【エダ・リストハーン/MAREN0L】1

 私ね、リリイって花が好きなんだ

 今度見せてあげる、良い香りなの

 それでね、来年はこの石にも……


 二次子機の停止。

 及び三次子機の乖離。軽自動車の追突とは遠因ではあるが、死活問題か。目的地まで辿り着くいたのはまだしも、家主へ弁明し辛い程の半壊を喫している。樹木への追突、エンジンへの破損はきたしていないらしいが、ボディか。ヘッドを枝の節々が這いで共に見せつけるようにめくれている以上、全壊と見ていい。


 前が、遠い。判断力は低下しているが、それは無理もないと容易に解せる。意識が切られていた、そのまま前進に減速もなしに突っ込んだのだ。まだ気づくだけ、後部座席に投げ飛ばされたとだけ理解する余地があるだけ軽傷だろうか。


――いや


 意識は遠からずあるが、それだけ。遅れて背を震わせる衝撃か、熱がこの事故の痛みらしい。鉄の箱の、その痛覚。眺望せど、めり込んだ木々の葉の色は判然としない青緑……よりも霞み……車体が覆う靄が蠢動すれば、背に悪寒が走る。視覚異常に伴った脳補完による誤謬は、昔の記憶を頼りにするらしい。否が応でも、是が非でも。人は識るために生きるが人間の如く、か。影が焦げた幻嗅をも、こちらを一瞥する。それらに寝返りを打って背けば、シートには赤い色彩が泥濘に。花、そんなわけはないか、自らの血だ。白いシートに、まったく以てよく映える。瞬きをする度に、雫が赤く垂れる。一滴、一滴、その滴りだけがこの空間をみたす音。それもまたざわめきと、糾弾で、不意に呻くが嗄れる。代えて目を乾いたシートにするが、痣程度の痛み。右眼窩、カバーとしての花は既に斃れたらしい。

 起こそうにも、吐く。血を、赤い、潮を。問題は追突事故ではなく臓器方面へのものか。マルチタスクとして併存した遠隔操縦も作動しない。覚束なさ、もあるが掌への感触はない。その先、自分の物を掴もうにも、弄する糸、「何かさえ掴めない」。この先、数百メートルにいるはずの個体は一つも呼応しない。その状況をデータとして送られはしない。

 機能停止、というのも甘いかもしれない。喪失、それが妥当的判断だろう。仮に、まだここに感触があるのなら、こちらに数体応援を寄越せる。それすらもない、静謐、それ故に寂寞だ。拠点に来いと連絡を寄越した三輪の気配すらもない。きっとその先にいたはずの瀬谷も……人気はない。彼らの認識を握する感触が掴めない。そのまま、泥ですらなく、指は空を掻いた。


「大丈夫?」


 大丈夫、そう聞き覚えの少年が聞くが、健在ではないのだろう。痛みが想定内に鈍いのは肉体で構成したアルカロイドの功であり、鎮痛か。意識断絶して機能を喪いかけてる臓腑には、実質の機能があるかは微妙だ。今も、こうして、怪力かでスライドドアを剥がす青年とは比べようにも、何も。


 香り。

 幾ばくかの、馥郁の。蜜を垂らした濃厚さが鼻から喉を通る。透明だ、が、時折喉を灼いて、甘さが焦げて離れない。生殖を欲する、虚弱な足を開いた痴態。


「ほらおいで、手貨そっか」


 その匂いは、ジャンヌが好んでいたもの。みだらなそれを、彼女は窓際に飾りたいと言っていた、あの日だまりの下で。日だまり、丁度冷えた彼の手にとって、その月光のような光、いや、違う。それじゃ、ない。その色は、ずっと、冷えている。


「錯乱してる? 俺が見える?」


 少年が、一人。

 刹那、という間隙が人にはあるらしい。その一瞬、僅かな一瞬にヒトは思想を分解と構築を繰り返すのだという。

 呼吸をしながら、順当に……視覚に入る光は、ストロボに。白銀の髪は、俗っぽく癖をつけてやや乱れているが汚れはない。しろく、ないし錆びずにどこからか光は氾濫する。その光は何処からかは皆目見当つかず、また先まで際立ったカーブを描く。星辰。深く更けた叙景、それらが囲う星よりも無垢に、か。ただう厚い雲よりも、微かに見えるだけの星屑よりも、きららかにそれは居る。

 燻り続ける退廃の焦げを纏わず、束の間通り過ぎる涼風と似る。涼しくて、それでいてつめたい。熱を誰よりも潜めたはずの髪を靡くも熱は帯びる。ぼんやりと、その所作の曖昧さだけは人間らしい。


 あれは、と、思考を巡らせて、そして伏せがちな紫の瞳でようやく……笠井蓮、らしい。


「笠井か?」

「驚いた、分かるだなんて」


 笑むと、少し頬が赤くなる。肌が白く薄いらしいか、紅潮が緩慢に広がる。それも、夜闇に混ざらずに映す。黒い襯衣シャツと対照に白い肌に嵌め込んだ紫も然り。それは夜じゃない、さりとて朝でもない。しかし白昼の徒花が観る朝焼け、その青とよく融け混んだ風情か。

 無防備だが、無防備にもさせる。確かに白昼に見た笠井とはかけ離れている、黒髪が銀髪に、背丈は自分を追い越して頭一つ分程に高い。顔立ちも幼さを喪うが……写真のみの雰囲気は損ねない。


――ただ


 不可解さは一つ。口調が気さく過ぎることか。


「Sか」


 尋ねれば、ひとたび口角は上へ。いらへはないが、懐からシガレットケースを取り出す。所作は、慣れている。景観とはなれた指で一本取り出す。


「未成年に吸わせるなよ」

「違う、どうせご無沙汰なんだろう?」


 変えて、シガレットは缶コーヒーへと。魔法か、その間はごく僅かで隙はない。軽くそれを差し出せば、Sは横方向に目を遣る。追突事故の、その位置をズラした先は、高度は低いが軽い崖だ。追突した大木の側に、眺望用のベンチが辛うじて残されていたらしい。


――足が


 それに満身創痍だと一蹴しようとしたが、否だ。痛みが、嘘みたくいつの間にか引いている。脳のダメージを明確に与えられた以上、自己修復能力が働いたとも考えがたい。ならば、外部の、エスからの補助。無言の強制というものだろうか。


 或いは、或いは悠然。

 致し方なく、彼に目の遣る方へと歩くが、足に車の部品が散乱する。顔を顰めて、座りはしなかった。


「君の行動は大方察しがつく、感染源は海外構成員の残党か」


 変わらず、Sは少年の口振りで語りかける。不釣り合いに、淡々と、それでいて態度は崩さない。似せることも寄せも、しないのだろう。何故本体ではなく、彼の体を使うかは見当もつかないが、知る必要はないか。

 そうして……そこまで調べがついている、と言うのなら嫌というほどに明快だ。終わりを、意味しているらしい。終わりを、これ以上の足掻きは無駄だと。


「戦争は、起こしたくはない」


 目的は、ジャンヌだ。ジャンヌを殺し、イブの暴走を止める為にここに来た。それなら、その周囲は北条家の敵対者かどうあれ自分には「余剰属性」に過ぎない。


「だが勝手に薬を売るのは『脳喰み』が黙ってないな」

「売ったよりボロ切れの連中に食わせた……ノウバミってアオギリ?」

「会ったか?」


 無視して、缶コーヒーへ目を遣った。梧は、この世界で初めて出会った「何か」ではある。悪い化物ではない、現にこの缶コーヒーは彼から餞別として承ったか。Sの様子だと、梧は機関からも認知されているが、そこに懸念はないと見える。その演技、何かの引き出しですらもない。単なる世間話、だろうか。露骨に濁してもSはそれ以上の追求はしない。ただひとたび、手持無沙汰な片手がぶらぶらとさせる。薬物中毒者でもある梧の癖の真似、だろう。


「アレは君には好条件だったのに、反社会的勢力で薬の需要もある」

「その上機関を好いていればね」


 梧とは一度しか出会ったことはないが、彼によって三者の均衡を知った。「協会」とは、この世界での防衛団体とは十把一絡げに纏める。が、それは公的にはされず相手である機関や異世界には「世俗的にも公開されていない」という。それ故、その活動も維持も困難を極め、内部でも派閥が起きやすいと彼から聞いている。

 梧は関東南部一部の観光都市を仕切るが、それ故に彼は付近の海外マフィアに加担するらしい。守るための社会的地位と資金源の独占……実際はそういった行動は少なくない。彼曰く「敵にされても文句は言えないが、それ故の不可侵もある」という。

 彼の所作、その土地のみを固く守る愛着に敬意を称してはいない。そこに特別はないが、問題はこの不可侵だ。「協会」の人間が「機関」を敵視している。ならまだしも、はっきりと彼は「協会同士の不可侵」と明言した。異世界の、外部の人間に対して。当該の男性との交流は数時間ほどだが、それで全容は知れた。


――協会は


 「協会」は、対異世界の防衛すらままならないと。それよりも自らの能力を以て、固有の立ち位置を保持する傾向にある。保守的な行動は悪ではないが、不都合ではある。「協会」は、ともかく協力的な関係は少ないのだ。外部からの攻撃は一対一のものとして終わらせやすい。それは、感染させる際の拡散力を必然的に低くさせる。

 故に、狙ったのは機関に友好的な協会だった。彼らは、閉鎖的に物事を終わらせようとする。ならばそれとは逆の手法で終始を講じる本来逆位置にいる「機関」を頼る人間が必要だった。


「『脳喰み』の協力者は中華系犯罪組織コクレンだから素材は相当数いたはずだが、情か?」

「大人しい協会にひと騒動起こせば誰が来るんだろうね」


 協会の典型的な閉鎖体質は、機関の指す「資源情報」の温床と化す。そこで不用意に暴れたところで、彼らは根負けして要求を呑むとは思えない。むしろその前に、迅速に機関という第三者の介入で食い潰される。


――つまり


 これは別の言い方も出来る。機関にとって協会を食い潰す為の引き金は、第三者である「何者か」の行動。だとすれば、機関は「何者か」の誘発を厭わないことも窺える。

 いや……厭わないのではなくて、それが本望なのだろう。機関は中立的私益団体である以上、過度な侵攻は掲げる名分を否定させる。その信頼の失墜は、自らの利益を損ねてしまうからだ。だから露骨なことはしない、しかしその為の道筋は立てる。それ以外の逃げ道を塞ぐため、それだけの道を進ませるため。

 機関は直接的な力争は売らない、それさえ守れば、どういった行動をしようが自衛とされる。敵の敵によって、その暴力は正当化していく。だから周囲は機関に頼れども友好的とは程遠い。言い換えるなら彼らは火種を憂慮しても消すことはない。その火種が、利益として燃え上がるように誘導する。

 だから、だ。梧といった協会連中には協力を要さなかった。その不用意さもまた、機関にとっては軌道の一つとなり得るから。ジャンヌを遠ざける要因を自分でつくるのは、避けたかった。


「……我々の最終目的は、イブ・リストハーンを名誉的存在へと付随させる為だ」


 だが――戦争の勝者は「引き金を引かせた者」にある。そして彼らはその側に何としてでも回るのだ。自らが有益に立つため、他を利益として食うために。

 それが……今回は瀬谷鶴亀の存在であったことは間違いなかった。

 

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