【King & ∀shley】
拒絶。イブ・リストハーンは掌の違和感を覚えて、不意に片手を振るった。痛痒感、強いわけでもないが、しかと残るその不快感に眉を顰める。
結界の接触を絶たれた。
苛立たし気に、空を仰ぎ見る。青い空、穹窿と、黒々とする山が粗く空の輪郭を削っている。その青の中に、かつての想い人の色素を浮かばせて、しかし直ぐに止んだ。華やかではないからだ。空には咲き誇るべき薄紅も、生い茂るべき翠を持ち合わせない。空いて、ひとたび男の声が耳に届いたので物置へと戻った。錆びた引き戸が喧しく鳴るなり、それを大きく覆う声ばかりが耳朶をなぞる。低い男の声が、婀娜に為り響いていた。
「おかえり」
北条銀は少しばかりの音に気付いた。僅かな光を頼りに、イブの方へとだらしのない笑みを浮かべる。
銀はまだ、人語を話す理性は残されている。それでも舌が縺れないだけ、まだそうであると錯覚出来る程度か。分娩時にはやけに甲高いこえを一頻り漏らしては落とした身だが、まだ掠れはない。低い、バリトンの手前のそれは呑まれなければ獰猛な獣のそれ。本来は女の肌を裂く牙を鳴らすはずのものだろう。今は慣れか、幾重の夜と幾度の熱を上げた者故だ。
護身用に忍ばせた小太刀を銀は頬ずる。さながら女のように、と言っても過言ではない。彼にとって、この凶器は最早別の意味に摩り替わっている。小太刀で、じぶんをきずつけるどうぐ、等と知る由もない。試しに小太刀を掴んで離して見れば、物惜しそうにあゥ、とだけ呟いた。
頬をいたずらに触ると、その火照りがよく分かる。たかがそれだけの刺激にも、銀は躰を震わせるが、触れられた手を擦り付ける。健気に、ほんの数秒に離れただけでも銀は堪らない寂しさをも産んだか。寂しい、という言葉を口走るには能わない程脳味噌は熟れているにせよ、その気を見せる。
這われる指を口に遣ろうと顔を動かす。その仕草の妙な愛おしさから、イブは指を口腔に滑られた。生暖かい。十分に湿らせたくちから舌が、指を捕らえて離さない。指の腹、関節を外して爪先の嬲りは、物足りなさに疼かせる。
下腹に群がる子らはまだ成長期か、時折銀は体を震わせて、呻吟を零す。銀の手は、もう拘束をしていない。力は多少あるのだから払ってしまえば良いものだが、好きにさせている。ひとたび、半身が蠢くと体を戦慄かせる。それでも指が引き抜かれる意志を感じれば、拒んで今だ食いつこうとした。
「ちゃんと良い子にしたか?」
うんと、銀がいらへる。
手は、銀の慰みと結界とで両塞がっている。代わりに、背後から子らを呼び出して、褒美に頭を撫でて遣る。目はまだ隠した侭だ。多少の情けから外してはいなかったが、紅潮する頬からある程度の危惧は最早取り払われた。
撫でられた手は、おおよそ手とは言い難い。イブが行為中にも生やしたものの一つ。かつて銀を穿っては抉った物の一回り小さなもの。青臭さを絡ませたそれを乱髪に擦り付ければ、彼は笑む。嗅覚の刺激は、嫌悪には遠く、恋しさに近い。その重さも硬さも、彼は受け入れる。垂れる液は頬と顎にまでかけて汚すが、彼は笑んだまま受け入れる。
「いちかのこども、たくさんうんだ」
もう、彼は壊れてしまってる。ついぞ手慰みに耳を弄ったか、手遊びに握り拳ほどの物を捩じ込んだからかは定かではない。ただ、字通り壊れているのだ。本来持つべき人の思考なぞ、あまりにも重すぎて潰れてしまう、そのような肉塊。
今目の前にいる男、イブ・リストハーンを北条銀は北条一果だと思って止まない。加えて、腰下を離さないイブの蟲、頬を舐る草も一果、挙げ句卵すら一果だ。自分を善がらせるもの皆、銀は一果であると見ている。
イブはその様を笑んだ。嘲笑、多少の憐憫を込めるが銀には視えない。そうして、また一人で掻き回されては声を上げた。
壊れるだの死ぬだの艶に舌を回していたが、出来上がった時には嬌声そのものだ。ねだって、欲を愛と注ぎ込まれるようにと大きく足を開く。最早こちらが蔦を使うまでもなく、自ら体を揺らしては我儘ばかり言う始末だった。
もっとも、本人が欲か愛かと分かっているのかも定かではない。北条一果との交いを経たばかりの彼は僅かながらに理性は保ってはイブを拒んだ。一果の苛烈たる責めが、彼を従属したにせよ精神の綻びには至らなかった。
だからイブはその反対を行った。
今の銀が悦ぶように、褒美を与えに与えた。
「いちか?」
その陥落はあまりにも早い。六時間程の拷問と比べ三時間程の数度の生殖は彼の飢餓を早めて、欲するようになった。心から。頬から離れる指を惜しんで、彼は匍匐をするが、みっともなく頭を打つ。それでも触れる指を探って、頬へと辿った。
哀れな男とイブは見えるが、欲望の権化を一緒くたに銀に打ち付けた結果でもある。その端緒はジャンヌ、被験を図体も色素も似つかわしくない男であっても満ち足りていた。
「そろそろ遠くに行こう、立てないだろう?」
「たてる、まって」
慌ただしげに、下肢に力を入れて立とうとする。が、直ぐによろけて後方の甲虫が銀を支えた。彼の身長ほど成長させたそれに抱きすくめられて、また一果と錯誤した銀は礼を言う。ひとたび、節足を下腹に押しやると恥じらいながら身を揺らした。
物足りなさとイブは見たが、構わず彼の手を引いて森に出る。その片手に、念入りに小太刀を手にした。
数歩ほどで、彼は慣れて自ら歩めたので甲虫は直ぐに離したが、依然として千鳥足だ。目隠しした銀を連れ出すのは危ういと、蔦を這わせて支える。宙に浮かそうとしたが、側にいちかがいないと嫌とせがんでやまない。それが優しいいちかのやることと、仕方なくイブは前にいる形で銀の手を取った。
ゆっくりと、緩慢に歩を進めるが、それでも根に躓くか。時々裾を強く掴む。
「いちか、どこいくの?」
「素敵な人に会わせてやる……ジャンヌって名前の子だ」
じゃんぬ?と、銀は聞き返したのでイブはゆっくりと頷く。ひらがなと彷彿させる程に幼い口振りは、あの頃のジャンヌと似てイブの下腹を熱くさせる。事実、そのような壊れ方をイブは好んでいた。
「……手紙くれた時、それは弟の友達として気になったからって寄越してくれたが……会いたいと思った」
イブは、暴食国を出る前から時間は止まっている。彼の実弟であるエダ・リストハーンとは、ジャンヌに対してのそれなりの妬心はあった。が、国との取引に置いて彼女を力づくに奪還することに成功した。
「あえないの?」
「会える方法はあるさ」
代償は、イデアの従僕となること。彼が同意したかは定かではないが、否でも是でも、掌中にあると言える。その原動は心中に埋められた核だが、エスが真新しい物と挿げ替えたことで証明された。限りある不死性は、神体に対する保険としての付属だが、結果は変わらない。
彼はリストハーン村の再来までに、既に暴食から核は埋められイデアに汚染された。刻は二日目の昼、その前日にも、ワンは神体の破壊に
意思を取り戻したジャンヌは、結界は、彼を拒んだ。
「ああ、あるとも、お前がいれば」
しかしイブは、それを何ら認識できていない。ジャンヌを破壊する過程そのものを理解出来ないところにある。イデアの汚染、ジャンヌへの欲望を繋げていることに起因する。
暴食への反目を起こしたにも関わらず、国への意思を持たない。しかして、人体実験の末路に成り果てたジャンヌの元凶たる国への憎悪もない。
ただ一つ、「人でも食ったらジャンヌは元通りになるだろう」と。あてもない妄想を、ユメとの邂逅で抱いた混濁を抱いて。
「やだ」
それ故、銀の怯えを十分に理解しない。いや、イブは自分が拒まれていることを理解している。本能的な恐れとして、距離を置こうとする銀の腕を掴む。力。力強く、離す気はないと銀に伝う。
「だれ、いちかじゃない?……だれ?」
「可哀想に、今更正気に戻るか」
焦る銀の背後で甲虫を縛り、後ろに液を流す。本能を催すもの、弛緩をするとそれがジャンヌの毒になりやしないかと避けた。
「はなして」
「大丈夫、ジャンヌは優しいから」
甲虫から注がれた液か、口端から垂らした唾液をイブは啜る。無味だが、ジャンヌに食われるのならばジャンヌの一部をなのだから。どこか仄かに甘い。
「……にしても一果は薄情だな、散々好きだったお前を置いて行くだなんて」
唯一の障害であろう一果は神体の破壊にかまけて、銀を置いて消えた。結界の中にいるのであれば話は早く、そのまま彼女の私腹となれば文句はない。
「いちかは……そんなことしない」
銀を、イブは哀れむ他なかった。数少ない言語を持って、銀はいちかの名を呼び続ける。愛などない化物の名前を。
憐れ、イブは甲虫を退かせて銀を深く接吻を施す。じゅぷじゅぷと下品に鳴らす舌を受け入れて、後ろ手に回ったイブの腕の中に留まる。いちかと、呼び続ける舌を啄んでは、弱い顎上を擦らせて震わせて。
「どうしてだろうなあ」
「――愛しているからだろう」
瞬。
「私には理解出来ないが、納得はしている。妥当の帰結」
何が起こったか、イブにはまだ理解出来ない。ただ、端緒の解は空が見えるだけだった。それより他、空が見える他に、背丈より高い位置に空が見える。
「アレに比べて、君は易い」
そしてイブは気付く、腕は、体は地の上に。首は、切り離されたと解した。意識の断絶、これよりイブの意識は分裂体によって分散される。それは宗教的概念では「阿頼耶識」か「イデア」か「アートマン」かは定かではないが、知性はないだろう。既に母体を失った子機は、己が己の維持の為に暴走を始める。
推測しうるは、当該の人物、エダ・リストハーンは理性ある内に残された妄執性による行動。具体的にはジャンヌへの自動的帰属……それも対話は望めまい。本来の肉体は「神体を保護する」という、こちらの契約に反した意思を見せた。ならば、それに付随する残滓には期待は出来ない。
これ以上は思惟の余暇でしかない。ならば以上を以て、「イブ・リストハーン」への投影的観測を終了する。
■
引き続き、「北条銀」の擬態を続行するが【提携者】である庭三一派及びワンに対しては解除。当該に対して通常通り「松山映士」としての行動は無リスクと判断する。【対象者】たるリストハーン、異世界側の存在には継続。
午後5時半、瀬谷鶴亀はエダ・リストハーンの子機への対峙。これにより本来問題視された麻薬の一斉消却への兆候。ワンは継続してジャンヌの解体、イブ・リストハーンの子機による猛攻が予測される。Yも想定通りヨウ・イルディアドの残留に入る。
笠井蓮――エダ・リストハーンの強襲、精神の不均衡からなる情緒不安から、当該は間違いなく参戦する。
名残惜しさは鞭の痛みのみ。
結論、支障はない。これより「北条銀」としての代替及び、「松山映士」としての北条家の局部解体に移る。
■
小太刀。
それは一口に言うには種々雑多とあるが、嗅覚と感触から新品と言っていいか。柄の摩耗も少なく、まだ誰の手にも馴染まない。その分切れ味は申し分ないが、一度首を切断した以上再度の手入れが殊更面倒だ。視えてはいないが、見えている銀にとっては多少の誤差でしかないのだが。
籠もる体内の熱は、既に下部を侵すが、支障はない。この疼き、催淫は既視感を覚え始め攻略を会得する。まだ中を暴かれても、ガワは丁重に無傷である分動きやすい。
イブの首が地に、湿ったく落とされる時に銀の影が伸びる。濃い、夕闇が昼恋う影よりも濃密な闇。それはイブの一部を飲み込んで、一人代わりに地上へと這って出る。
男か女か、判然としない中性の容姿のもの。その少女は金色の長い髪をもち、あるいはその少年は青い瞳を眼窩へと嵌めて出る。影よりも相反に真っ白なブラウスを身にまとう。恐らく、いつもはその姿だ。それらが細っこい矮躯と共に現れると、直ぐ様銀の手の甲へと口付けた。
「えーじ、しょーどく」
「時間がない」
いや――まだシュミレーションは、仕事は終わっていないというのに。まあいい――イドは一部始終を見てきた身か紅く染まった頬は照れでなく怒りとして。その手を軽く払ってあしらうと、また一段と瞳を細めて唸っては睨めつけた。
「じゃあだっこ」
「お前37だろ」
「イドはエスじゃないもん」
息衝いて、仕方なくイドを片腕に抱き上げる。10キロほどか、容赦されて軽量なそれを肩にまで運ぶと、嬉げにまた口付けた。今度は頬に、エスの分裂体ということだけある。迂遠な言葉遊びを選ぶ癖をして、人肌に触れることを好む。それをイドに言うとまた不機嫌になる。だから口を閉ざして、彼が触りたくることに飽くまで待つ。
幼体という姿か、性的干渉には知識のない振りをする。だとしたら抵抗するよりかは為すがままに放った。
「誰かに愛されたいと同時に愛したい」それがイドの領分であって、存在意義と解釈する。事実それに沿って応えれば、彼は喜んでキスに応じる。ただ相違は創造主のエスとは違って、こちらからするといやに恥ずかしがることか。
頬、口端、種々に口付けて、障壁たる目隠しをイドは外した。予想通りの、鬱蒼と茂る山奥、それを背景にイドの瞳が目に入る。青、その青は、美しいではなく愛らしい、なにかか。エスの本性の凝縮がイドと自嘲しただけある。
ならば、イドの色は青空。人がかつて愛した太陽の側にいる、恵みの爽涼。陽も空も、イドを表すのに相応しいのだろう。イドは、分裂体と同時に、あの男の願望の化身なのだから。
――嗚呼
ならば、自分の色は、この赤目は――さしずめ夜なのだろう。誰もが暗闇に紛れる中、人である証と分かる血色。
「松山映士」は名前の一つと同時に、真実そのものとしてあるのだから。
「うあっ」
「どうした」
「……エスが言うの、早く終われって」
思わず笑みを零す。今頃、本体は一服をしているだろう。炎の色は時折赤と青だ、だから奴は独りになると吸うきらいがある。そうして帰って来るまでには一箱二箱空にして……空気が毒に充満する。その中で味わう息苦しさたるや、その法悦は筆舌に尽くし難い。苦しみが、肺と血を侵して、どんな客よりも死ぬほどに気分がいい。
昂りかけた身体を抑えようと、イドの唇を重ね合わせる。柔らかくて弾力がある、ただ一つシガレットの香りがしないと、思いが馳せられる。フラッシュバック。束の間だが、記憶に残ってしまう程にはしつこく残っている。
口を離すと、細く荒い息遣いが聞こえる。酸素が、イドに不足しているらしい。魔力の塊とも相違ない、心臓を必要としないそれがだ。手の甲をイドの胸部にやると、確かに鼓動を早めている。
「じゃあ、覚えて」
「うん」
イドと額を合わせる。昔不始末をした際に、兄はかつて自分にこのようなことをしていた。そこから吐かれた言葉は、何故か自分の受容を早める。
「後で食わせてやる、お前ただ一つの心臓になって、握り潰せるなら」
「うん」
「もしくは……拗ねるな、お前のいない世界に、生きる意味などない」
頷きの代わりにイドは唇を重ねる。よくする所作だ。不全者である身にはそれは何の意味を持たない。増強も、減弱もみな、脳が機能として受け入れを拒む。
それでもイドは、エスは好んでいる。モノを破壊する者所以だ。何も捨てられずに諦めきれずに、抱き潰してしまう彼は自分を欲している。すべてを捨てることを厭わない、壊れない自分を。そんな物もどきに与えて、始めてエスはにんげんになれるのだと言った。
哲学めいていて好かないが、つまりは抱くだけで満足出来るらしい、あれが。よりによってこんな、スキンシップに価値を見出さない人間に。
それがどうにも、耐え難い程愚かだが……保留しよう。これ以上の思考はパフォーマンスの低下と判断した。
「征くぞ」
返事はない。代わりに肩の重みはなくなり、代わりに黒靄が身体に纏う。形成して、正装として整然な、背広へと。視覚効果ゆえの擬態、だろう。暑苦しくはなく風は肌を撫でたまま。それが背の鞭創に口付けると良くない疼きを生む。が、笑みは危うく零さなかった。
目隠しの白布を、長い髪に高く括り付ける。余程、イドはお気に入りらしい。闇が黒とした長髪を、まだ解除されない。
ただ夕風が、いたずらに毛先を揺らしていた。
【二日目/夕方】了
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