第16話 僕は君の為に死ねる!『越乃国戦記 後編』(5式中戦車乙2型/チリオツニの奮戦 1945年秋)
■11月5日 月曜日 午前8時35分過ぎ 金石街道近くの植林帯の中
霊(れい)となって家に帰れるなら、両親と祖父母の平穏(へいおん)な長寿(ちょうじゅ)と兄弟姉妹の成就(じょうじゅ)と幸(しあわ)せを願(ねが)い続ける。
決(けっ)して兄に『俺(おれ)は靖国(やすくに)で待っているぞ!』や、弟に『早く出征(しゅっせい)して武勲(ぶくん)を立てろ。誉(ほま)れ有る靖国へ来るんだぞ!』とか、姉と妹には『お国の為(ため)に、たくさん男の子を産(う)んで、御国(おくに)の御役(おやく)に立ってくれ』などとは望(のぞ)まない。
僕が兄弟姉妹に望み、願う事は全(まった)くの真逆(まぎゃく)だ。
『しっかりと家督(かとく)を継(つ)いでくれ、兄貴(あにき)』、『温(あたた)かい家庭を築(きず)きな、弟よ』、『大事にされる良縁(りょうえん)に嫁いで幸せになりな、姉と妹よ』と告(つ)げに、必(かなら)ず枕許(まくらもと)に立つだろう。だけど、僕は死後の世界は無いと思っている。
産まれ生(しょう)ずる肉体に生命が宿(やど)り、朽(く)ち果(は)てる肉体から魂魄(こんぱく)が離(はな)れて死に至(いた)るのは、この宇宙の世界が始(はじ)まった時からの摂理(せつり)の現象(げんしょう)なのだと考えている。
例(たと)えば、真っ暗(まっくら)な夜空に突然、打ち上げ花火が炸裂(さくれつ)して四方八方(しほうはっぽう)に輝(かがや)く火花が飛び散(とびち)り、直(す)ぐに光りが衰(おとろ)えて行く燃焼(ねんしょう)は、弱く瞬(またた)きながら消えて行き、夜空は真っ暗に戻(もど)ってしまう。
(マッチの炎(ほのお)にも、似(に)ているかもな……)
生命は高度で複雑な進化をする有機物(ゆうきぶつ)に、必(かなら)ず発生する摂理の現象に過(す)ぎない。
(超精密(せいみつ)で高度な機構(きこう)の機能と絡(から)み合って補完(ほかん)し合う超緻密(ちみつ)な思考回路に宿る生命と、超圧縮(あっしゅく)された超大な質量に発生する巨大な重力とは同じ道理(どうり)かも知れないな……)
其処(そこ)には残照(ざんしょう)が有っても、しがみ付く亡霊(ぼうれい)のような得体(えたい)の知れないモノは存在(そんざい)しない。
暗黒(あんこく)から産まれた輝きが消えて、漆黒(しっこく)に戻るだけだ。
死の虚無(きょむ)から混沌(こんどん)の闇(やみ)になる暗黒の中には、生命の連接(れんせつ)のような繋(つな)がりは無い。
闇を照(て)らし、闇に消える命は儚(はかな)くて虚(むな)しい。そして、死の果ての世界は無い。
僕は死んで漆黒の無に帰るが、僕が生きていた事を、僕と接していた人達が善(ぜん)にせよ、悪にせよ、知り憶(おぼ)えていて、命が育(はぐく)む世界で記憶として残り続ける。
(まあ、僕と接した人達が死に絶(た)えるまでだろうが……)
僕を知る人達の記憶の中で私は、過去の人として生き続けるだろうが、それは、決して亡霊ではなくて幻影(げんえい)なのだ。
どうせなら僕は邪悪(じゃあく)な漢(おとこ)だと決め付けられるよりも、都合(つごう)良く善(よ)き思い出の中の男として記憶に留(とど)まりたい。
そう思えばこそ、一度切(いちどき)りの有限な命の自我(じが)を輝かせて生きなければならないと思う。
たった一度切りしかなくて、遣(や)り直(なお)す事が出来ない人生は、嬉(うれ)しくて、楽(たの)しくて、幸せに思えるように生きるべきだろう。
其(そ)の様に生きるべき事を敗戦のレイテ島から逃(に)げ戻るまで、僕は知らなかった。
戦地で人の死を多く見過ぎた所為(せい)かも知れないが、死後の世界は無くても、神が宿る世界は在(あ)るのかも知れないと思っていた。
其処は我々(われわれ)が存在する時空(じくう)の境界に隣接して、神と言うべき目には見えない存在が世界の被膜(ひまく)を抜(ぬ)けて行き来している。
万物(ばんぶつ)に宿る八百万(やおよろず)の神のように、人が祈(いの)る願いを聴(き)き入れてくれているのかも知れない。
もしかして、肉体の死で離れた魂(たましい)も、……既(すで)に魂は個人の意識ではないだろうが、被膜を行き来している存在なのかも知れないと思っている。
それは、生命(いのち)を目覚(めざ)めさせる引き金の様であり、自我を発動させ続ける力の源(みなもと)のようでもある。
故(ゆえ)に肉体から魂が離れると、個人の意識の自我は、其処で消え去(さ)って終わるのだ。
だからこそ、僕は生きている内に強く願い、深く祈る。
(僕は、淑子(よしこ)さんの為に死ねる!)
僕が死んでも、明るくて楽しい彩(いろど)りが豊(ゆた)かに溢(あふ)れる、彼女の人生で有って欲(ほ)しいと切(せつ)に願う。
淑子さんには、幸せに長生きして欲しいと心から思う。
(其の為に、僕は喜んで命を捧(ささ)げよう……!)
--------------------
「あのう……、これ、去年の4月、進級した時に撮(と)った写真です。幼(おさな)く写っているので、恥(は)ずかしいのですが……、これしかなくて……。……邑織(むらおり)様、受け取って貰(もら)えますか……?」
「もっ、勿論(もちろん)です。受け取らせて頂(いただ)きます!」
頂いた写真に写(うつ)る彼女は、両手を少し斜(なな)めに向けた体の前で淑(しと)やかに重(かさ)ねて、背筋(せすじ)を伸(の)ばして少し顎(あご)を引いた顔は此方(こちら)に向けていた。
今、目の前にいる彼女が着ているのと同じ女学校の制服は、綺麗(きれい)にアイロン掛けをしたセーラー服に折(お)り襞(ひだ)のスカート、より素足(すあし)を白く見せる白いソックスは足首で折り返して、優(やさ)しい茶色と思われる色の革靴(かわぐつ)を履(は)いている。
月明りの下で見ている彩色をしない白黒の写りなのだが、光りの反射加減(かげん)に濃淡(のうたん)が鮮(あざ)やかな制服の紺色(こんいろ)、真っ白(まっしろ)な靴下、磨(みが)き上げた革靴が陽(ひ)の光に照されて放(はな)つ、茶色の輝(かがや)き。そして、色白(いろじろ)の足の素肌と、恥じらいに、ほんのり紅(あか)らむ端正(たんせい)で優しい顔の表情を際立(きわだ)たす、明るい背景の桜吹雪(さくらふぶき)が、はっきりと僕の視覚(しかく)の中に色付(いろづ)いて、宵闇(よいやみ)の中の月明りでも思い描(えが)けていた。
「おおっ、全然、幼(おさな)くないですよ。寧(むし)ろ大人(おとな)びています。それに……、とても可愛(かわい)いですし、凄(すご)く綺麗です」
サインを入れて新星の映画女優のブロマイドだと渡(わた)されても違和感(いわかん)は無く、全く疑(うたが)わずに信じてしまうくらいの容姿(ようし)の写りで、目の前の本人のイメージ其の儘(まま)だと思う彼女の写真は、軍服の胸(むね)のポケットに入れて血生臭(ちなまぐさ)い戦場を持ち歩くには相応(ふさわ)しくなく、チリオツニの車内に神棚(かみだな)が有れば、其処に祀(まつ)りたい。
「ありがとう。頂けるなんて、恐悦至極(きょうえつしごく)です。この左の胸ポケットに入れて置(お)きますよ」
想いを寄せる大切(たいせつ)なの写真を結局、硝煙(しょうえん)煙(けむ)る血生臭い戦場の空気に触(ふ)れる軍服のポケットへ丁寧(ていねい)に仕舞(しま)いながら、今生(こんじょう)の別れになるかも知れない今、私物として彼女に受け取って貰える様な価値の有る物を何も持っていない事に気付いていたが、何か形見(かたみ)として相応(ふさわ)しい物に添(そ)えようと思っていたくらいの申し訳(もうしわけ)ない物を差し出した。
「ええっと……、ぼっ、僕もですね……。しゃ、写真を渡したいと思っていました。入隊した時の記念にと撮った写真です。戦地でも、ずっと、油紙(あぶらがみ)に包(つつ)んで雑嚢(ざつのう)の奥へ入れて持っていました。もう色褪(いろあ)せたり、皺(しわ)や折れ筋(すじ)が有ったりで、すみません。これしか、貰っていただける物が無いんです。……あっはは、18歳になったばかりので、ちょっと若過ぎるかもですねぇ……」
驚(おどろ)きと嬉しさが混(ま)じった顔で、優しく写真を受け取った彼女は、月明りが反射する瞳(ひとみ)を輝かせて写真に見入ると目許(めもと)と口許(くちもと)を微笑(ほほえ)ませた。
それから裏面の走り書きを見ると、手を鼻先と目の縁(ふち)を隠すように当てる彼女の瞳がウルウルと涙で揺らぎ、肩を小さく震わせて嗚咽(おえつ)した。
「淑子さん、泣いているのですか? どうか、悲しまないで下さい」
聞こえていた小さな泣き声に、思わず死に行く僕を憐(あわ)れんでいると思い訊(き)いてしまった。
「いいえ、戦いに赴(おもむ)く邑織様と山峡(さんきょう)へ避難する私が離(はな)れ離(ばな)れになるのは、とても悲しみますけれど、今は武運長久(ぶうんちょうきゅう)で武勲(ぶくん)を重ねる事を祈っていますわ。泣いてしまったのは、写真に写る私より若い邑織様が戦地へ出兵(しゅっぺい)されて幾多(いくた)の戦場で勇猛果敢(ゆうもうかかん)に戦い、激しい爆撃と砲撃に耐え続けて、漸(ようや)く御帰還なされた愛(いと)おしさと切(せつ)なさに胸が苦(くる)しくて、涙(なみだ)が溢(あふ)れて仕舞いました」
渡した写真は京都の歩兵第16師団に入隊した新兵の時の記念撮影で、最初の外出許可で兵営の門前に在る写真館で身嗜(みだしな)みを整(ととの)えて撮り、2枚を焼いて貰って1枚は家へ送った。
兄が祝言(しゅうげん)を挙(あ)げて嫁(よめ)を貰ってから、家業の人手は足(た)りるようになり、以前から考えていた世の中を広く見聞(けんぶん)して学(まな)びたかったのと、口減(くちべ)らしに家を出て少しでも家族の生活を楽にしたいという気持から、兵役法(へいえきほう)の20歳(はたち)の召集(しょうしゅう)を待たずに召集令状を18歳になる年に送ってくれと、兵舎の志願者(しがんしゃ)受付へ頼(たの)みに行った。
『それでは志願しろ』と、受付の志願者担当係官に言われたが、口減らし故の事情と2年で除隊して世間(せけん)で働(はたら)きたい旨(むね)を話すと、係官は私の身体(からだ)を見て、『上背(うわぜい)が有る。ガタイもガッチリして筋肉質だ。受け応(ごた)えもしっかりして、意思が強そうだな』。そして、『見た目は甲種(こうしゅ)合格だな。よし、特例として召集令状を送って遣る。徴兵(ちょうへい)検査を受けろ』となった。
裏面には、撮影日時、撮影場所、姓名(せいめい)、本籍(ほんせき)住所、祖父母と両親と兄弟の名前と歳(とし)を、墨字(すみじ)で書いている。
「ありがとうございます。……私も、御写真を頂きたいと思っていました。とても嬉しいです。……あら、良く撮れていますわ。凛々(りり)しくて素敵(すてき)です。……ううっ、昭和15年ですかぁ……。うふっ、写真の邑織様も、ちっとも幼くは見えません。今の私と、一つ違いの時の御写真なのに、今と変わらず、とても逞(たくま)しく思えます」
入営当時の逞しさは、家の野良仕事と山や谷を歩き回って集める薬草採(と)りで鍛(きた)えられた体格だったが、今は軍隊で作られた、戦って死ぬ為の身体から漂(ただよ)う逞しさだろう。
小銃と弾薬や軍服など、総重量が30㎏を超(こ)える装備を身に付けて、更に砲弾を持ちながら大砲を牽(ひ)いたり、押したりして山野(さんや)を駆(か)け、泥(どろ)の中を這(は)い摺(ず)り回り、1日中、地平線の彼方(かなた)まで歩き、そして上官に殴(なぐ)られたり、蹴(け)られたりして作られた、強靭(きょうじん)な神経が宿った逞しい身体だ。
撃(う)ち倒(たお)した敵兵の数は思い出せるだけで30を優(ゆう)に超えていて、明日(あす)も殺そうとしている。
君を守る為なら、どんな戦いでも勇猛果敢に奮闘(ふんとう)して、多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)でも、いや、最後の一人になろうとも僕は死を恐(おそ)れはしない。
血に染(そ)まる身体に血塗(ちぬ)られた手、死に迫(せま)られて不整脈(ふせいみゃく)続きの心臓(しんぞう)からの咳(せ)き込みと疲れ切って奮(ふる)えもしない心、鈍(にぶ)い反応で死を求(もと)めるように単純思考(たんじゅんしこう)する脳、それは、戦争だから仕方(しかた)が無いのかも知れないが、そんな俺は、君に君が望(のぞ)む幸せを本当に与(あた)えられるだろうか?
そんな自責(じせき)に苛(さいな)まれた昨日の夜の自分を思い出しながらも、敵戦車隊を徹底的(てっていてき)に射ち竦(すく)めようとしている現在に、自分の意識を戻した。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます