【マツヤマエイジ/Tough&Alone】

【前書き】

 ぽちくら史上初に1万字更新したので目が痛いです、コメントは後ほど返信します。ごめんなさい。次から短くなりたい。



 鬼。

 まず「鬼」と解釈される存在は、国内において多く分岐される。通俗的に知られるものならば、虎柄の肌着に猩猩緋の肌。室町江戸にかけては、酒と血を違いなく夜露のひとつと呑む恐怖の権化。この双方どれも「鬼」と解釈される一方で、中国では霊魂の類を「グイ」としている。広義も大概だが、これは「鬼」そのものが人間の成れの果てに因む。あるいは「死」に近い存在とした上で、個々の宗教観上の形成と言われている。


 似たようなものに吸血鬼があるが、彼らの定説とされている「歩く死体リビングデッド」、「十字架を嫌う」という点は、ルーマニア周辺とした欧州周辺の流布。つまり、キリスト教信者が多く集中されていたことに関係する。

 教義に習い土葬として「死体を残し」、敬虔の徴として「十字架を持つ」。この所作をすると同時に、環境に取り巻く死――この例の場合ペストや飢饉といった――に理由を付ける。「死」という絶対的なものでありながらも実体のない不確かな存在。故に、物質として残された死体を使い人間は事実の裏取りとして伝承を創る。そういった経緯で、吸血鬼が成立された説が有力とされている。


 吸血鬼のように、「死」を基軸とした上で作られた解釈、特に怪物には様々な物がある。宗教として統一されているにせよ、集落の風土、陋習、風俗の上での価値観は同一ではない。それ故の広義。故に世界そのものが拡大された今日において「鬼」と定義される。つまり、非常に曖昧なものである。


 その上で、自分Yは鬼だ。

 機関が広義と多角化された「鬼」という種族に対して指定した定義は「『骨格、遺伝子の塩基配列が霊長目真猿亜目ヒト上科ヒト科と相似する個体』を対象に『魔力含有量の排出が極めて少ない生命体』」である。

 即ち「一般の人間よりも魔力を溜め込みやすい者」を指す。が、瀬谷や協会のような魔法使いと区別されるのは『排出量の増減』による。一般的に、魔法を使えば魔力は減るもの。しかし、当該種は減らせど減らせど何らかの問題で供給が絶え間なく行われる。これが本人の意思に関わらずほぼ強制的に、だ。放出の為の量を見越し、体内その物の魔力を極限に濃く生産されている個体。それが自分の体だ。


「『らしい方』ですねえ」


 鬼は、魔を使わない、故に魔法使いに非ず、魔術師にも成れず、極致は魔そのものの悪にしか歩めず。

 魔術という術も知らず、己律する法も。子弟を導く四肢は細く、肉を食らい永得る悪のみを有する。『鬼』という象形が如く、脆弱たる巨大な肉袋だ。魔法使いのような道理もなければ、人間のような瀟洒もとうにない。食えよ呑めよの自儘に生きた衝動の権化。

 だからこそ、だろうか。人間よりも獣ににた何か故か、筆舌に尽くしがたい気配の細微を知れる。読み書きを知る必要ない故かもしれないが――ともかくと、後退った。


 怯懦、ではない。

 ニワミツヤコは、まだ間合いを詰めることはなく、間隙の変化に気にも留めない。余裕、というよりも手合いに関して些事たる要素だろう。それよりも他の環境的要素、何らかの状況下に置くことで優位性を確保している。その優位性、先頭に不向きな着こんだ和服を見るに、肉弾戦の類ではない。


「一つ種明かしを」


 例如たとえば、無形のものども。すなわち影、闇。


「……機関で『アドゥムブラリ』って呼ばれているんですよお」


 後方。気づくには遅く、貫通。

 腹部の違和感に目線を下に下ろせば、血に塗れた腕が中を。腹をそのままえぐり、太い血管を細っこい指に。腕、これは自分のものではない、自分よりも一回りか細くて華奢。素肌の白さが、血がよく際立つ。丁度その色合いは、冬に落ちる椿と似ている。死に時であるにも関わらず、悼まれる前に耽られて、遠く、雪原でひとり朽ちるだけの。

 前方、ツヤコの姿はいない。気配、その足音すらも感じられない。いや、血の変流から興奮状態に陥っているか。


 ――まずい


 咄嗟に、貫いた腕を掴み垂直に圧をかける。挫傷、骨折は聴覚の鈍音で確認出来るが、腕から先に接続される感覚がない。そのまま、突き出た物を無理に折り曲げた、感触。

 ようやく引き抜くが、腕は肘から先まではない。これは右腕か。途切れ、断面を黒で覆った何かを見せるのみで、血肉の赤白とした情感さえない。腕、指の腹で伝うは、自分の血のぬめりと肌、だが体温は感じられない。冷えた、何かか。


 痛覚、正常に作用しているが、未だ脳は冷静に動いている。胃の逆流はない、加えて臓腑にはその損傷がないと衝撃で分かる。奇妙な話だが、貫かれたのは腹の皮膚であって内臓か。


 アハハハハハハハハ フフフフフフ


 笑い声が、外に。

 上に。





               下に。

    右に。





 左に。

 

              右に。

  下に。

 反響か、残響か。平たい屋外にも関わらず、彼女の姿は見えない。発汗からなる嗅覚、振動からなる触覚でさえも、人の姿一つさえ感じ取れない。


 ――見えない?


 否、違う。これは、見えなくされたのだ。

 ぐじゅり、水分を多分に含めた目からの水音はいやらしい。いやらしくて、弾け飛ぶだけで、喪ったと分かるに易しい。追撃、視界の暗転。異物。視界、左の視界の消失……眼球。左眼球の損傷か、頬に、生暖かい液を。眼漿、そのものか。

 患部を覆えば、また細い何かが掌に当たる。構わず、それを引き抜けば指が。長さとして中指と人差し指の二本、これもまた断面に血はない。


 ――アドゥムブラリ


 この世界には、「種族」というものはない。代わりに機関が分別を目的として称した「記号」のみがある。代表的な分け方は機械的識別カテゴライズと、客観的別称オルソー・ノウン・アス。前者は「吸血鬼」「淫魔」「スライム」を定義付けるとしたら、彼女は後者か。

 通称、アドゥムブラリ。民俗学は疎いが、発音は聞き慣れない。何より彼女の通称が与えられている限り、種族と括られる類ではない。つまりは唯一として扱われる、いわば神の立ち位置に近い何かを「アドゥムブラリ」と指すだろう。


 ――分からない


 認識が出来ない。魔力を使い肉体を限界まで覚醒させてもなお、彼女が。肉の一片すらも察知出来ない。


「ネエ」


 声が、届くも。

 殴打。内部破壊に中止していたか、外部からの追撃を受ける。外部、右脇腹への薙ぎは鈍く圧す。ゆっくりと、皴は入らぬように、しかし衝撃かで足を蹣跚よろけさせるべく。案の定、まだ構えをまともにしない脚部の姿勢が崩れる。急所とは言わないが、的確とは言える患部。


 ――いや


 しかし、だ。破壊されたのは左眼球だが、彼女は右脇腹を攻撃した。つまりは視界についてはまだ無事であった領域からの攻撃。視覚が正常である内は、彼女の攻撃は肉眼で捉えてもおかしくはない。

 それを不可能、あるいは失敗させるもの。そして今彼女を文字通り「敵無し」とさせている状況なら……やはり、影か。


 ――影


 推察。痛みという名の衝撃に、脳の許容量は圧迫されていない。まだ、極めてな正常な回路だ。極めて、活動限界値の数値化も易い。この攻撃を次に食らうとするなら、まともに食らった人間は怯え防御を混乱する。


 ――なら


 制御。

 読んだ通り、顎の真下に白い手が拳を。顎下突き上げアッパーカットに直下ストレートの一拳を掴む。掴んだのは、他でもない彼女は巨躯の割には矮小たる手足をしている。細くて、華奢な、それこそ女性のようなもの。


「痛いですよ、痕ォ付いちゃうじゃないですか」


 女らしさの要素は、それが唯一か。どどめいた声音、老若男女を混ぜたそれは、またも彼女か彼を不確かに。白い手もまた、死人の如くか雪膚たる所以かと定かでなくなる。

 声、その方向性もまだ判然としない。手首を掴んでもなお、その握が柔肌を絞めつけても。腕の先にれっきとした黒渦を捉えてもなおだ。

 黒潮、予想通りそれは自らの足元である影だ。光に当てられ、明確な形を残すものからの現出。

 どうやら、攻撃範囲は恐ろしく広い。影の分身か、影の使い手か、影そのものか。何れにせよ、その影は、どうやら瞼の裏も体内でさえも適用されるらしい。光があれば、その隣の黒は闇ではなく影、と、その能力はそう解釈されるべきか。

 だが、と腕を捕らえ続ける。ツヤコの種族はおそらく自分と同一の「鬼」だが、通称を与えられている時点で他とは一線を画している。


 ――現に


 今掴んでいるものは、ツヤコの右腕だ。直前に自分がへし折っていたはずのものを、ツヤコは無傷のま武器として使っている。体内構造が人間と同一……それが鬼の定義なのだが、その点彼女は逸脱しかけていると言っても良い。

 同化、一体化に近い何かか。魔法の気配が感じ取れず奇異な策を繰り出す以上、これが彼女の十八番ではなく「体質」か。


「……考えてくださいよ、貴方のご主人様はあんなことになって、今更私を手にかけたところで」


 握撃。両手を使い前腕の両端を圧迫させる。

 橈側皮、尺側皮静脈といった太い血管を急激に締め付けては肉体の破裂。多少力を込めた程度なら成立しうる……が、変化はない。血管の破裂、その前哨であろう肌の紅潮も見えない。

 やはりか、影から這う手には切除を前提をしているか、血管そのものもほとんど通っていない。ツクリモノ、そう呼ぶにも相応しいもの。


「もう、良いじゃないですか」

「見逃せと」

「……ジャンヌの消失を確認した今、エダの価値は消失しましてね」


 逆流。

 いや、それは体感的な比喩か幻聴か。然しそれは憤りを示している。確実にだ、「今ここで手を離せば逃してしまう」危惧という枷がなければ、忽ち外れて喰らいたくなる。

 喰らう……そう、喰らう。赤い肉と白い牙をもって、咀嚼して、息をしなくなるまで。欲求と敬意ではない、純然だ。純然な殺意。それはかつての松山を同じようにするつもりだ。


「それを決めるのはお前じゃない」


 よりにもよって自分の前で。

 ……だが、しかし問題がある。ツヤコにはまだ十全と触れられてはいない。この腕も所詮は彼女の仮の姿の一つ。そこで攻撃しようにも、ダミーとして既に切り離すだろう。

 なら、と。向こう側、明かりが灯される一室を一瞥する。植物園、昼に向かった場所だが辺りの宵闇の中でぼんやりと佇んでいる。優位、つまりは明かりの多い場所に自分が向かう。影の数も制限される以上、攻撃箇所もある程度数えられる程にはなるだろう。


 ――いや


 駄目だ。

 その植物園は、そのためにある物じゃない。この我が身は戦うためにある物と同じ、あの花園は主人に守られては愛でられる為にある。決して、その地を地で汚すことを、水をすることを。決して。


 ――決めさせやしない


 腕、過去の経験から外部から攻撃したその時にでも、ツヤコは体部を乖離させる。乖離には特に、デメリットもない。肉体欠損に相応したダメージを負った訳でもない。字通り、彼女は影であり彼は影、か。


 ――なら


 抜くのではなく、沈ませる。腕を、まだ渦巻く影の中に。固定、突き出たそれは手で抑え屈んで地に、手をつく。泥濘、第一の所感はそれであった。泥中の中、感触は、固形たるものはない。ただ揺蕩い難い重さと質量か。

 これが、影の中だろうが異変はない。切断される気配も……どうやら、これが特性であるらしい。影の中なら任意で移動は出来る、一部にすらなれるが、多方を同時に操作は不可能。そして、外部からの侵入には断絶することはない。


 漿液、破裂したばかりの、血を交えた粘液が下へ、飛沫の音無く。泡影うたかげ、それを示すか、色を交えたはずの雫は一滴、一滴と底へ堕ちていく。接続された空間へと、そのまま。


 静かに、目を瞑る。溢れ出す眼球が、どこか生暖かく頬を伝う。優しく、涙ですらない異物が頬から頸へと溢れる。じぐり、溢れそうにない傷んだ神経の断面をも。それが、自分に残された人で言う「涙」らしい。


 ――人か


 ここは、祝福の地だ。生きることと散ることを許される花園は、混ざりけのない自然。

 佐藤イブ、エダ・リストハーンもその一つだ。

 彼は祝福された、受難を得た彼への慈愛を、ヨウは叶えた。エダはヨウの所有物ではないが、エダはヨウによって自我を保ったと言ってもいい。

 だからだ、泥は花を咲かせど、散らすものではない。泥は、泥だ。エダを救った楽園を、自分が汚すものにしてはならない。美しいものは、美しいままで、だなんて月並みだが。それだけが理由だ。それに意味を決めてはならない、それに意義を考えてはならない。無意味だからではない、花が美しい理由を誰も知らない、それと似たもの。


 ――うん


 ……己惚れるとしたら、代わりに穢れるため、枯れるために自分はここにいるのだ。そのために神聖を使うことはない。例え彼がここにいなくても、いなくなっても……いや、いなくなってこそだ。

 神聖を語る者がいなければ、守るものもいない。そうして聖は堕ちていく、その様を眺めて見届けることは出来るあろうか。


 否。


火炎クォサウ


 否、だ。なんの為に自分がここに生きているか、生かされているか。


 ――熱い


 決まっている。腹部から全身にかけて、自分は爆裂をしているからだ。影に向けて、火柱を立てながら、何かを燃やさんと燃え上がって、爆ぜる。

 痛み、それらがばらばらで分からなくなるくらいに、熱風が、突風が。臓腑、か、もうそれだったかを撫ぜて、抉り上げて。それが己の激情と形容するか、そう例える浪漫も、まだ持ち合わせているのだろうか。


 ――にんげん


 まるで、人間みたいだ。機関にいてもなお、ここまで堕ちてもこれか。自嘲、する他ない。弟も、何もかも分からない世界の中でさえも、自分はいまだ変わってない。

 鬼は、十把一絡げに言えば「魔力袋」と大差ない。故に、身体そのものは火薬庫であり、そこで吹く煙草は詠唱の一欠片とさえ言われる。人間の形をした、人間の血骨を以て形成された魔力、と言ってもいい。全身にかけて感度の高いそれは、魔法の行使一つで過剰な反応を示す。


貴方に、炎を見せようエレ・アィン・クォサウ


 故にか、自縛機能をかける同胞も少なくはないらしい。どんな呪詛にでも無闇やたらに感知されぬ為の枷。ただ一つとして使うその呪詛を、魔法をすることで己を人間とする。ある種の倫理、ある種の仁義、ある種の忠誠。


故に、忘れるなアィン・クォサ・エレ


 そして自分には……それが人たらしめる呪か。沈んだものを憶えること、守ることのみを、生き甲斐とした「何か」の義務か。エダも、ヨウも、映士も。

 爆裂。渦の中に炎を。そのまま、赤のみしか知らないものが身体を穿ちながら影を覆っていく。飲み込む前に高く、熱く。骨を焦がす音を立てながら。

 中に、取り込まれているか腕もまた引き抜くも、断面が見える。焼いた脂と、肉の香り。炙って一部炭化していれど、それに生の気配は十分にまとう。


 ――これで


「ご兄弟揃って、興味深い方々」


 ……いや。善戦など、していない。


「申し訳ございません、実際の、ところですねェ」


 影が。物質に、杭を。地から下に隆起させたものではなく、無機質に鋭利な物として、そのまま顔面を打つ。強打。強く、下手に後ずさるが運良く足は躓かずに踏み留まる。

 だが、と、目を遣る。自分の真下を、そこにあったはずの、何かの領分でもあった自分の影を。


「エダ様は、まだ生きています」


 影がない、失ったまま。黒く凝固した何者かだけが眼前に佇む。何か、それは背丈を2m行かない長身にして、痩軀。内に、火柱が駆けるが、少女らしい顔には何も変化はない。薄らと、宵の際に見せた模糊の笑みを浮かべて、ただ影色の容姿であるとばかり認めさせて。


「言ったじゃないですか、

『……』

「お察しの通り、私は影が得意で……貴方の発声や、あの紙袋も……言うなれば『幻影』です」


 ――こいつ


 鬼、と種族するにも生温く、しかし容貌は焦がす。

 ちりりと、まだ灼然が柔らかな薄桃を火の粉へと。変えて、燃え移れば肢体のみが露わに映る。白い、まだ、炎に炙られれもなお。


「……それに


 声を、抑揚をも変えず、その頭髪の色合いをも。燦然を吸い込まない何か、それもなお小首を傾げる毎に髪は艶めく。が、炎ではない、どこか遠くの白艶のみを乗せて。


「いつか遠く離れていくのではと……その様子見でしたが」


 言葉、言い切らずにそのまま噤んで、ツヤコは笑んだ。眉を潜める醜態もない、周りに起きた惨状を何一つ、顔色を変えずに笑いかける。


 ――まるで


 疼く。傷口が、感覚に刺激を齎して体中が痺れていく。時間切れ、有り来たりの表現だとそれだ。自分の外傷は、分からない、だが全身の表面を焼く覚悟に、彼女と退治した。糜爛、その熱のシナプス。自己回復能力があるとはいえ、限界に近い。

 

 途端、燃え上がる掌から、ツヤコは何かを見せつけた。見慣れない、緑色の宝石。宝石、なのだろうかも分からない、しかし硝子よりも輝いた何か。


 ――待て


 心臓が、鳴る。その鼓動さえも激痛が走るが、手を伸ばしてしまう。いや、この手は、赤く煤焦げた手は、もう腕か? それすらも見分けつかない。


 ――待てよ


 それでもだ、この傷は何かを守る為についたもの。それで退くわけにはいかない、酷い体になっても、伸ばさない理由はない。その石が何を示すのか、分からなくても。ただ、手に渡ってならないという確信だけがあって。


 ――だって


 エダが、利用されてしまうから。みんな、価値を付けられるものになるから。誰かも分からない人間によって、化物の所業で。それを目の前で見るのは、もう、


「ヒヨくん」


 ――停めた。

 聞き間違い、だろうか。焔をまとった何かとは他に、誰かいる。後ろから足音を立てながら、側に寄ろうとする。金木犀の香り、甘い桃と似た蜜の香りをまとって、きれいな香りをした。彼が。

 聞き覚えがある。嫌でも、その声色を知っている。その呼び方を知っている。


「ヒヨくん」


 その呼び方を決めた人間はだ。

 だが、そう名付けられた人間はどこにいる? ヒヨとは、その人間は誰だ? 彼に従順な人間だったか? 良き理解者だっただろうか? 二度その名を呼ぶほどに、愛おしく、思われただろうか。


『……いやだ』


 だとしたら……来ないでほしかった。

 汚い人間には、名を与える価値はないから。

 守れない物に、命を与える意味はないから。

 目の前のばけものを、見てほしくなかった。



 ■


 走った。

 無我夢中に、何も考えまいと、これ以上の苦しみは何か別のものであればと。例えば、息切れ、歪む骨肉の苦痛。それだったら、それ故ならばと、絶え間なく。

 中途、木の根に躓いては無様に転げても、絶えず前へ。もうどれだけ転んだかも分からない。何度目かにまた顔面を打ち付けては、新しい鉄の味が口じゅうに広がる。そうして、どうしてか、塩辛い。雨でも降っていないのに泥にでも突っ込んでしまったか。


 音が、止まらない。風に靡いた葉は擦れる。暗闇から、輪郭。葉擦れ、それすらも自分を追う者。堪らず、逃げ出すことのみしかない。止まれば、いつしか捕まってしまうのではないだろうか。


 何を?


 何を?何が?そう考える度に、汚れ切った袖が、ぐちゃぐちゃになる。だから、何も考えたくない。何も。頭も痛い、少し擦りむいただけの傷なのに、じゅくじゅくと頭が痛い。


 ヒヨくん


 何も。何故、自分には人間らしく余計なことを考えてしまうのだろう。何故この目は、血よりも他を目に焼き付こうとしていたのだろう。この鼻は、腐乱よりも新鮮なものを嗅ぎ取ってしまったんだろう。この舌は、いつから腐肉を疎んでしまったのか。


 ヒヨくん


 分からない。けれど走らなければならない、追いついてしまうから。その先に何を言われるか、分かっているから。いや、違う、分かりたくない。いいや、分かるべきなのだ、自分は。


 ヒヨくん


 役目を果たせなかった。大切な部下を一人失って、あまつさえ自分は何も気付いていなかった。その叱責は、至極正当だ。ならば足を止めてしまえば良い。


 ――嫌だ


 何故、だ。分からない。自分は機関で生かされているはずだ、命の長さを知っているはずだ。それまでは必要とされているはずだった。もしも彼に恨み言も、怨嗟の一つも。


『裏切り者』


 一つも。


『裏切り者』『なあ、映士』『どうして死なないの』『助けてくれよ』『淫売』『俺はもう無理なんだ』『なんでお前が』『死にたい』『可哀相な人』『死にたいよ』『可愛い人』『頼むよ』『貴方の生きる意味は知っていますよ』『殺して』『ずっと前から』『殺して』『だから私は、貴方を守りたい』『食べて』『兄さん』『食べて』『兄さん』


『お願いだから』『お願いだから』


 その呪いは、脳裏に過る。過って、頭蓋を反響させる。

 故に、足が。不運にも、崖の縁へと滑って――――――


 ■



 ■


 月が、見える。

 燃えるように、光る月が、真白の焔をまといながら。高原を照らす光は、分からないが純白とは言い難い。埋めんとする青い花々か、仄かに冷えた色味も交じる。冷えた、分からないが、血を熱くさせるとは言い難い。血すら静まって抜かれて、身を沈ませるか。


 死んでいない。ここは夢なのだろう、青薔薇は、どの世界にもなかった奇跡の花なのだから。嗅覚も正常に泥臭さを感知できなければ、羽虫一つもいない。都合のいい環境下だ。

 そして、青い。奇跡を追い求めた魔術師は青褪めて、人が死んでやっと見えるような青さ。青。きっとしんぴで、うつくしくて、ふたつもない。その花だけが高原を埋め尽くして咲く。


 花弁、一つ二つ舞う。

 ゆらり、自分の上で、少しの風に吹かれて。月の光に陰る薔薇なんて、赤すらも見たことはない。だが……ああ、眼前に指に触れたそれは奥深い海色か。冴えて、指先が冷たい。青い薔薇とは、こんなにもつめたいのらしい。あんなにも羨まれて、綺麗ないろをしているのに。

 それでも手を伸ばすことを止めない。届く光に熱が伝いそうで、熱さがほしくて。精一杯、かかる青薔薇を御して。


 ――青薔薇


 それは、花言葉では「奇跡」「不可能」と言うらしい。それがいっぱいある、きれいなばしょだ。事実を並べた現実には起こり得ない、ここにしかないたったひとつのばしょ。詰まれた幻想、積み重なった夢幻。


 ――ここは


 奇跡しかない。

 奇跡を並べて、奇跡のみを集めすぎた、ただただ陳腐な場所に自分はいる。現実には起こり得ない無意味とも、そう人は呼ぶ。されど人が追い求めてしまう不毛の地。起き上がりそうにない頭でも、分かる。

 何故自分は、こんなきれいな場所に招かれたのか。自分もまた、陳腐だからか、代えの利く物だからか。


「ころして」


 そう思えば、不意に零れた。

 その独りごちは、乾いた唇を知る。この唇は、醜い。皮も剥がれて、まるで色素は小鼠を裂いた内臓。昨日までのひだまりを思い浮かぶ脳裏も。あの若葉色の髪を追っていた目もぜんぶ。きっとだ。自分は世界には醜くて使えなさ過ぎた。綺麗ならば、佐藤を引き止めたかもしれない。強ければ、もう少し異変に気付いたかもしれない。それすらもままならない、それすらもできない。生きた肉体だけを持つ自分は、何だ。


 違う。


 違うとは、何だろうか。生きる意味さえ真っ当出来ない。弟を恐れたとはいえ、自分の唯一出来たものさえ出来ていない。それに意味は見いだせない、価値も。生きる意味、違う、生きるべき理由は終わってしまった。


 ――しにたい


 だが……出来ない。この夢は、自分の意思でつくったものではない。自分の夢は、■■■■■■■の夢は悪意に象られている。こんなに、夢見がちな物じゃない。


「君は私の物だ、それは聞けない」


 そして夢の主もまた、夢見がちだ。自分の思い通りに行かないことは認めようとしない。それを実現させることを良しとしない。限りなく、諦めを知らない。自分よりも幼さを残しながら、叶わないことを綺麗に語りたがる。

 例えば、触れられる指。両手。整ったそれらが触れる度に、くすぐったさが生まれる。痛みもない、そのささやかさのみしか与えない。


「苦痛は、取り除く。玩具は苦痛を知らないからな」


 それ以外を許さない。

 指が口に入り込んで、強く指の腹を牙に押し付ける。この所作は、覚えている。決まって自分が、逡巡している時に向精神薬とばかり頼ってきたものだ。血液、魔力を貯めすぎた体を利用して、他者の血を使って強い依存状態に陥らせる。そうすると、ひどく心地が良かったのは覚えている。速くなる鼓動が、生かしてくれる理由を与えていると。

 しかし心なしか、咬力が弱い。牙に擦り付けている指の力も。児戯とした、血が出ない程の弱さ。


 ――ああ


 もう、分かっていたかもしれない。当たり前のことを、当たり前すぎて目を逸らしていたことを。続けていても、自分が願っていたものになりは出来ないと。

 それでも男は、目の前から消えずに自分の顔を見上げている。いつもの嗜虐的な笑みを浮かべて、蠱惑の低音をすさんで。甘く、低くしながら、自分に問いかけている。これで幸せか、この選択が最良かと。傲慢に――まるで自分しかこんな物を救えない、といった悲壮を絡めて。


「……私のでなくても、そうさせるものか」


 そう、まるで、奇跡を背負わなければならない男が、自分に問いかけ続ける。

 幸せかと、神秘の中で陳腐を問うた。

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