刺し、顔を切りつけて、眼球をくり抜く。
すべてを血に染めた後……最後に心臓を突き刺す。
惨めに泣き叫ぼうが、命を乞うため謝ろうが、絶対に許さない。
因果応報。
最低な男には、凄惨な死を……。
獲物を傷付けて葬る感触を、自分の両手に焼き付ける。
世間から見れば、父親の犯した罪なんか大したものでは無いのかもしれない。
それでも、私にとっては歪んだ幼少期を過ごし、苦痛の人生を歩まされた元凶だ。
全ての憎しみを晴らすために、アイツには恐怖と激痛を味わってもらう……。
そのために、私は今日まで生きてきた。
必ず、あの男を殺してやる……。
後楽園駅の改札を出て、歩道橋を渡り終えるまでの間、私は頭の中で繰り返しその言葉を呟いていた。
そんな私の横をけたたましいサイレンを響かせながら、1台のパトカーが通り過ぎる。
警察なんて無能よ。
これから人を殺そうとしている女がいることに、気付きもしないんだから……。
思わず私は口角を上げて、その光景を見送った。
あと、5分でアイツに会える。
狂気に支配された自分の頬を濡らすように、外はポツリポツリと雨が降り始めていた……。
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