【Y/アンヘル】
■
その
ただ、まとうにはあまりにも息苦しいなにか。締め上げる温度が、次第に振動と力によって風に、そして吐息を知っていく。低い男の、もう子供ではない、弟の声を。
尚早に目を瞑ろうとする自分に、彼は決まって硬い手で自分を撫で上げていた。背から、臀部にかけては掌を使って。生温い鉄錆臭さをまとった指で、下衣へ滑り込ませて愚息を弄んでは吐き出させて。いきを短く切らす己に、うっすらと笑う吐息をかけられる。そうして、優しく囁くのだ。可愛いと、慣れていないのは貴方らしくて好ましいと。ずっと、それが甘美だと耳が馴染むまで。
悪夢だ。紛れもない、どこかに逃げようとする素振りすら許さないのではなく、認めない。そう考える余地さえ与えない何かだ。許さない、という概念はない。ただ頷くまで彼はそう促しし続けていく。
――違う
息が荒いと、起きて漸く気付く。平素のものを成していない、じゅうぶんに息を吸わんと蠢く肺がよく分かる。
かさかさ。 夕日と窓。
ちりちり。 小鳥囀り。
ひゅおお。 風も吹き。
おれんじ。 遅い時刻。
夢、ではない。目覚めたか。
ただ息苦しさは続く。内臓が、ざわめいている。血管、内壁の擦過すら感じるが、暫くしても乱れを整えるまでに至らない。起き上がって、布団を剥いだばかりの頭でも理解しようがない。血液の酸素不足。その理解は、している。苦痛が口の渇きを不快にしていた。
落ち着いて、呼吸の乱れを整える。
高く漏れるそれを、かき消してからけたたましく鳴ってゆく早鐘を圧す。胸上、皮膚と太くなった骨肉越しと言えど、異常を知るに難くなかった。心成しか、心臓の上に遣った掌を強く押しやっていた。
――いたい
間抜けてはいるが、正常だ。
正常に、自分の刺激に感知しながら自分は苦痛を感じている。それだ、今はそれが欲しいと再度押しやった。いたい、くるしい。次第に息が出来なくなりながら、脳が酩酊を始める。眩暈も、正常だ。
視界から移る夕焼けが、次第に視界の中でとろけていく。幻覚のように、いや、幻覚か、とろりと、ゆらりと、液状に――それ以上の変化はない。
悪夢はない。誰からも優しさはないと気づくや否や、胸中の鳴りが何処かで治まる。
安堵して、漸く手を離した。息を整えば、五感は正常に動く。清潔さに満ちて、けれど潔癖程ではない。清潔に、白い部屋にほんの少し個性を色付けただけ。
その一つが、観葉植物か。隅に置かれながらも葉を揺らしては、影の濃い輪郭を壁に描く。揺れている、風が、窓から吹いていきながら靡いているらしい。差し込む夕日と一緒に、おだやかに。
もう、一日が終わってしまう。遠く、昼までの記憶はまだ残っていても白靄が掛かっている。起きたばかりか、意識はまだ鮮明ではない。痛覚も、まだぼんやりしているが一度や二度は噛まれたことは覚えている。
――肉を
そう、エダがだ。
肉を深くまで、骨にまで牙を触れられた傷を彼によって治されている。次いでに、駆けた際の骨の軋みも。踏み出した時の半身のひずみも。ダメージレポートは重要だと部長から言われているのだから、憶えるは易い。
血肉からの軋音、軋轢から指の関節の一つ二つほどの不完全骨折。肋も、多少折れたが自己回復能力が縫合を計る。圧迫せど多少亀裂もないなら、無問題か。
紆余曲折、その後に浴場にてエダと鉢合わせて、語らって、以降彼とは会っていない。何かするのなら、外には出すまいと決めていたが湯に上がる頃にはタクモクに囲まれた。次いで衣服も寝るに軽い浴衣に変わられ、私服は奪い去られたままだ。無碍にはらえず、彼らが押せ押せと寝室に案内されて、ベッドで寝かされていた。
確か、拒絶の意は受け入れないらしい。それが主人たるヨウの意向か、それとも所望か。意識がある直前までは、ベッドの周りにタクモクが佇んでいた。そこまではまだ、覚えている。
見渡せば、床に。さほど数も変わらないまま、軍勢がそこで眠りきっている。触媒にされたものが小動物なら、知能も欲望の趣もそのままか。試しに一番近くに寝ていた個体、枕元で寝ていたそれの耳を触る。葉緑との同化、その耳朶はやや動物にしては硬質だが軟骨も皮膚の感触もある。やや柔らかくて、やや温かい、ドウブツらしい温度だ。
――うん
鈍痛。ひとりでに肯けば、後頭の痛みが走る。不意に摘んだ指がこわばるが、タクモクは起きずに耳を少しふるわせた。
鈍痛から、鋭く。脳を刺しながられっきとした痛みに変えていく。勢い余らせて壊さぬように指をこめかみへ遣る。痛い、それで思考が何もかも覆い尽くされる前に、爪立てて拭う。
ここは、後遺か。いつかも、誰かも分からないが、直に頚神経叢を抉られた名残がある。意識のない内に部長が復元に成功したとは聞くが、後ろの傷は恥だ。
だから、そう、無理矢理部長から逃げて表層の治療を避けた。自分が願ったから遺してくれたが、こうして軽く動かすだけで来るらしい。痛みか、死に至るかは、判らないが。
――いや
神経を引き抜かれたら、痛い。
そして人間だったなら死ぬほど痛いだろう、多分。じゃあどうして自分は生きている? と問われれば、人間じゃないから。それに尽きるだろう。死ぬほど痛いだけで終わった、今も終わりそうだ。ずっと、死ぬまで、今も。
『……うん』
人間じゃない、それなりの振る舞いをするべきだったか。
束の間の眠気に瞼が重くなるが、二度と寝るまいと床に足を付ける。夕陽、染めるフローリングは冷たさが伝う。まだひんやりとしていたが、寝間着で露わにした脚部がいやに綺麗に見えた。それもまた、夕陽の橙に染められて、幾分か血が通ったようにも見える。綺麗に、人間らしく。
――いや
違う、か。素足に付けられた疵が、自分の知る上ではほとんど失っている。
創傷は言うまでもなく、
――誰が
嗅覚。エダの血の、その香りはしない。あるのは強い薬品、薬の香り。それも極端な酸性かアルカリ性の刺激をも感じさせない、清涼。ハーブ、と似た香りが指に漂っている。指は、タクモクに触れていたものか。眠りこけて、背か腹かも定かでない一体の手を見やる。肉球はない、ただ腕と似た柔らかい突起の先がやや剥げている。擦過痕、断面は太い茎だが指で擦ると粘液を垂らす。透明色、気泡以外に目立ったものはないが、それから強い香りを放つ。
まさか、と、試しに指の腹を噛み切り、粘液に触れる。触れた傷に触れれば、粘液がひとりでに傷口を這う。縁から中心へ、光を帯びながら、傷口から液が入り込まれる。痛みはない、あるとすれば少しのむず痒さのみか。
案の定、治癒か。粘液はそれ以上の動作をしない、傷が塞がったと分かるやいなや。蠢きをなくして小さな雫に戻る。ぽとり。残されたそれがシーツへと落ちるが、滲みず球体を作る。球はそのまま、落ちる弾みにフローリングへと転がった。
案の定、治癒か。取り込まれたにも関わらず、指にも全身にも、異物感を感じない。痛みがない、むしろその違和感と慣れなさだ。
――ヨウ、か
胸が、痛む。外傷ではない、何か。苦しいものが心臓と肺に駆け上がっていく。さしてくる夕日が、そのまま串刺しにされそうで俯いた。
ヨウ。エダがこの近くにいないのなら、きっと彼だ。植物、薬学をも会得をするであろう男。三千万円で、自分を数日だけ引き取ると決めた男か。タクモクに、知能を必要としない軽い司令を下せるという点でも彼だ。
――でも
夕日が、空に。
朝は、透けた髪が日差しを食らうから嫌いだ。夜は、自分ばかりが目立つから嫌いだ。
夕日は、夕方は嫌いだ。その時間は、自分の意義を終えてしまうからだ。虚無、だからだ。同時に、何かに付き従うこと以外何もないと知ってしまうのも。
つまりは、これだ。これが代弁している。夕方まで自分は何も出来ていない。金で見合ったものを何一つしていない、何もしていないまま、惰眠を貪るだけに留まった。もしかしたら寝てすぐには、全身が回復していたかもしれない。じゃあその後は、何もなく自分はただ眠って。
更に強く、肺が締め付けられる。いたい。どう押し潰しても気を紛らわすことは叶わない。ひどく透明ないたみだけが、心臓を縛り付けて締め上げていく。眠ったベッドに、自分一人がここにいる。エダの気配もしない。あの青年を引き止めることすら、だ。ヨウは、彼の事情を知らないはずがない。エダがあえて言わないとしても、彼がどうしてここにいるのかくらい。
『本当に帰るの?』
彼は、自分に何度も言っていた。貴方は死ぬべき人間じゃないと、機関にいるべき人間じゃない。その思いを素直に口にする青年だ、どう開示するであれヨウもまたエダのことを理解している。彼は抱え込みすぎた人間だ。抱え込んで、無理だと分かっていても叶えようとする。人間だ。
自分よりも、甘んじてここに来てしまった自分とは違って。エダは、綺麗だ。綺麗だから綺麗な言葉でしか紡げない。
――しにたい
彼はそれを「意思」と言う。実際には「致死」に他ならない、自分は何も生きて死ぬしか残されていないのだ。残る価値があろうがなかろうが、その概念さえないと言ってもいい。それよりもずっと、あの世界で懸命に生きてきた少年が、でもその少年を自分は看過した、見殺しにした、止めなかった、
「――どうなさいました?」
……女性。
いや、女子の声か。まだ大人らしいは過言な、仄かに幼さを見える声。けれど少女にしては、抑揚のないもの。齧り付いた酸味の強い木の実、そう彷彿とする。
聴覚の作用に、自分が息を荒げているとに気付く。今更。ぜえぜえ情けない音を立てて、胸を当てて、まるで精神が弱った人間のように。人間のように。
整えて、声のする方へ目を遣る。窓際に、寄り掛かって自分を見遣る女が佇んでいる。丁度、位置が窓からの濃い影で見えにくいが、黒髪と、真朱の着物をまとう。腰あたりに紙袋を持つ女。女性にしては高い、背丈は弟ほど。
黒が、同化して見え辛いが髪は短く、それでいて瞳もまた黒い。胡乱、混沌といった、影とは際立つもの。漆黒、という言葉は、綺麗すぎる歪み。
――女?
純粋な疑問。鋭敏な五感が女の存在を感知出来ていない。更に、視覚的にも起き上がった今なら見える距離に彼女が突っ立っていた。よほど、自分の精神が参っていたのだろうか。
『ごめん、うるさかったかな』
「いいえ……お目覚めになられてなにより」
少女の言動からすると、寝ていた前からいたらしい。が、そもそも彼女がいつここに立っていたかも定かではない。目鼻立ちも整った長軀の彼女にも、見覚えはなかったが気さくだ。生来のものかは分からないが、上がる口角にはいやらしさを潜ませない。
「エダ様についてお話をしたくって」
異臭。
いや、疑問が先か。いや、どちらも。エダの名前と共に、鼻先から妙な臭いをかすめる。
――血
血だ。紛れもない、鉄臭さと新鮮な香りらしい酸素に触れかけのもの。舐めあげる度に、爽やかさが舌を伝ってしまいそうな鮮度。その何かを、どこか、紙袋から漂わせている。彼女が上を掴んで持つと、質量がそれなりにあるか下へ、凸が薄く出来上がる。
少女の手が、影の外へ。日差しが当てられた紙袋には水滴が。随分、水を多く含ませたらしい。濡れそぼった下部には中が半透明に
――眼
眼。眼球。赤い虹彩と緑の虹彩。
耳。耳朶。大人の耳と大人の耳。
鼻。鼻梁。誰かと、誰かの、それらがひしめき合って、血と漿液を
「つまらないものですがお菓子、食べま
■
――
――――
殴った感触は伝わったが、彼女の姿はない。ただ部屋じゅうが部屋の形跡を留めていない……違う、ここは外か。風が多方に吹いて、地面がある。
感触、手の甲の痺れ。あるが、痛みには達していない。血は、何かを殴りすぎた自分のもの。何か、何か?少女じゃなく?
――いや
何か、だ。人間ではない何か。何かだから、■■■■■■■■■を見せつけた。思い出したくもない、回想したくない。その意味をなくすまで動くべきか。
「酷いですよお」
「おまえ、名前は?」
聞き慣れない男の声……それが自分ものであると気付くには数秒を要した。弟の声と、よく似ている。外見こそ変わってしまったであれ腐っても双子、なのだろう。
然し、口は動く。何故かこの時に限って、理性的に。どこからか聞こえる何かに向けて問えば、やがて何かは含み笑いをした。不快に、どんな方向からも何かの声が重ねて聞こえてくる。不快。一定の距離を置いたまま、何かが空気中に散らばる。
「良いですねえ、名前を聞いてから殺すだなんて、人間ならではで」
前面、木の後ろから彼女が姿を見せる。聴覚、嗅覚にも未だなんの刺激もない。
踏み出して、前へ。脚力を奮い間合いを詰めたカンマ三秒に、何かは応じない。着物、掴めそうな襟を掴めど、笑みを崩さない。
「《夜殿》第四十九番目庭三都夜子、そちらは」
その肩書は、協会らしい。その何かは、協会に属している。何かは、協会は、何かの願望のために何かをやろうとしている。何かを、■■■■■■■■してまで。
――いや
どうでもいい。何かの質量が、そのまま地面に叩きつけられるかと比べれば。死体の過去だなんて、どうでもいいことに他ならない。自分が一番知っている。自分が一番、よく分かっている。
『Y』
「コードネーム、じゃなくってえ」
『……まつや、ま』
そして、いない。
その名を、自分がその名を呼ぶことを否定するものが。声は音に。空を震わせて、己の名を肯す。否と呟かず、草木も唸らずにただ自分の声のみが直に聞こえる。耳に。禁じられていると呟く雑音が絡み合わない。正常な、ノイズ走りの幼さ。それに不安がって囲う大人も、
「《松山》元百七型代替機体、松山映士」
久しぶりに聞いた松山映士の声は低い。8年ぶりの、25歳の男の声だ。喉仏の震えが、我が身にもよく伝わる。声帯が開ききっていることも、きっとその色は血が通っていることも。
「……良いお声ですこと」
そしてその声に殺意を含ませていた。
抱いていた――自分が、抱いているのだった。
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