【マツヤマエイジ/獣ゆく小道】


『――』


 雑音。

 声に出したくても出せなくて、それでも言いたい、そんなわがままな時に出るものだ。喉の開閉、その動作だけが肉から神経にまで及ぶのみ。空気にも、振動にもなりやしない。音声、音か声とも言い難いだろう。無言だが、無言にしては力は小さくとも残っている。その幽かばかりか。


 言葉一つも紡がれない。意図を察するには難いと思われるが、背に回した松山の腕が強く自分を締め付ける。肉は熱いが、苦しくはない。寝台の上が窮屈だとも。

 彼は加減を分かっている。産まれてから数十年ほど、屋根の下で暮らす日には決まってその様に寝ていた。だから慣れているのだ、狭いベッドの中で、どうやって二人潜るか。薄いシーツの下で乱れずに眠り合うか。どの箇所がくすぐられるようで弱いか、知っている。


「兄さん」


 兄弟、だからだ。彼は寝付く前には、掠れた声で呼ぶことも、後頭を撫で付ける手が優しいのも、何もかも。

 異なるは、名があるかどうかか、体格が大きく差が付いたことか。松山の精悍な体付きが、痩身によく当たる。それは、まだ熱も温もりもある。発汗していないか、石鹸の清浄な香りのみを嗅ぎ取る。心地は、悪い訳ではない。自分が力を失って、瞼を重くする毎に指先が髪を梳かれる。


 敵意なく、害意も思惑もない。実際、ここにいながら彼の隣にいるのは例外にも思える。自分が知る限りでは、眠る彼の隣でまともな格好で彼に話しかけられるのは自分か、部長だ。睡眠中にも、半径3m以内に踏み込めるのは自分含めた二人。それ以外は例え随伴者に自分か部長がいても、他人なら即座に起きる。その姿勢をデフォルトにするなら、これは、明らかに無害であるのだ。


――いや


 むしろ、好意的だ。

 いいや、おかしいことは分かっている。兄弟であって、血を分け、共に生きていた人間に感情の言語化は些か不必要か。好意でも害意でもなく、自分達は兄弟だ。加えて言うなら、こんな当たり前のことを幸せに思っていた。それを、存分に惜しみなく与えられ続けるなら、感受すべきなのだ。


「……俺が、怖いと思う?」


 彼が、自分の弟、それだけで有り続けてくれれば。

 松山映士という、死んだ男の名前を借りなければ。


『――』


 またもか。無音のまま、ただ湿った口腔が粘膜を張り付かせて、妙な音を鳴らす。束の間の水音が、静かに聞こえる。部屋には、部長はいない。首都か部下の教育の仕事があるからか、明日の本社で落ち合うらしい。それまでは、従者の自分が傍にいる任務を課せられていた。


――従者


 従者だ。従者の自分は、命令されていると言ってもいい。主人は、仕事の都合で相手に足を開いたその晩は、決まって自分を兄と呼び続ける。そうして、ただ抱き締めながら返答を待つ素振りもなく眠っていく。この時には、必ず部長はいない、ここには二人しかいない。


「兄さん、答えて」


 だが、彼は自宅に入ろうとも、自分を兄とは呼ばない。ここだけ、この時だけ、自分を捕らえながら、囁き続ける。促しには、圧はない。長年の勘だが、歳のわりにはやけに低くとも、まだ子供っぽい。純粋な疑問か。


 怖い。

 怖いと、いつから弟にその感情を抱いたか分からない。ただ、その一言のみ、だ。怖い。それ以上として言い表せない。理由を探すことすら、不必要かもしれない。知識とは、恐怖という低解像度を上げる為にある。それすらも通用しない、未だに恐怖を覚えるとしたら、もう無意味と言っても良いのだろう。無意味に、怯えるしかない。


――こわい


 だが、と、にくが否定する。この体は、自分は知っている。幼さは残っていなくても、自分以外にも鼓動があることを感ぜる。過去が、悪いか。一度だにして、弟以外から長く抱擁されたことはない。弟よりは情緒があるとは自覚している分、欠如しきった家庭に堪えたか。


『ちがう』


 だからこれは、明確に毒だ。

 安楽死。そうとも言えるだろう。正当化にも近い、普通ではないとは言い聞かせる所業。諦観の義務。

 慣習を行われる前から、彼は幼い頃から無体を働いていた。眼前で、聞いたこともない嬌声を上げては背を戦慄かせた姿さえある。その大人たちを、父と呼ばれる彼らから弟は今日明日の食い扶持を確保していた。

 だからだ、弟には負い目がある。双子にせよ、頭よりも体を買われた弟だ。いつか弟が人の名を与えられるとしたら、恨まれるは無力の自分にある。


「じゃあ、頷いて」


 だが、ではと疑問のみしか残さない。一体自分は、どうしてここで安らぎを感じているか。使い古された呼称を呼ばれて、それに応じてしまうか。それでもなお、恐怖はあるか、ここから逃げ出したいとさえ思うか。

 頷けず、ただ、胸の中に潜り込む。息は、少し深かったか苦しい。その苦しさを、彼からの恨みとした。心拍が上がる。心なしか口からの息が荒ければ、松山から身を少し離されるも、しがんだ。

 苦痛。意識を朦朧とさせていく。息苦しさだけを、自分への感情として、暴力的なものとして。肺胞まで、浸らせて、浸らせて。


「――俺は、兄さんを尊敬していますよ」


 彼の優しい声を聞かないように、何も恨んでいないとの事実を知らぬように。

 ……違うはずだ、家族とは、兄弟とは、本来その感情はないはずだ。感情の起伏が薄く、けれど唯一の肉親で一緒にいた兄の為に頑張る。それが弟で良かったはずだ。


 弟とは、弟だ。どんなに背が変わっても、逞しくなっても、格好が様になっても、可愛い弟。そこに何も違いはない、変わっていなければ、互いにそうだと知っているはずだった。


「だからは、貴方の求める人間でありたい」


 じゃあ誰だ? 今自分を抱き締めていては、弟のように甘えるこの男は。兄さんと呼ぶこの男は。


「私はね、他愛を与えられる貴方が羨ましかった」


「……何で、皆は貴方を理解しないのでしょうね」


「貴方は誰よりも頑張っていて、尽くしてくれたのに」


「どうして皆、貴方を裏切ったんでしょうね。他愛ない私を選んで、愛に満ちた貴方を捨てた」


 ……これは、現実じゃない、夢か。

 夢だ。

 不自然なまでの言動の多さ、間髪を入れない独りごちた問い掛け。会話すらも成立させない、支離滅裂としたもの。夢。それも、厄介だ。過去の記憶を反映させたものは、抗いきれずに受け止めきるしかない。本人の意思ではない、自分の記憶のみにこの世界は成り立つから、留まることはない。


――そして


 そしてだ、自分は幾度も尋ねたそれに、満足として答えられたことがない。一度たりとも。


「――そんなの、人間ですかね?」

『違う』


 違う。その答えもいつかの日に、彼は肯定を下さない。

 裂けた鞭痕残す胸中に沈み込ませて、頬にそれを擦り付けさせられた。何も言わず、何も否定せず。僅かな湿っぽさと、膿の臭気が鼻をさしても、呻吟一つ漏らされない。反抗してもそれだけ、暴力を与えることも矯正して答えを正すことを弟はしない。


――だけど


 その腕を離そうとしない。鳴り続ける心臓を、上下する肺を伝えさせながら、逃がすことはしなかった。優しい手付きが、すぐにでも叩き落として、も反抗もしない意思の柔いものに。


『その話は、やめろ』

「貴方を愚弄する男に、貴方が身を食い潰されることはないですよ」


 そこにあるのは、安らぎではないのかもしれない。

 夜。それも闇に近い、終わりがないもので、息を止めることすら構わない。そう諦めざるを得ない温もりだけを伝わせる。銀の髪を、頭蓋にて梳いて遊ぶ硬い指先。虚空に絡む低い声音とが、空いた胸心に霞を作るのだ。

 布、擦れて薄いシーツを歪ませる。メイキングしたてた奇麗なそれがくしゃつかせながら、弟は足を自分の方へ挟んだ。硬い、それも成長しては鍛えたばかりの肉だ。それを人は美として呆けさせ、足首を掴み否応なしに躙るものには蕩けを与える。挟まれる足は、それに比べようもないくらい脆くて細い。


――ぜんぶ


 腕も、胴も、声も、顔も、体も。何もかも弱く、醜い。それが弟の兄だ、それが従者だ。だが弟だけは、その自分を埋めている。

 それは、自分で口にするのも満たされない何かか。良いもしれない不満を、彼が満たしてくれていた。何故か、明快だ。いつだって彼は自分の側にいてくれた。誉褒の限りを尽くした男が。誰よりも恐ろしいのに、誰よりも自分を理解している男が。


「私は、貴方の主人でありたい」


 ぜんぶ、自分に居場所を与えられ続けていた。同じ年数を生きていたはずの弟にすべて、居場所を攫われ続けた。その埋め合わせかもしれない。とかく、弟を助けるために生きていた兄は、いつの間にか兄は生かされていた。


――そう


 形としては、そう、誰かに尽くさなければ生きられない人間の為に弟は生きていた。その人間が延々と生きるために、死なない為に。それだけは分かる、分かるだけで何一つ理解出来ない。


――俺は


 気が付かなった。産まれた時から、自分の考えの埒外に弟はいたと。それでも、今ここで気付こうにもどうしようもなく、果てしなく黒が続いて。

 否定、したいが声も出ない。ひらいたままのくちにそっと、彼から指を添えられた。歯列を弄り、犬歯に辿り着くと、指の腹で強く押しやる。歯茎を歪ませながら、軋ませてながら肉を食い込ませていく。


「裏切らない主人を貴方は望んでいた、私はそれになってしまえば、ええ」


 肉、裂けて。生温いえきが口腔を浸す。夢によくある、現実よりも過剰たる反映。いつもの慣習だ、指先程度の血を飲ませるのもここでのいつもだった。鉄の香りが、脳を焼いて、あらぬ衝動を爪立てる。


――駄目だ


 嚥下。音を立てながら腹を満たすが、飢餓だ。肢体からの熱が迫り上がる、肢体を暴れさせて裂けと脳が響く。弟の前で、弟の内臓が見たいと、指先が悴む。


――嫌だ


 心拍が上がっていく。この結果は分かっている。分かりきっているのだ、飲み込もうにも、指を吐き出そうにも、彼は背を擦る。擦りながら蠱惑としてうなじに噛み付いたりも、傷をつけた胸元を押し付ける。喰らえと、毎晩彼は自分に命じ続ける。

 分かっている。それはみな彼の捧げるものに裏はない。彼は自分を愛している、自分は愛されている。


「――だから、俺の名前を呼んでください」


 だから、恐ろしいのだ。

 人として、恐ろしいのだ。

 彼は松山映士を何よりも、誰よりも分かっていながら殺した。そうして自分を生かした、居場所を与えた。

――その施しすら、ただ一人の兄のためではなく、ただ自分のための他愛ない戯れの一つではないだろうと。一介の道具であると、そう感じて恐れてしまうことを、何より自分は恐れていた。

 所詮それもまた、弟という人間の役割を演じるための装置ではないかと、思いそうで。


「映士と、それがお前の主人だと」


 耐え切れず、指の肉を食む。聞き慣れた、千切れるおとを部屋中に響かせた。

 残るが、吐息まがいの笑い声だけだった。


 

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