【エダ・リストハーン/アンノウン・マザー】1

 凄惨。それは悲惨を極めて、無に帰そうとしていた。

 何処からか、自分の計画が狂いだしてしまったか分からない。笠井蓮が欠席して、及川を笠井と間違ってしまったことか。いや、それは誤差の範囲内だ。松川が横槍を入れたことで、彼の情報に対して修正を施した。


 彼は及川薫、彼は笠井蓮とは知己にあるらしいが「関係者」には及ばない。ただ、笠井の唯一の「理解者」としてか、彼に思いを寄せている。故に、笠井蓮が不在ならば及川を狙ってやれば笠井への刺激にも成り得る。


 だから、そう、予測からは多少外れていても、それまでは比較的優位に立っていた。松川は不定形、密室を利用した戦法は守備範囲外に出ると大きく行動が制限される。

 彼は、多少の洗脳と遠隔は出来るにせよ、本体は領域を指定しなければ、動けない。松川は、自分と違って本機として分裂ができない、本人そのものが異形だ。だからこそ所定の範囲内であれば防衛は絶大であるだけ。


 だから、及川が外に出たことで手間は省ける。松川そのものの機動力は大きく劣るが、自分は人数を大量に保有出来る。あまつさえ、人間に感染してしまえば人皮の中で動かしてしまえる。とにかく数さえ集めて地に放って置けば、囲まれるか捕らえられるかだ。松川さえ離れてしまえば、人間である及川は加護もなく拿捕を容易にする。


 そして、痛みもなく感染を施した蔦を生やして笠井蓮を煽る。それもまた幸運なことに、追われていた及川の前に笠井が前を通り掛かっていた。

 作戦は、順調に見えたはずだった。少なくとも、そこまではそうだった。及川、という無力な人間を犠牲にするつもりはない。ただある程度の狂気性と覚悟を示すに、笠井への日常生活への侵犯は主要と思えたのだ。


 ヒヨの証言から、彼は明らかに及川への恋慕が大きいことを知っている。彼は及川には何も打ち明けない。その点では「関係者」として断ってはいたが、諦めず「理解者」として残した。自分には、それがわかる。

 笠井は、自分とよく似ていた。ただ暗渠を彷徨って、やっと現れた光に追いつこうと走って走って、疲弊したもの。


「蓮」


 だから、嫌でも分かってしまう。

 自分はそれでもなお、大きく見誤ってしまったと。その光を失った時どうなるかは分かっていたのに、知っていたのに。


「……蓮ってば」


 悲惨。それは凄惨を極めて、無へと還らない。

 血は、血だ、数十体分の肉は、肉だ。最早神聖も生命の意にもならない汚物としてそこら中に溜まっている。退廃、埃を被った部屋には刺激が強すぎるくらいの鮮血だ。まだ、乾いてないまま、液体らしく広げて、ただもう生産性はない。


 蓮、と呼んでもそれは波紋として応じない。灰がかったコンクリートの床に染み込ませようと、ほんの少し沈むだけ。沈んで、シミになって、死ぬことを待つのみ。

 成功と確信したその後、こうなってしまった。どうなったかは分からない、すべてを見てしまったが、何も。彼が及川と手を繋いで廃墟たるここに来たのも、階段を上がる様子も見ている。


 ――いや


 理解が追いついていない。笠井は確かにあの時、及川に子機が触れて突き飛ばす前に首を跳ね飛ばした。一般人の前で、ろくな推測も立たない数秒の判断で。

 それが脳に空幕を引き起こして、頭の中の無意識の合理だけが独り歩きで操った。この場の把握はしても理解を得ていないままだ。彼らは今廃墟にいる、子機を全滅させている、それはわかっている。そうじゃ、ないのだ。


「もう帰ろ、変な人はいないだろうからさ……傷とか」


 及川は、この状況に怯えてはいれど恐れてはいない。巻き込まれた身だが、笠井の体を案じるようだ。怯えてはいる。声には震えを宿らせているが、足は竦まずに笠井へと手を伸ばす。その指先は傷口へ、ついぞ笠井が感染した直後に切り落とした腕へと。

 傷、という範疇ではないが、及川はひどく心配している。当たり前だろう、体部の切断は肉体の血圧の急激な低下で命を落としかねない。

 ただ、それが今の出せる彼の精一杯の行動と、優しさのすべてか。及川は、蓮の理解者と相応しいほどに彼に寄り添う。


「駄目でしょ、薫を突き飛ばした奴が分からない」


 それがひどく心地が良いのか、酔い狂おしてみたいかは分からない。ただ、及川相手にすら、笠井は錯乱を引き起こしていた。それは……虚偽か、幻想だ。突き飛ばしたのは笠井、そしてそのまま子機は首を撥ねた。

 ただ、笠井はしきりに言っては認識を改めようとしない。もう彼の中では、自分は及川を突き飛ばしたことに決められている。


「何もないって、ねえ」


 這う、出る。断面から。

 せめて現実から帰るようにとせがむ及川を、水音で制する。血はない。断面から見える血管を、骨を隠すように触手がそこから生えた。さながら羊水か、粘度のある透明な液体を溜らせる。蠢動、生えた四本はどれも液で黒光りしたまま、人としての形を留めない。乾いたあとはより濃く、人らしくなく深く黒いだろう。


 ――クトゥルー?


 クトゥルー神話。ファンタジーを甘やかなものから新たにグロテスクとして認識付けた創作物の寵児。いや、それは有り得ない。冒涜的な物である象徴として語り継がれているが、フィクションの範疇に収まっている。自分達異世界人のノンフィクションとは違って、クトゥルーは神話として創作物として留める。

 だからだ。作者が異世界人で喋りたがりでない限りは、創作物上にある種族とは考えられない。ここは現実だ。この現実には不幸な姫を助ける魔女はいない、優しい森の熊もいやしない。それは行き過ぎた病的な、そういった妄想の類であって断定は出来ない。


 ――だから


 海洋的挙動に恐怖を覚えているのは、海洋そのものが未知に満ちている。そして如実に自然環境の影響を受ける災厄にもなり得るから、人はまた煽る。この昔から生まれた恐怖感への副次的なものに過ぎない。クトゥルーは存在しない、あったとしても神は認識される時点でそれは神とは言えない。


 惑わってはならないと、しがみつく。子機は視界にある範囲は視界の範囲内は破壊尽くされた以上、ストックを消費し続ける。露出して解除されていない子機の内臓から、蔦を生やす。

 そうして、せめて廃墟内での領域は確保したい。遠隔操作の致命である、各子機の魔法陣の喪失さえなければ、こちらに勝機はある。


「俺さ、ずっと薫のことが好きだったよ」


 では、これはなんだ?

 どうして彼は笑っていられる? 穏やかに笑いながら、怒りの一つも見せない? 首を撥ねた時からずっと、なぜ彼は笑みを絶やさない?


 及川に恋慕を抱いている。その読みは間違っていないはずだ、そして彼は自分に憎しみを向ける。何故愛しい人を手にかけるか、何故日常を壊すか。

 憎悪だ、自分がここまで来たように。彼もまた自らの憎しみを以て、自分と対峙する。彼も分かっているはずだ。彼は機関にいるから、周りの人間を傷付けてしまう。

 それはかつての自分も同義で、何も知らないを通してしまったからこそ喪った。


 ――それに


 同い年の彼の境遇こそ、激しさはないが孤独だ。彼がリストハーンのことを知るかはさておき、及川を求めるがゆえの暴走をする。失いたくないからだ、エダも、佐藤イブだってそうした。


「ずっと、四月の時から見ていてさ、覚えてる?」


 それに彼は応えない。応えようとしない。


「あの時から長い髪とか目に惹かれて、好きだったよ」


 それは拙いラブレターに似る。自己表現の出来ない人間が、一言好きと書き認めると、感情を溢れさせて滅烈になるもの。


「そう目、空よりも高いのに、そこにあって、好きで」


 嫌われるかもしれない、首を傾げるかもしれない。その懸念を捨てて、言いたかったことばかりが募るもの。溢れて、けど逃したら二度とないから、こぼさずにインクに留めるもの。

 予感を抱く。初めてかも知れない、彼が好きと言うのはもしかしたら今日だと。何故かこの今であることを。それほどに笠井は及川が好きだったと、嫌でも分かる。事実及川の瞳は綺麗だ、暗いものは何一つなくて、黒目も魚影の如く生き生きとする。そしていつも穏やかな生活を送っているのか、顔の肉も柔らかい。朗らかに笑うと穏やかだったと思わせる……笠井が「理解者」としたくなるのもよくわかる。


「もっと、ほしい」


 だから恋文のように、それは綺麗な言葉のようでぐちゃぐちゃしている。及川の次の言葉を聞く前に、彼の両足を絡ませる、触手で。自分の物ではない、いつの間にか繁殖しきって伸びたそれを蔓延させてはうねる。


「れ、ん」


 手を伸ばそうとしても、声を上げてもだ。むしろ動かす度に足に巻き付いて離れない。それでも及川は名前を呼んでいたのは、心配なのだろう。下部に遣った目の色は怯えを差し込ませたが、それでも彼に近付こうとする。


「なに?」


 彼はそれすらも、理解していないように思える。何も優しい及川が異変から彼を助けようとする所作も、何もだ。手を伸ばす彼が愛おしいか、その手を指先で撫でる。ゆっくりと、指の腹で掌を。

 震えそうな指に触れて、手を絡ませて繋いでいく。その彼に、今震えている理由は分かるか、いや分からない。ただ識ることはあるだろう。


「俺はここだよ、ここにいる」


 たがえど、それは初夜の恐れと。まだ指のある手は、及川よりも一回り大きく、彼の手を収める。いつの間に、背丈を変えたのだろうか。触手となった手で及川の腰を回して、見下ろした時には、もう彼の中に及川がいた。また一層、腰に絡ませて抱き寄せる。及川が擽ったさで身を攀じれば、それは深い。触手が一本、彼に巻き付いて離しやしない。


 まずい、まずすぎる。遅いが、危機感を感じざるを得ない。主に及川がだ、笠井はこの現状を見ようとしない。見ているのは及川だけ。


 ――早く


 警鐘を鳴る前に、笠井は及川の首に顔を埋める。そして前触れもなく音、嫌な音、生々しく皮膚を裂いて、湿らせた残響を残す。

 及川の声、悲鳴、幽かに聞こえるが堪えている。歯を食いしばった呻吟が、体を震わせているだけに堪えて、耐えようとする。

 吸血。その音が響いても、彼は拘束から逃れない。ただ痛みに震えていることだけ。


「だあめ」


 後ろに回された触手を及川の口に。なぞって、無理矢理歯列を割りながら捩じ込む。声を噛み殺すと、吸いにくくなるか、笠井の嗜好か。ただそれでも、及川は苦痛を言葉には出さない。激痛、だろう。息も絶え絶えになって、無理矢理深呼吸を取りながら、細く、強く吐息を。それを物として嚥下する音を聞かせられる傍ら、理性を留めようとする。


 及川はこの笠井を知るはずがない。だとしたら、これが彼による善意そのものにも見える。異変があっても、彼が汚染したとしても、傷を付けられても、逃げる素振りはない。全く、それに恍惚も信奉もなく、笠井を受け入れ続けている。

 彼は、理解者だ。笠井のただ一人の理解者とされても、その位置から退けることがない。

 ある種の生存攻略でもない、ならばいつか及川は笠井を拒絶するからだ。まだ、まだ彼にはそれを見せない。受け入れていると言うのか、何も秘密裏に何をやっていたかなど分からないはずの彼を。


 ――彼は


 及川は……ヒヨと…………いや、止しておこう。ただ彼らは、お人好しにも超えて優し過ぎている。何もかも、抱きしめようとする。だから誰かの理解者になれるのだ。


「薫、おいしいよ、とっても甘くて……血管も、ひくついててかわいい、すき」


 問題は、彼自身が及川の「理解者」へとならないこと、そのものだった。

 現実を受け入れていない、というように、彼の顔も変わる。大きくではないが一つ、白目が黒く染まっている。及川だけしか反射して映そうとしない、化物に成り果てていた。

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