【ワン/夜余威ノ宵】1
【前置き】
ご無沙汰しております……皆様いかがお過ごしでしょうか……私は窓ガラスが割れたり過労しました……季節の変わり目で体調を崩されること多々あるかと思われますが、ご自愛のほどお祈り申し上げます。
異変。
きららかとして儚い星辰にひずみを感ぜた。その群青の淡さ、なみだとも言える眦ばかりのつぶらが、曲線、弧を描いては夜天を掻く。流れ星、ともいいがたい夜の這い。微風と青葉がたわぶる
俗、というものは、自然物ではない正確な弧の描画だからだろう。人為、人類が介入するべきではない類への侵攻。それに関連するかは定かではないが、結界を作った異世界人は皆、天井たる空にふれることは出来ない。彼らは天文学に疎く、また市民は神話の類のようなものを未だ持ち得ては信仰をする。
結界とは人為と云う檻だが、それに左右されない不変の一つは空と言えよう。だから、か。流れ星という類をお遊びに使うとはいえ、こんな風に、正確に、歪に使われることはない。試しに腕を高く天に伸ばせば、風とも言えぬ違和の波が伝う。
環境が、変わり始めている。
「同化か」
いらへは、待たない。
ある程度、自分は理解力と推察力に関しては天賦の物として賜る。だから、桜子が口閉ざすであろうジャンヌの記憶には察しがつく。先程までは些細な平和で、そして些少な陰惨と、その塊である彼女がこの世界で生きている。察しかねる、と言うこともあるまい。
同化、とは言葉通りだ。生命機能をすべて停止させた上で、他者の肉体を乗っ取る。なるほど、耽美だ。まるで初恋も知らない子供が憧れそうなくらい、甘やかなまほろばだ。愛情表現にしろ、後先ない計画と生命の放棄を選ぶ時点で、正気を失っている。
北条子金はイブ・リストハーンの執念は暴食に利用されて、理性を失った。それ故に、化物になった彼女でも殺す選択肢はない。初めから、それすらもなかったことにしたいのだろう。
「逃げるなら、今の内だけど」
ジャンヌを利用する北条家も、ジャンヌが焦れた弟とやらも、今のジャンヌも。加えて――もしも彼に理性という自己が残されているなら――自分自身か。
元より、今の彼に理性は期待していない。精神異常者は自らを異常とは思わない、彼はそれが外部の脳のダメージ故だ。だから非はない、とは死んでも言いたくないのだが、機械的には止まらない。
――だから
イブの目論見は、北条一果のものとは相反する。一果にでも知られてしまえば間違いなく頓挫するものだが……否と、思考を留めた。もう、彼もその配下にある可能性すらある。そうなると、何故桜子の前に現れたのかの説明は、愛の力だのというつまらないものか。まったく、それらしい。屠殺者らしい。言語化をするにも、億劫なほどに夢を見すぎている。
「やーだ、お嬢ちゃんは僕に倒されるのが怖いのかな?」
「いやらしい」
抽象的に、いま自分の役目はその夢を覚ますことにあるのだろう。今そっぽを向く年端のいかない少女は人間ではないと、一果の愛は血にまみれていると。
……まあ、それはいい。エスの人遣いが荒いことは初めてじゃない。感傷を抱くほどに甘くはなければ、今念頭には最適戦略のみ備えている。最適戦略、その一つに組まれいる桜子を一瞥する。
「だから悪いね、機関がぜーんぶ手柄奪っちゃうね」
金、夜にもよく見える程に瞬く睫毛は長い。透徹、透き通って、毛艶は星の光と違う。何か、言いたそうにくちを開く。そうしてだんまりと結んで、ひらいてを繰り返した。
――きっと
ヒラサカユウではない、ワンに対して、彼女は否定するだろう。「自分がやる」、反抗心と言うよりは、庭三の責任の遂行だ。わざわざ自分が言うことで、腹を立てるような人柄じゃない。
「……駄目ですよ、私達の、協会の取り分もあるじゃないですか」
だから、彼女は嘘が付けない。彼女は言われもない誹りを、同属の人間から浴びられている。「私達の協会」は、ないようなものに近い。彼女が誹謗を許す善人としても……善人だから、義務としての殺人を任せられない。善人だから、子供すらも殺せずに手が震えたままやると言い出すのだ。
そこで自分が大丈夫と言うなら、きっと彼女は言い返すのだろう。庭三の責務が妥当か、次点で自分が不具の従者であることも言及されるか。
桜子は、真実は知らずとはいえこういった状況は覚悟はしている。ずっと前から、神様でもない何者かを殺す。いわば浄化する為に庭三の頭になることを誓った。
「知らないよ、だって君足手まといじゃん、せいぜい時間稼ぎってだけでさ」
その人間が、この後に及んで出来ないのだ。当たり前だが、そう言われても止むまい。機関の立場からしたら、彼女はいらない立場と存在であって、立ち退かせた方が吉だ。
――だから……
機関ではなく、別の立場として彼女に会っていたなら。変えられないのだから思惟を停めたが、義手が不意に彼女の頬を触っていた。涙痕を拭っている。義手だから、曖昧な温度を確かな彼女のものかはわからない。もしも、こんな手じゃない「何者」かであったなら、その温かさを知るだろうか。
「……帰ってよ」
久しぶりに、ぐらついた声だ。初めて慰みに褥を重ねた時よりもずっと、情けない声をしている。
ゆっくりと、緩慢に、言いたいことを言っているはずなのに、たどたどしく危うい。その自分を前にして、桜子は首を横に振る。強く。強がりもないが、腕を掴む手は惜しみをまとう。いや、駄々とした、幼さか。
それでも桜子の背後に虚空を裂く。綺麗な裂け目だ、底の見えない奈落に突き落としてやれば、ここで別れられる。次に彼女が会うのはエスだが、手荒な真似はしないだろう。
「邪魔、ですか?」
「そうだよ」
「……じゃあ、このままいて、強くなって」
「駄目だ」
嗚呼と、心底に感嘆をこぼす。自分は求められているらしい、それも可愛らしく、行かないでなどと我儘にねだられている。
きゅうと、袖が擦れる。それはか細い。火蜥蜴の気紛れな咆哮ひとつで綻ぶに容易いその音。微音を、しかと耳に染み込ませた。具体とした可愛らしさよりも、それがずっと彼女であるが所以か。
「絶対に、駄目だ」
不思議と、その必死さは場違いだと不快にはならなかった。掴む力は確かにあるが、弱い。そのまま振り払って叩き落すには適している細指。最早ただ手を添えている。ただの甘えだけが自分の手元に這う。
――どうしようね
それなのに、自分はその手を払えない。
冷たく、まるで大人のように叱責をも。自分も大概かも知れない。黒い義手から淡く伝うだけの感触がもどかしい。いる、ここに。彼女は自分の手をつないでここにいる。
彼女は大人の自分に子供として乞うている。行かないでと、自分も協力するから、頷いてほしいと。それだけだ、駄目の二文字さえ言ってしまえば、すぐに諦めてくれるものを抱いている。彼女は聞き分けはいい、今日はとびきり聞き分けが悪くても、最悪小突いてやれば理解する。
そして、戻ってくれる。庭三の主人と従者、などではなくて機関と協会の一員同士として。協力者であり、好敵手であり……いつかは敵として。表面上は、そうなるのだ。彼女は神を殺すことに加わったと、この先協会が知ることになる。こんな馬鹿げた諍いがあっただなんて、知る由もない。自分がどうしようが、彼女の意思関係なく、彼女は神を殺す人間として知られる。そうしていつか、彼女もそうする時がくる。
――嫌だ
だなんて、それは我儘か。過度な理想と夢を押し付けるのは、最早枷と言ってもいい。それを押し付けたあの男は、どうにもこうにも子にロクでもない影響しか与えなかった。押し付けるのは、決して願いじゃなくてエゴだ。
「だって……君が汚れるでしょ?」
だとすると、この時の最善が自分のエゴを露呈することだろうか。そして、善意に弱い彼女につけ込んで、そう優しく言うべきか。
分からない、分からないまま、力なくした彼女の腕を払って、そのまま裂け目に突き落とした。
■
異変は、続いている。長閑な田舎はそのままだが聴覚としては昆虫の類の音がなくなった。いや、あるにはあるが、軋んでいる。りぃん、ではなく、ぎいんと。それも干渉の影響らしい。
「どんなところが好きなの?」
「誰の?」
「サクラコの」
なるほど、腐って死のうが乙女には分かるらしい。
どんなところ、と言ってしまえば少し迷い倦ねる。顔も、声も、性格も……十把一絡げすべて好ましいと言うなら、ジャンヌはきっと軽薄だと応えるか。
ならば言える範囲まで列挙すべきか、いや、それも見苦しい。そもそも言える範囲と答えざるものを区別しても、彼女には上げるべきものが多すぎる。
いや、好ましいと感じて、なお言語出来ない法悦とは当たり前の話か。花を愛でる理由を人は知らないように、そういったものには深い理解は野暮だろう。野暮に、邪に理解しようなどと働くのはいつだって人間なだけだ。彼女を示す花言葉はどこにもない。気紛れな花に言葉を紡ぐのは人のみ。
「全てにおいて可愛いところ、君もとても可愛いけど」
多彩であれだ。彼女は自分にとって希望でも慕情でも――背徳でもある。慈しんで撫でる手も、ゆっくり共に歩く足は無い。自分はとうに変化という人を、手足をどこかで失ってしまったからだ。しかしそれを言うには、自分の唇はあまりにも乾いている。
だから、無闇に言って枯らすまい。あくまで軽薄にだ。軽やかに可愛いからなどと陳腐に言ってしまえば、重く擡げる何かが心になる前に消えてくれる。そんな心地欲しさだった。
可愛い顔。女好き、と言うわけでもないが、ジャンヌの容姿も春を象徴としていて愛らしさはある。多少、討つ前にも目の保養として焼き付かんと、彼女の方へ向いた。
「か、ワいヰ、ネ」
遅かった、らしい。
溶解。自分の世界ならば、雪膚として愛でられる肌が、椿の頸と溶け込ませた唇が、赤黒く。倫理を棄てて、無惨に。
少女の魔法は零時よりも前に早く溶けて、そしてあまりにも実らない。ドレスさえも着させられない彼女は、白の代わりに赤黒を滴らせる。頭上から、いや、桃色の髪も分からない、輪郭も、何も。
「縺薙l縺ァ繧ゑシ」
蜷局。顔面に渦巻いて外覚器官を飲み込みながら、赤と中央に渦巻く。躰、殻、空に。肢体は下部へと一体しては、どろついた雫が衣服から下まで変幻。落ちていく。流れて、数秒経って異常が鼻腔を犯す。甘い、少女の嬌声と似た桃香。周囲の景色も、忽ち彼女の色と同じくする。長閑な春過ぎて、遠く、生とは程遠い死色の血。その塊もまた、愛らしい背丈から地に還ろうとする。
溶け行く彼女からそっと、指を絡めとる。もう、体を保つことも危うい。
早く掌は、捕らえる前にも早く崩れていく。ぽろぽろ、ほろほろ。そうして指だけが残った。腐敗から逃れている。白い、少女には美しい肌をしていた。
「ああ、とてもだ。今もね」
自分はそれにゆっくり口づけて、彼女の体を抱きしめた。熱すらも感じない、どろどろと服は汚れを付くが厭わない。腐臭が、甘さに馴染むまで、深く、腕の中にしまう。女の指を、敬意として口づけながら。少女が夢見たように、優しい声色で抱き締めながら。
亀裂。
一人の童話が、多勢の現実に帰る音がした。
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