第6話 愛しい人と竜神伝説『越乃国戦記 後編』(5式中戦車乙2型/チリオツニの奮戦 1945年秋)
■11月4日 日曜日 午後8時頃 金沢市野村練兵場近く、待機場所の竹林の中
B29の大編隊が快晴(かいせい)の夕焼け空の彼方(かなた)に天国へ続く真っ赤(まっか)なハイウェイの様な雲の筋(すじ)を残して飛び去(さ)ると、死神の手足となる黒い翼(つばさ)の眷属(けんぞく)の様に飛び回っていた敵の艦載機の群(む)れも、一斉(いっせい)へ西の水平線の向こうの黄昏(たそがれ)の世界へ消えて仕舞った。
解除された空襲警報に夕暮(ゆうぐ)れから宵闇(よいやみ)への静寂(せいじゃく)が訪(おとず)れたが、やがて、澱(よど)んだような静けさの中に遠くから破壊の痕(あと)を片付ける音が、そして、近隣からは食欲を思い出させる夕餉(ゆうげ)の支度(したく)をする音が聞こえて来た。
夜の帳(とばり)が降りて、ひっそりと辺(あた)りが闇(やみ)に包(つつ)まれ始めた時、片手には手前と足許(あしもと)だけを照(て)らすように墨(すみ)で黒く染(そ)めた提灯(ちょうちん)を持ち、もう一方の手には、今からの晩飯(ばんめし)と夜半の夜食、それに明日の早朝の握(にぎ)り飯(めし)を入れた籠(かご)に、お茶を入れた大きなヤカンを持って、三人の女学生達が来てくれた。
出来るだけ彼女達に不安を与(あた)えないように、昼間の攻防に触(ふ)れない話をしながらの晩飯を済(す)ませた今は、若い指中(さしなか)一等兵と赤芝(あかしば)二等兵は、ヤカンを置いた焚き火(たきび)の炉(ろ)を囲んで女子達と歓談(かんだん)し、妻子(さいし)持ちの加藤(かとう)少尉と婚約者がいる上杉(うえすぎ)准尉は、それぞれの提灯の灯(あか)りの下で、手紙か、日記を認(したた)めている。
これから仮眠を取り、夜半から未明(みめい)に掛けて守備位置である金石街道の植林帯へアメノウヅメを移動させ、暁(あかつき)までに戦闘配置を完了しなければならないと考えながら、私は『いよいよ、明日は戦闘だぞ!』と、気を引き締(し)めながら、夜の黒い水平線で漁火(いさりび)のように群(むら)がる敵艦船の灯りを、チリオツニの前方の竹林の縁(ふち)で眺(なが)めていた。
其処(そこ)へ女学生達の最年長者の鷹巣(たかのす)淑子(よしこ)さんが近付いて来て、体験した空爆の恐怖(きょうふ)を話し出した。
「……はっ、初めて知りました……、せっ、戦争がどういうものなのか……。まだ身体の震(ふる)えが止(と)まりません……。あの子達もそうです。……防空壕の中では、私達は身を寄せ合って、耳を塞(ふさ)ぎ、震えていました。……警報が解除になって、皆さんの夕餉の支度をしている時も、……此処(ここ)まで来る時も、そして今も……、震えています。大尉さん、あなた様は、あんなに恐(おそ)ろしい中から、御帰還(ごきかん)なされたのですね」
初めて身近で戦われた戦争の轟音(ごうおん)と激震(げきしん)と火薬と鉄の臭(にお)いに意識の底から引き起こされた恐怖が彼女の全身を小刻(こきざ)みに震わせている。
なのに気丈(きじょう)にも彼女は歯の根の合わない口を懸命(けんめい)に抑(おさ)えながら、言葉を整(ととの)えて話してくれている。
「ええ、今日の艦砲射撃と空襲は、まだ下拵(したごしら)え……、いや、明日の上陸の準備ですよ。明日、敵は必(かなら)ず上陸して来ます。上陸と内陸への侵攻を援護(えんご)する艦砲射撃と空襲は、今日よりも激しくなるでしょう。上陸した敵は直(す)ぐに砲兵を展開して、より正確な激しい砲撃をして来るでしょう。機銃掃射も激しくなります。其の後は砲撃に援護された敵が戦車の大群を先頭に侵攻して来ます。そして、それを撃退する防衛戦は、厳(きび)しく壮絶(そうぜつ)になります」
『あんな爆発と炎(ほのお)の中を、どうすれば、生き残れるの?』と、問(と)うように私を見詰める少女に、慰(なぐさ)めにならないアメリカ軍の上陸作戦の戦闘手順を、『敵は強力過ぎるから、諦(あきら)めなさい』と言わんばかりに話してしまう。
「そうなるのなら、私は此処に居(い)て、皆(みな)さんの御手伝(おてつだい)いを致(いた)します。そして、あなた様が御戻りになるのを待ちます。さあ、何をすれば良いのか、命(めい)じて下さい……」
気丈夫(きじょうぶ)な言葉は語尾が小さく掠(かす)れながらも、健気(けなげ)な彼女は涙を湛(たた)える瞳(ひとみ)で真っ直(まっす)ぐに僕を見て、はっきりと言う。
気持は嬉(うれ)しいが、竹林の中の補給部隊の動きが少しでも上空を飛ぶ敵の偵察機に発見されれば、直ぐに大口径弾が無差別に落下する艦砲射撃と執拗(しつよう)な空爆に晒(さら)されて、この広い竹林ごと噴(ふ)き散(ち)らされてしまうだろう。
「この辺(あた)りも砲撃や空襲の目標になるかも知れません。流れ弾も飛んで来るでしょう。焼夷弾(しょういだん)で市街地が焼かれると、此処も直ぐに燃(も)えてしまいます。そうなると、逃(に)げ道は無くなり……」
「あなた様も一緒(いっしょ)に逃げましょう! お願いです! 私と逃げて下さい。……皆さんも、一緒に山奥へ逃げましょう!」
胸の前で両手を握り締めて思い詰めた、今にも泣きそうな顔の彼女の小さな悲鳴(ひめい)のような声が、僕の言葉を遮(さえぎ)る。
「逃げていただけないのでしたら、……私は逃げないで、あなた様と一緒に戦います!」
僕は手袋を脱(ぬ)いで、言葉を強める彼女の両の肩に手を置いて落ち着かせながら言う。
「それは駄目(だめ)です。淑子さんに、此処に残って貰(もら)ったり、戦って頂(いただ)いたりして欲(ほ)しく有りません。そうされると、僕が此処にいる意味も、敵と戦う意味も、無くなります」
焚火(たきび)の炎に照らされて彼女の頬(ほお)が紅(あか)く染まり、潤(うる)んだ瞳がキラキラと艶(つや)めいている。
……僕は……、置いた手で彼女の肩をしっかり掴んで抱(だ)き寄(よ)せ……、そして、強く抱き締めたい衝動(しょうどう)に駆(か)られた……。
「僕は軍人です。敵と戦うしか有りません。淑子さんを護(まも)る為(ため)に、僕は戦います!」
「……あなた様は、必ず生きて戻って来てくれますか?」
溢(あふ)れそうな涙で潤(うる)む瞳が、衝動を抑(おさ)えている僕を見上げている。
「約束して下さい。必ず生きて戻ると……、お願いですから……」
「それは、約束……」
「でも、戦えば……、敵に殺(ころ)されます。あなた様が……、いなくなったら、私は……」
言葉がか細(ぼそ)く途切(とぎ)れ勝(が)ちな彼女の目から、ポロポロと涙が溢れて頬(ほほ)を流れ落ちて行く。
「分かりました。約束します。必ず生きて戻ります。僕だけではなく、搭乗員の皆も無事に戻ります」
「……あなた様は、私に言う事を利(き)かせようと、出来ない約束をするのでしょう? ああっ、でも、でも……」
涙目がキッと見開いて、僕を『嘘吐(うそつ)き』と睨(にら)んだ。
「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。アメノウズメ達は凄(すご)く強いのです。あんな爆弾や砲弾など、弾(はじ)き返す事が出来ますから約束するのです。それに、アメノウズメの大砲は、アメリカの戦車を殺(や)っつけれます。だから、負(ま)ける事は有りません」
今に至(いた)る前に戦争が終結する事を願っていたけれど、誰も止められない負け続きの戦(いくさ)の御蔭(おかげ)で、とうとう明日は、此処へ上陸して来る強力な敵と戦う事になる……。
爆弾や大口径の砲弾が直撃して砕(くだ)かれたり、敵戦車の徹甲弾が装甲板を貫穿(かんせん)して爆発しない限りは、アメノウズメが完全に殺られる事はないが、戦争は殺し合いで、勝ち負けは時局と自分の運次第(しだい)、生き残る『死中に活(かつ)を求める』などと悟(さと)らせる指南書(しなんしょ)や極意(ごくい)は何処(どこ)にも無く、誰も知らなくて分からない。
だから本当は、自分の生死など、約束できる理由(わけ)が無い……。
「本当に、……約束できるのですか?」
僕を睨む彼女がギュッと僕の心臓を鷲摑(わしづか)みした様な、湧(わ)き上がる愛(いと)しさと切(せつ)なさに息が詰まり、胸がキリキリと締め付けられる。
「はい、本当です。だから、約束できます」
「……やはり、私が最前線で銃を手にして戦っては……、駄目なのでしょう?」
「そうです。駄目です。戦うのは、兵隊と義勇(ぎゆう)隊と防衛隊の男性で十分です。だから、早く、挺身(ていしん)婦人会の方々と一緒に、犀川(さいかわ)や浅野川(あさのがわ)の上流へと逃げて下さい! それが、女子挺身隊としての貴女(あなた)の戦いですから……」
僕を見上げる彼女の瞳が、再(ふたた)び、涙に潤(うる)む。
「浅野川上流の湯涌(ゆわく)地区や犀川上流の倉谷(くらたに)地区の山奥へ私は避難すると致(いた)しましょう。そして、もしも防衛線全体が転進(てんしん)する事になって、あなた様が無事に来られても、其の後は、どうなるのですか? まだ戦争は続いていて、生き残っていても、私達は殺されるのを待つだけなのですか? それとも自決(じけつ)しなくてはならないのですか?」
「……淑子さん……、そんな悲劇(ひげき)には、ならないと、僕は思います。いえ、悲惨(ひさん)な事にも、無残(むざん)な事にもならないように、僕が、この命に代(か)えて淑子さんを、必ず護(まも)り通します」
僕は彼女に幻想(げんそう)を語っている。
護り通したとしても、彼女に向けて振り下ろされる剣先(けんさき)も、突(つ)いて来る矛先(ほこさき)も、飛んで来る矢(や)も、僕の盾(たて)と槍(やり)は彼女の前面に立ちはだかり、其の災厄(さいやく)の全てを討(う)ち払うだろうが近さには、既に僕は彼女の傍に居ないだろう。だが、直ぐ其処まで来ている平和な世の中へ彼女が生き残って行ける一縷(いちる)の望(のぞ)みは有った。
私が直接、戦闘の指揮を執(と)る『越乃国梯団 第1中隊』の2輌のチリオツニが活躍するのを、丘の上に広がる竹林の、此の場所から遠望できるだろうが、私の戦いは、淑子さんだけを意識して護る為ではない事を、もし、見守っていてくれるのならば、彼女は分かっているだろう。
「邑織(むらおり)様、岐阜(ぎふ)県は飛騨(ひだ)地方に、福井(ふくい)県は県境の山岳地帯に、富山(とやま)県は立山連峰(たてやまれんぽう)に、そして、石川(いしかわ)県は奥(おく)能登(のと)の高原と加賀(かが)の湖沼と県境の山奥に、古(いにしえ)から龍神(りゅうじん)の伝説や伝承(でんしょう)が存在します」
彼女は、八百万(やおよろず)の神的な神憑(かみがか)りの伝承に護られると話すのが察(さっ)しられたが、僕には彼女が言おうとしている事を否定(ひてい)できなかった。
「此処、金沢市の野村(のむら)地区に住まう私達は、この近くを流れる伏見川(ふしみがわ)の、更に上流の内川(うちかわ)の源流辺りの菊水(きくすい)の集落まで避難します。其処の三輪山(みわやま)にも龍神の言い伝えが有りまして、きっと、私達は龍神様に護(まも)られると信じています。侵入しようとする外敵は龍神様に拒(こば)まれて酷(ひど)い目に遭(あ)う事でしょう。私は大丈夫です。だから、あなた様は、必ず生きて、私の許(もと)へ戻って来て下さい……」
僕が生まれ育った滋賀(しが)県高島(たかしま)郡朽木村(くつきむら)針畑(はりはた)にも、龍神ではないが、異形(いぎょう)の神の伝承が有り、実際、地区の集落は護られていた。
集落に近付くに現れた熊(くま)や田畑を荒らした猪(いのしし)と山犬(やまいぬ)は、内臓を食われた骸(むくろ)となって路上に捨(す)てられていて、村人達は事有る毎(ごと)に道角(みちかど)の祠(ほこら)に御供(おそな)え物をして、鎮守(ちんじゅ)の神と崇(あが)めていた。
其の御供え物は、翌朝に無くなっていたが、御供え物を乗せていた大皿の向きや位置は変わらず、猿(さる)などの獣(けもの)が貪(むさぼ)り食ったり、咥(くわ)え去ったりした痕跡(こんせき)は無くて、明(あき)らかに住人達以外の知恵(ちえ)の有る異形の何かが、御供え物だけが消えたかの様に、祠や周囲を荒らさずに持ち去っていた。
僕を含(ふく)めた地区の住人達は、地区に住まう異形の神を畏(おそ)れ、敬(うやま)い、信心(しんじん)していた。
つづく
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