第8話 抱擁『越乃国戦記 後編』(5式中戦車乙2型/チリオツニの奮戦 1945年秋)
■11月4日 日曜日 金沢市野村練兵場近く、待機場所の竹林の中
嘗(かつ)て第9師団の衛戍地(えいじゅち)であった金沢師管区司令部の在る陸軍軍都の金沢市に着任してから、周辺の戦闘に有利な地形やチリオツニが通行可能な道路を司令部に有った地図で調(しら)べて、実際に行って確(たしか)めていた。
地図では犀川(さいがわ)や内川(うちかわ)の源流域からは、間道(かんどう)で県境のブナオ峠(とうげ)を越えて富山(とやま)県の五箇山(ごかやま)の集落へ行けるらしい。
更に東へ向かうと岐阜(ぎふ)県の白川郷(しらかわごう)へ行く事が出来た。そして、白川郷から北へ、峠を越えて飛騨(ひだ)郷(ごう)まで行ける道も有る。
但(ただ)し、徒歩(とほ)で超えるしかないブナオ峠や飛騨郷への峠道は残念な事に、寒風が吹き荒(あ)れる雪深い豪雪(ごうせつ)の地なので冬場に通るのは自殺行為だった。
それに、雪解(ゆきど)けの春が来る頃には、飛騨郷や白川郷がアメリカ軍に占領されているかも知れない。
「……淑子(よしこ)さん、僕の予想ですが、きっと、戦争は今週中に終わります。……残念ですが、日本は負(ま)けますよ……。でも、絶望(ぜつぼう)しないで、淑子さんは、強く生き抜(ぬ)いて下さい。きっと、日本は今よりも良くなります。日本は平和になります。だから、生きて幸(しあわ)せになって下さい……」
「戦争が終わらなくても……、平和にならなくても……、死が二人(ふたり)を別(わか)つまで、……私は、あなた様の傍(そば)に居(い)たいです。……あなた様が生きていて、私の傍に居て欲(ほ)しいです」
悲しみの憤(いきどお)りに赤らめた涙顔を、より紅(あか)く染(そ)める彼女が言った、『死が二人を別つまで』は、キリスト教の結婚の儀(ぎ)で婚姻(こんいん)を承認する神父が、新郎新婦に添(そ)い遂(と)げを確認する言葉の一節だと、フィリピンのマニラ市に駐留(ちゅうりゅう)していた時に、列席した知人の結婚式を挙(あ)げた教会で知っていた。
其(そ)の神父の言葉は、結婚する二人へ問う「誓(ちか)いの言葉」で、結婚式で配(くば)られた参列者名簿の裏面には、『健(すこ)やかなる時も、病(や)める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富(と)める時も、貧(まず)しい時も、これを愛し、敬(うやま)い、慰(なぐさ)め、助け、死が二人を別(わか)つまで、愛す事を誓(ちか)いますか?』と、日本語訳が書かれていた。
僕は、其の『誓いの言葉』が、無言で酌(く)み交(か)わす三三九度(さんさんくど)よりも解(わか)り易(やす)い夫婦の在り方だと、感心して覚(おぼ)えていたが、死で別たれる時も愛(いつく)しみ合うのなら、何方(どちら)かが死しても愛は続くと信じたい。
愛するという言葉や愛という単語に馴染(なじ)みも、興味(きょうみ)も無かったが、金沢市の飛梅町(とびうめまち)に在るミッション系の女学校へ通う彼女は、上手(うま)く理解しているのだと思った。
「暫(しば)しの間でも、わたしは、あなた様と離(はな)れたくありません!」
僕と結(むす)ばれたいと誓う言葉を言って、赤面して俯(うつむ)いた彼女が、大声を出して僕に抱(だ)き付き、泣き出した。
『いつまでも、一緒に居たい』と言った、まだ抱擁(ほうよう)も、接吻(せっぷん)も交(か)わさず、乳房(ちぶさ)の愛撫(あいぶ)もしていない無垢(むく)で生娘(きむすめ)なままにしている彼女は、泣き顔になって僕の胸にしがみ付いて、泣きじゃくっている。
「行かないで! 行かないでぇ! 行かないで……」
僕のすべき事、僕が此処(ここ)に居る理由、今の僕の責任は義務(ぎむ)ではなくて、望(のぞ)みだ!
すべき望みの明日の戦闘を考えると、とても、約束できる事ではないので躊躇(ためら)う僕は、何も言わずに彼女の肩に手を置くだけに留(とど)めた。
掌(てのひら)に感じる彼女の温(あたた)かさと柔(やわ)らかさに、僕は思う。
(いつまでも、一緒(いっしょ)に居よう)
だけど、叶(かな)いそうもない、其の想いは、言葉にできない。
夕陽が水平線に触(ふ)れそうになる頃から目立たないように始動させて、黄昏時を過ぎて夜の帳(とばり)が降(お)り切る前に死地の場所……金石街道近くの植林帯の中の防衛拠点へ、アメノウズメを移動させなくてはならない。
死地へ赴(おもむ)けば、生きて戻れる事は無いだろう。
荒い呼吸が穏やかになり、肩の震えも治(おさ)まって、少し彼女の気持ちが落ち着いて来たのが分かった。
彼女の僕への想いは、一晩中(ひとばんじゅう)、手を取り合ってクルクルと踊り明かしたいほど、心底(しんそこ)嬉(うれ)しいけれど、既(すで)に出来ている必死(ひっし)の覚悟(かくご)が、彼女への言葉を詰(つ)まらせてしまう。
(……すまない、僕は生きて戻れないでしょう……)
声にならない言葉は、彼女を見詰める僕の顔を頷(うなず)かせた。
「邑織(むらおり)さんに出会えて、嬉しい!」
彼女の喉(のど)から搾(しぼ)り出すような小さな声だったが、はっきりと聞こえた。
「……淑子さん、僕もそうです」
抱き留(と)めた手を背中に回し、僕は彼女を引き寄せながら言う。
「大好きです! ああっ、今、私は幸せです」
喘(あえ)ぐような其の言葉に、思わず、彼女の背中へ回した手に力が入り、強く抱き締めた。
身体は緊張(きんちょう)するのに、気持ちは弛緩(しかん)して安(やす)らいだ。
(愛(いと)しい……)
こんなにも、人を愛しいと思ったのは初めてだ。
10年間の軍隊生活で、これほど心が安らいだ事は無かった。
「死なないで!」
小さくても、強い意思を込めた声が、鋭(するど)く胸に突(つ)き刺(さ)さり、気持ちが動揺(どうよう)する。
「生きて! ずっと、私を幸せにし続けて!」
嬉しい言葉が、凄(すご)く切(せつ)ない。
「私は、あなた様を愛しています……」
『愛している』と、外国映画や翻訳(ほんやく)された恋愛小説でしか知らなかった恋情(れんじょう)を告白する言葉を、はっきりと彼女は僕に言ってくれている。
やはり、ミッション系の学校だから、博愛や慈愛や恋愛に素直なのだろうか?
僕への愛を想い詰める彼女は、恥(は)ずかしくて僕が言うのを躊躇(ためら)う愛を言葉にしてくれた。
「此処では、……いつも、私の瞳(ひとみ)があなた様を探(さが)していました。……此処を……、この場所を……、離れると、あなた様に会えない寂(さみ)しさと、あなた様を想う切なさで、胸が痛くて……、ずっと、心はあなた様で一杯です……。愛しています……」
(……何度も、彼女は、僕を『愛しています』と言ってくれている)
初めて出会ってから、僅か1ヵ月しか経(た)っていないのに、もう彼女を愛しいと想わない時間はなかった。
気が付けば、自分でも信じられないくらいに、見るもの、聞くもの、匂(にお)うもの、味(あじ)わうもの、触るもの、自分の五感の全てを彼女と結(むす)び付けていた。
自分が五感で得る全(すべ)ての良き思いを、彼女も一緒にと願っていた。
僕の第六感は、彼女を感じていたいと常(つね)に捜し求めている。だけど、この時局に僕の命などは大風の前の些細(ささい)な炎(ほのお)の灯(ともしび)に過ぎない。
(アメリカ軍は、非常に強力だ!)
つづく
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