第9話 契り『越乃国戦記 後編』(5式中戦車乙2型/チリオツニの奮戦 1945年秋)
■11月4日 日曜日 金沢市野村練兵場近く、待機場所の竹林の中
レイテ島での帝国陸軍の敗北は、物量や制海権、制空権だけの差ではなかった。
戦略と戦術には、臨機応変(りんきおうへん)の柔軟性(じゅうなんせい)が欠如(けつじょ)していた。
教えられた事以外や経験の有る事以外の、急(いそ)がば回れ的な思考と行動が出来ないという、直情的(ちょくじょうてき)な硬直化(こうちょくか)が有った。
師団長や参報の高級将校から一兵卒(いっぺいそつ)まで、従来の全体体制や仕来(しきた)り事(ごと)が優先される、個人が無い教育と個人を認(みと)めない社会に自分の命への執着(しゅうちゃく)が薄(うす)れて行き、敗走が続いて士気が挫(くじ)かれ、肉体的にも、精神的にも追い詰められると、ただ死に場所を探(さが)す様な切り込み突撃を繰り返した挙句(あげく)、自暴自棄(じぼうじき)からの自決に至(いた)ってしまい、敢(あ)えて死中に活(かつ)を求(もと)めて生き残ろうとはしない。
地道に勝つ為(ため)の確実な戦法を模索(もさく)するよりも、短期決戦、総攻撃、全軍突撃という華々(はなばな)しい戦いで起死回生(きしかいせい)を望(のぞ)む、其(そ)の短絡的に敵に挑(いど)む方針は、敵を殲滅(せんめつ)する気概(きがい)がアメリカ兵より乏(とぼ)しいと知った。
場当たり一辺倒(いっぺんとう)な切り込み突撃は、心情的に苦痛だが、誰もが躊躇(ためら)い無く突っ込んで行き、一人(ひとり)、一人、死ぬまで奮闘(ふんとう)して玉砕(ぎょくさい)した。
この玉砕が敵を抹殺(まっさつ)する気概だとするならば、それは、生への執着の乏しい、死する事を義務とする意識がさせた洗脳的(せんのうてき)な行動だったと思う。
皆(みな)、引き際(ぎわ)の判断よりも、死に場所を求めていた。
死の恐怖を超(こ)えて突撃で生き残っても、次の突貫(とっかん)で攻撃の最前列に並(なら)ばされて、再(ふたた)び死の恐怖に襲(おそ)われる。
負傷の度(たび)に歴戦の勇士だと嘯(うそぶ)いても、歩けるくらいの負傷なら仲間意識と無理強(むりじ)いで攻撃に参加させられてしまい、殺(ころ)される恐怖は無くならない。
だから、生き残って待ち侘(わ)びる人達に会いたいと願(ねが)うより、いっその事死んで、繰(く)り返される恐怖から逃(のが)れたいと、最前線で修羅(しゅら)の如(ごと)く奮戦して戦死してしまうのだった。
死に切れなかったり、戦意を失(うしな)ったりして体力と気力が衰(おとろ)え、そして飢(う)えと渇(かわ)きを意識してしまうと、大半は生に縋(すが)り付いて動物の本能に導(みちび)かれる儘(まま)に食い物と水を求めて山中を彷徨(さまよ)うだけで、敵中に死活(しかつ)を求めず、軈(やが)て精も根も尽(つ)き果て道端(みちばた)や草葉(くさば)の影に大勢が飢餓で骸(むくろ)になっていった。
交戦時の軍隊は、傷病兵には冷酷(れいこく)だった。
軽傷者以外は部隊の行軍速度に付いて歩けないから、付いて来るなと命令され、あっさりと見放(みはな)されていた。
平時の駐屯地の治療所や占領地の大病院と内地の病院へ送還(そうかん)される幸運に恵(めぐ)まれていれば、半年くらいで根治(こんじ)する傷や病状でも、補給の途絶(とだ)えた前線では、投与(とうよ)する薬も、看病する人も、全(まった)く足(た)りていない。
患部に巻いた包帯(ほうたい)は、こびり付いた血と膿(うみ)と泥(どろ)だらけで、交換される事は殆(ほとん)どない。
食い物も、薬も無く、衰弱(すいじゃく)が進む身体に傷口や病(やまい)は治癒(ちゆ)するどころか、不潔(ふけつ)さと湿度の高い熱帯の天気に蛆(うじ)だらけに化膿(かのう)して発熱は酷(ひど)くなり、解熱(げねつ)する手立ても無い39度以上の高熱は、命が尽(つ)きるまで苦しませて意識を朦朧(もうろう)とさせるばかりだ。だが、高級将校は別で、重傷でも、重病でも、背負(せお)われたり、担(かつ)がれたりして連(つ)れていかれた。
見捨(みす)てられ、置いて行かれた者達は、容態が快方(かいほう)に向かう事も、内地への送還も絶望と悟(さと)り、急速に生きる執着が薄れて自決へと行動する。
自決用に手渡されていた手榴弾は人数分の数が無くて、三、四人(さん、よにん)が重(かさ)なって爆発させていた。
今思うと、其のまま仮包帯所で横たわっていれば、其の内にアメリカ兵が遣(や)って来て虜囚(りょしゅう)になっただろうが、出兵を義務や権利の契約(けいやく)の忠誠(ちゅうせい)とは意識せずに、御奉公(ごほうこう)や定(さだ)めの忠義(ちゅうぎ)と覚悟する大日本帝国将兵は、敵の捕虜(ほりょ)になる事を潔(いさぎよ)しとはせず、生きるに堪(た)えられない恥(はじ)と心していた。
其の残酷(ざんこく)な死中に生への活を求めて僕は運良く生き残り、今日まで生きようと足掻(あが)いて来たけれど、それも、これまでかも知れないと思う。
明日には上陸して来るだろうアメリカ軍との死闘で、圧倒的な敵の物量に自分のチリオツニは撃破され、自分も斃(たお)れるか、瀕死(ひんし)の重傷を負(お)ってしまうか、そんな終幕になってしまいそうだ。
それに、明日は撃破されなかったとしても、明後日か、明々後日には、間断無(かんだんな)く続く昼夜の戦闘で退避する場所も見付けられないままに、必(かなら)ず撃滅されてしまうだろう。だから今は、抱き締める彼女に希望を与(あた)えるような将来的な言葉を、軽はずみに言ってはならない。
(将来を約束する言葉は、例(たと)え慰(なぐさ)めでも、絶対に彼女へ言ってはならない!)
僕は彼女の背に回した腕の力を緩(ゆる)め、手を彼女の肩に戻してから、そっと優(やさ)しく僕の胸から彼女を離す。
彼女は離れて行く僕の胸に寄り添い続けようとしたのを止(や)めると、瞳が僕の目を見詰めながら涙を溢(あふ)れさせていた。
僕は、2、3歩、ゆっくりと後退(あとずさ)り、踵(きびす)を返して背を向け、後ろを振り向かず足早(あしばや)に彼女から離れて行く。
(離れたくない! 離したくない! 好きだ! 愛しい!)
「好きだ! 凄(すご)く愛しい!」
心の中で叫(さけ)んでいたはずの愛しい女性への言葉が、唇(くちびる)を噛(か)んで愛する気持ちを圧(お)し殺す直前に声になって出していた。
「淑子さん!」
直ぐ様(すぐさま)、自分に駆(か)け寄る音が背後に聞こえると、彼女は勢い良く目の前に来て背伸(せの)びをした。
彼女の両の掌(てのひら)が、涙と鼻水が伝(つた)い流れる僕の頬(ほお)を掴(つか)み、閉(と)じていた唇(くちびる)を僅かに開いて僕の唇に強く押し付けて来た。
僕の求めに感極(かんきわ)まったのか、彼女は大胆(だいたん)にも接吻(せっぷん)をする。
これまで、好(す)かれた遊郭(ゆうかく)の女郎(じょろう)や慰安所の遊女(ゆうじょ)と唇を重ねて春を買った事は少なからず有り、気に入った娘もいたが、深入りはして来なかった。
男女の肉体の交(まじ)わりの全てが、軍隊に入営してからの玄人(くろうと)相手ばかりで、素人(しろうと)の、まして純情(じゅんじょう)な生娘(きむすめ)に触れるというか、好かれる経験は初めてだ。
穢(けが)れ無きうら若い女性の方から積極的に接吻をされたのは、非常に驚(おどろ)くべき事態で、僕は内心、反応すべき態度を憂慮(ゆうりょ)してオロオロと戸惑(とまど)ってしまう。
(しかし、これは、彼女にとって、きっと、初めての接吻なのだ!)
僕の戸惑いは、彼女への感動に変わる。
僕を強く愛してくれる彼女は、これが今生(こんじょう)の別れになると思い詰めた激情に駆(か)られた衝動的な接吻だとしても、どんなに勇気(ゆうき)が必要だったのだろう。
手が彼女の頭の後ろに支(ささ)えるように触れて、押し付ける彼女の唇へ、更に、強く僕の唇を押し付けながら、少しずつ唇を開かせて行く。
少し舌先を絡(から)ませながら、このまま、大人の接吻と性交を教えようかと考えたが、思い留(とど)めて支える手を緩(ゆる)め、唇を離した。
これまでは世間体(せけんてい)からの打算的(ださんてき)な思惑や恋慕(れんぼ)を抜きにした作戦業務を遂行(すいこう)する上だけでの関係だった。
なのに、今は互いに胸ときめく止(や)ん事無き相手となっている。だが、明日にでも上陸侵攻して来るアメリカ軍と激闘しなければならない軍人である私は、戦死の覚悟を前提に彼女の事を考える必要がある。
故(ゆえ)に、夢を抱かせた後に戦死の悲報で、彼女を慟哭(どうこく)させたくなかった。
(しかし……)
止め処(とめど)無く湧(わ)き上がる此の胸の激情が、私に其の禁則(きんそく)を破(やぶ)らせ、離れる僕の唇が、彼女へ祝福(しゅくふく)の言葉を贈(おく)る。
「この戦争が終わって、生き残れていたら、僕は金沢に住み、淑子さんと暮(く)らそう……」
黄昏(たそがれ)の明かりが薄れて、全ての色が褪(あ)せても、涙を湛(たた)えた彼女の瞳がキラキラと、はっきり見える。
「淑子さんが、好きです! 大好きです! 僕は、淑子さんが大好きです!」
僕の手を払(はら)って、僕に抱き付く彼女が言った。
「嬉(うれ)しい! ……約束よ、邑織(むらおり)さん……」
「ねぇ、約束を違(たが)えないように、指切(ゆびき)りしましょう」
「ああ、約束だ! 指切りしよう」
僕の小指に絡めて来た彼女の小指に力が入り、自然と僕の小指にも力が入って、二人はしっかりと小指を絡み合せて契(ちぎ)りを結ぶ。
僕が愛しい最愛の女性に言った無責任な愛の言葉へ、約束ができない約束を結んだ。
(だけど、僕は約束する。僕が戦いで斃(たお)れても、現世(げんせ)より永遠(とわ)に君の幸せを守護(しゅご)すると……。もし……、……もしも、……生き残れたら……、ずっと一緒(いっしょ)に居て下さい……)
口にはしなかったが、彼女が避難してくれれば、無事に生き残ってくれる確信が、私には有った。
近日中には天皇陛下の戦争終結への戦争終結への御聖断(ごせいだん)が必ず下る予感がしていた。
其の戦争終結の宣言は、敵に小松市や金沢市の海岸へ上陸される直前か、上陸後の戦闘で私が戦死した後かの違いになるだろうけど、其の時は淑子さんを守り切れて金沢の街の蹂躙(じゅうりん)も防(ふせ)げている筈(はず)だと、更なる決意と覚悟を私は固(かた)めていた。
つづく
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