4

 急速に傷口が塞がったのはその後だった。急にだ。それまで動作を止めていた自己回復能力は、再開して治癒を始める。それまで小手先でなんとかしようと思っていた大きな患部は、多少傷が見えるが問題はない。血が血糊として、ほんの少し腹部を擦ると、濃く裂いた痕のみを見せる。

 怪我は治った。あれを明らかに魔法的な、呪いの外傷とすると蓮に何か起こっているはず。それはさておき、止血が完了してしまった処で次にはこの暗澹さをどうにかしたい。


 松川とは、もう手を切ってしまった。アレは体内に潜めていた核だが、潰したところでダメージはない。信頼は地に落ちても、明日生きているか定かではない人間には関係はないのだ。それに、彼は言うことを聞かない。彼が救うと言った以上、笠井蓮は救われるのだろう。恐らく、何らかの形で。理解は出来ないが。


 血の臭いが、辺りそこら中を漂う。本来納屋であるから独特な黴臭さはあった。が、加えて不快な気配が蔓延るのだから、床に這うた血を花として咲かす。何輪も、一輪も。幾重にも咲けば誇れる繚乱か。最早花畑として一面を赤に覆った頃には、凄惨は跡形もない。一輪、一つ花弁を掬いその湿を確かめる。しっとりとして、ひとの体温に馴染む。似非が擬きになる後には、他の物と何ら遜色ない。


 血濡れたシャツも、養分として脱ぎ捨て、ついでに松川の一部も雑草として生やす。残されて腹部に残した血も例外なく、花に、だが花弁として。徒花、ということだろう、美にも成らないそれを手で摘んで床に散りばめる。少し、どこか奇麗だと見誤めて、零した。

 一通り終える頃には、納屋一帯がある種のツリーハウスと化したが、見栄えは良い。タクモクが気まぐれに来る前には間に合ったが、蒸し暑さに汗が滲む。発汗。滴った一滴が、まだ残って乾いた血痕に触れる。そして混ざる、透明なままに、痕のいろを消して、汚らわしく。それをぼうっと眺めていると、いつの間にか、浴場に足を運んでいた。

 邸宅の浴場は広い。それでいて庭仕事は四十手前あれでもに堪えるか、シャワールームと浴室が充実している。その一つの檜製の木風呂は、納屋から見える竹の囲いでその香りの良さを思い返せる。


 ――この匂い


 脱衣場から漂う洗髪料と、湿気の中の新鮮なみずみずしさが高揚を誘う。床には既に数枚木の葉が落ちているが、タクモクの群れが使うことは納得出来る。ロテンブロは、村にはない。そもそも風呂を文化とする程に水が潤沢にある訳でもなかった分、贅だ。

 タクモクはイヌ科かタヌキも紛れているか、元々はその彼らの為にヨウが造ったという。配備と建設そのものは彼のポケットマネーで、運用そのものは宝石魔法で行う。現に、いつでも温かい湯に浸かれるが、莫大な費用の代わりに宝石を使われる。燃焼と乾燥のルビー、水のサファイア、腐敗防止のペリウッド等が主か。ファンタジー小説に頻出される宝石よりも使い道が俗だが、ヨウらしい。

 既に主人の気紛れか、洗面台の上にサボテンが置かれている。エキノプシス、本来大敵である湿気た室内を置かれても、腐らずに白い花を咲かす。さしずめ折角咲いたから見てほしいとのことだが、宝石を使えばこういったことは可能だ。だが、たかがその為だけに金を使い、それ以外に私欲がない。本当に、生き甲斐には湯水のように使い、懐が冷えない男だ。


 タクモクにも個体差か、無意味なのに体重計に乗る個体もあるらしい。体重計まで同一の葉が列を成して、体重計そこら中に葉が散らばる。一つ一つそれを回収してから、浴室の引き戸を開けた。


『おあっ』

「あっ」


 先客に、ヒヨが一人。

 木風呂の囲を背に寛いでいたか、他人が来ると油断していたらしい。彼らしくない、鋭敏な五感が刺激されて既に気配など分かるというのに、気付いていなかったか。一瞬、目を合わせる直前に、凛々を彩る目付きが何処か微睡んでいた。描かれるべきではない白皙も、仄かに赤く染めている。温度は、適温らしい。肌の白みを思い出す髪は、白銀のまま。あの無駄のない所作、俊敏さを称する冴えた色彩は、蒸気に隠れても鋭を褪せない。


 ――髪


 そういえば、彼は髪が長かったらしい。その銀の髪は高い位置に纏められている分、彼の骨格も分かる。案外、2mの身長にしては細い体つきだ。


「……寝ててって言ってたのに」


 はひとまず口角を上げてた。件の依頼に際し、肉体の損傷は修復していれど、ヨウの計らいで滞在している。本来の任務である異世界植物の捕獲は終わったが、今はその延長と言ってもいい。


 ――ボスは


 ヨウは、あの計画をヒヨの為に暴露した。元は内密に徹するものでもないが、秘密は秘密だ。それと三千万を引き換えに、たった数日だけ彼をここに置くことが成立した。金の使い方が豪快なのは今に限ったことではない。あの時は最もな理由をつけて、三輪を追い返した。「計画を妨害する第三者から身を守るため」とは言うが、実のところは「知りたい」だけだろう。彼をもっと。

 だから三輪と別れた直後、ヨウは彼にSPとして側には置かなかった。むしろ、休むことを強要させている。


『汗臭いのはちょっとさあ……』

「……その傷、ボスだと治せると思う」


 ほんの少し、刹那に彼は表情から笑を失いかけて、また微笑む。


『言わないよ』


 ――そう、彼は言わないのだろう。例え恩赦として留められていても、ヒヨはヨウに決して事実を告げることはない。本当の名前も、何も。あるとしても、ずっと好きだったを告げるだけ。

 ヨウを拒んでいる、とは違う。駄目だと、彼は自分から線を引いている。金持ちの享楽として金で取引されたと思っても、悲観ではないだろう。そうなら、彼は食入って要求を呑みやしなかった。

 ここに残るよと、彼はあの上司に言った。あれが彼の意思だ。彼はヨウと離れたくない、その意思は強い。


『だって僕のことだし』


 いや、だからだろう。

 離れたくないから言いたくない、それは自分も同じことをし続けている。軽蔑されたくない、最低だと言われそうで『怖い』からだ。だったら自分だけで背負った方がいい、そのまま全うしてしまえば悔いはない。

 ただそれでも、駄目なのだ。一人で死ぬことに耐えられないか、寂しさを感じる時に、いつの間にかだ。いつの間にか、人を探している。


 ――俺も


 浴場の他に、シャワールームが納屋の近くに併設されていた。それをわざわざ浴場に選んだのはエダ・リストハーンの悪癖だろう。

 エダは、臆病者なのだ。一人というものがたまらなく苦手で、泣いてばかりで、暗いところも好きじゃない。一人なのは、兄がいないから、兄がいないのは自分より良くできたから。だから遠くに行った兄を皆誇らしげに見ていた。いつも泣いてばかりなのは自分が弱いから、兄みたいに上手く行かないから。暗いところが嫌いなのは、火がとても良く見えるから。灯した足元はすべて助けられなかったものの塊ばかりだから。

 探し回って、どこにもジャンヌがいないって分かってしまったから。


『エダ、おいで』


 顔色を、また変えてしまったかもしれない。水面から出した彼の手は自分に伸ばす。傷だらけで、硬い肉に覆われていた腕なのに、指先にかけてひどく優しく見える。

 そういえば、だ。彼の事実には触れてしまったにせよ、そういう人間であることも知っている。こんなことになる前までは、兄として振る舞っていたと。


「……それ、ボスにやんないでね」

『やらないよ、エダは僕の弟みたいなものだから特別』


 弟……そう扱われていたのは、最後にいつだっただろうか。そこに思い出しても、最後には血色の火しか見えない。忘れられないのだ、彼がいても。


「洗ってからね」


 だから逆に、こう思わなければならないのだ。ヒヨも脳裏で延々と忘れることはないと。

 自分はそれを気慰めに忘れさせる存在ではないと。彼の瞳だけは、まだ残酷に赤いのだから。


 ■


「……人を、殺したことがあるんだ……ずっと前から……今も」


 約束通り、ヒヨの腕の中に自分はいた。頭髪を洗って、全身をくまなく洗い流しても、彼に言えることはそれのみだった。それしか、思いつかない。字通りそれのみに生きてしまった。だけどそれが、ヒヨに対しての足りうる誠意とも言える。それ以外、弟として振る舞うのは、虚無そのものかもしれないから。


 抱きしめられているにしては、似つかわしくない呟きだ。だが、軽く曲げて受け入れる蒸気が、どこか心地が良い。いや、心地良いのは案外柔らかい感触だからだろう。確か、自分の背丈は170あるから、ヒヨとは30ほど違うか。躯体が、巨躰にじゅうぶん収まっている。

 心地が、良いのだ。何故か許されている感覚に包まれていて、今までを口からしどけなく零してしまう。自分に優秀な兄がいたこと。初恋の少女がいたこと。彼女が兄に好きになる前に、自分が必死になっていたこと。


 ――あと


 ジャンヌがどこにもいなくなったこと。村が燃えたこと、死にかけていた村人を自分は一人一人殺めたこと。ジャンヌを探し回って、辿って……もう諦めてしまったこと。

 自分にはもう、償いきれない罪を背負いすぎたこと。すべて、ぜんぶ、なんにも、ジャンヌを幸せに出来なかったこと。


 一度呟くと、沈んでいたはずのエダが限りなく吐露をした。甘やかな話のみに止めようにも、深く深く話は掘られていく。


『責め続けることはないよ。君にはボスがいる、まだ生きているしさ』


 それでも、彼は叱らない。小さく頷く度影が揺れるだけで、叱責も咎めもない。ただ水面と似た曖昧さが、やさしく。

 火照った彼の胸板が、熱いのに嫌じゃなくて凭れ掛かる。なんてことはない、彼は幼少期双子の弟にもこのような施しをしたらしい。浴槽に浸かりながら、天体を愉しみ、月の満ち欠けに日々の移ろいを語り合う。

 それが彼にとっては当たり前だった、らしい。今は、仰ぎ見れば昼の青空だ。それでも彼は退屈でもなさそうに、自分を握りしめる。きつくない、かつて手を握ってくれた時と同じやわさ。歪と感ぜるのは、素肌から縫っては裂くを繰り返した痕跡だけ。


「……教えてくれないか」

『なに?』


 弟の話をする彼は、幸せそうだったと言ってもいい。二度とそうならなくなっても、掛け替えのないものだと言わんばかりに。


「どうすれば貴方は生きてくれるんだ?」


 そう、掛け替えのない。代わりすら、彼は用意されないまま過ごしている。抱えながら、生かされている。微かな鼓動が、胸板越しから伝わる。生きているのか、生かされているのか。それは、時によって刻まれているよりも、彼のものだから生きているとどうやって思えるか。


 不意に、彼が自分の項に顔を埋めた。唐突だったが、それでも逃れずに受け入れる。かたい、鼻の骨が首筋に、髪があちらこちらを撫ぜてこそばゆいが、堪えられる。


『……ここで、生きてるんだって思うよ』


 かりと、首筋に何かが触れる。それが歯だと、察しがつくのはヒヨが呟いて10秒程後だ。吸血行為。そういえばヒヨの種族はその習性があったと思い返す。高い興奮状態に陥った際に発作的に起こる食人衝動の一番低い段階。


『ごめん……初めて、なんだ』


 声に乱れが生じる、ノイズだ。忘れていたが、彼は確か自分の脳と声帯を人為的に連動させているらしい。工学的であるが、限りなく魔法に近いもので。


「そっか」


 それでも彼は、諦めているのだ。こんなにも体を弄くり回されていても、ある一つの執念には及ばないと。


『僕さ、君の上司が好きみたいなんだよ』

「知ってる」

『声とか顔が綺麗とか、そうだけど』

「うん」

『初めて、生かされているって感じを忘れてくれたんだ』


 痛み。血が、彼によってやや穴が空いてしまったらしい。人間だ、軽い痛みと、束の間の生理現象で息を荒くするが、それでも体は離さなかった。


『君達に治療された時……死にたくないっておもった』


『分からない、どうしてこんなことを思ったか』


『君に言った通り僕は弱くて死んだんだ、僕は弱いから助けられて僕は生かされてるって』


『……そのはずなのに、思えないんだ』


『僕は生かされてるって、君に従うべきなのに。そうじゃなくて、むしろ君と生きているって、ヨウにも』


 時々舌を、唇を使いながら血を吸い取っていく様が肌で分かる。そうして、自分の血を嚥下しながら、また牙で深くした傷から吸おうとする。痛くない、訳ではない。相当に大きな傷か、弄られる度に全身が強く麻痺する。耽美に、甘くとは行かない。捕食だ、命を食らっているに等しい。


 ――だけど


 歪んでいるだろうか。

 彼が自分が生きていると教えているように、血を吸っている。もしくは彼が生を欲しくて、血を吸っている。そのどちらかではないかと、自分は自惚れて、許して首を彼に預けた。


『ごめん、なさい』

「謝んないでよ」


 理性は、まだある。彼をこうさせたのは自分であると。こんなこと言わなければ、またいつも通り恙無く躱されただろう。


「……俺は人は殺したくないんだ、見殺しも。ヒヨは弱くないよ、俺よりずっと強い」

『優しいね』

「そう? 機関は嫌いだって言っても、ヒヨはそれを受け入れてくれたしさ。俺はボスだったら許さないし」

『……機関には、行かないで』


 文脈を解さないが、首から二粒ほど水滴が垂れて行くように感じた。聞かないフリをしたが、後にまた一際強く噛む。ふかく、傷口を広げていく。

 興奮状態に、少し嵌っているのだろう。性的興奮とは違う、喜怒哀楽の感情の、いずれかの暴発。もしくは


『お願いだ、忘れろとは言わないから、どうか関わらないで』


『ここはすごく良いところだから、君の願いはなくても、幸せだから』


 我儘、か。言ったそばから出来ないと理解していながらも、彼は願ってしまっているのだ。


『……道具に、ならないで』


 彼は、どこまで言っても道具だから。

 こんな人間を、何百人と見て、何百人と殺し尽くしただろう。それでも冷徹にはいられずに、ただただ彷徨い続ける。そうして、首輪を引かれた先を人生として、彼は歩き続ける。

 彼の死期は近付いている。それでいて、限界にも近いらしい。自分が生きても何一つ変わらない、薄っぺらくて軽い世界が。自分も周りの人物も、その程度だとも。


「ヒヨ」


 なら彼は、彼だけは聞いてくれるだろうか。インクの黒だけじゃない、焦げ付いた感情を。

 なあ、ヒヨ。

 聞いてくれよ、俺はジャンヌを殺せなかった。

 やっと、薬を使ってまで人を遣って辿り着いた先でだ。彼女はもう彼女じゃなくなっていた。唸り声はかつてわらべ歌を歌ってくれた高い声とはほど遠くて。あの匂いは、みずみずしい果実とほど遠くて。彼女の白い指も、桃色の髪も全部、全部なくなって、それは、現実は自分の右目を潰した。

 それでも殺せなかった、ジャンヌだから。エダだから、それでも死ねなかった。彼女はまだそこにいたから。化物でも、彼女は生きていたんだ。

 あの子は、生きていたんだ。自分のせいで、自分が一緒にいたいって思ってしまったから。


 ――いや


 いや、それは比喩だ。「自分が一緒にいたいという呪い」は、本当はそうじゃなかったのだ。遠くにいても覚えてほしかった、ただそれだけであの石を彼女の為に作った。それだけだ、他意はない。村を比較するまでもない、絢爛な都に言ってもせめて覚えてくれるように。それだけを願った、ほんの些細なもの。

 そんな、単純な少年がエダ・リストハーンだ。道具にもなるだろう、それだけの思いしかないものは、幾らでもかさ増し出来るものだ。例え本人の意に介さなくても、善人でも、悪人でも。

 閉口した、彼に言っても、もうどうにもならないのだ。それはまた彼の首を締めるだけ。


「のぼせるから、上がって良い?」


 静かに、抱き締めていた腕を緩くしてくれる。ヒヨの、他人には無理強いはしない性格が出ている。ああは言っても、彼は他人の意見を聞くのだろう。

 別れ際に手の甲に口付けをする。湿ったいが、乾いていた唇がそれに息を吹き返すため。敬意によって、体温が、人として宿るが如く。


『明日も、いてくれる?』


 水音よりもか細く、しかし耳に届いた。声を震わせたまま、彼は引き留めようとしない。聞こえていなかったら独り言でも、処理をするのだろう。追求はしない、追うための波紋も揺らがない。水面が、静かに薄ら彼をうつすだけ。

 それが、奥底の心臓を痛めつける。彼を道具として至らしめている所以だ。その優しさが、他人に干渉しない優しさが彼を道具にする。


「当たり前だって――じゃあな、映士」


 だから、それだけでも止めたい。

 だから、佐藤イブは嘘をついた。

 それは機関としての彼にとって出来る、最大の優しさだと、わざと間違えることにした。


 ■


 この後出会うだろうヨウには悟られぬように。吸血痕を脱衣所で縫合していく。許容範囲内の傷、完治に近付く毎への虚しさはあれど、心配はかけられない。


 ふと、葉擦れの音。音の下方向に向くと、ドア付近でタクモクがこちらを見ていた。治療を見ていた、訳ではなさそうだ。ただ自分に所用か、ジッと猫の目がこちらばかりを見ていた。

 その彼の頭上、ケースの中、クッションに沈み込んでいた物を見逃さなかった。それは、緑色で透明な石だ。丸みを帯びていて、細っこい石座も錆びたままだが残っている。

 石だ。あの緑の、あの翠の君に届けた。覚えている、その石を。透明で、綺麗で、右に刻んだ刻印も、精一杯自分が刻んだ物で。でも見つからなかった、どこにも。あの戦火の中で、何も見つけられなくて。


 ――どうして


 気がついた時には、タクモクの中に入っていたスマートフォンを奪い取っていた。タクモクはギョッとしたまま身を強張らせているから、特に悪意はないだろう。ただ頼まれて頭に乗せて、自分の方に向かわせた。そのお使いをこなしただけであって、頭をぐるぐる掻き回されるタクモクはたじろぐ。


『機関に行くなら、少し僕の部屋で話をしよう』


 それでも、張本人は予測通りだったのだろう。無機質な画面にはそれのみだったが、迷わずあの男のいる書斎へと向かった。



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