4

「……誰よ」

「ワンだけど」


 警鐘とも言える鈴音に、ワンは揺るがない。むしろ際立った彩度と明度を以て、彼女を見据える。夜、この暗い箱の中での光、彼の周りに影を刻めど昼の光を目に漂わせる。一瞬、男か女か見紛うほどに中性的な容姿だ。その手足の裁断部は華奢でありながら、一切の憐憫を許さず合切の情けに憤る。奮い立たせた支柱、その硬さが、細身をくるませて離れない。

 ワンの顔に翳りはない。夜の暗さよりも、星の光に照らされたあかるさばかりが彼を映す。仲介屋の気配は感じない。あの時空間は分断されていたなら、ワンと仲介屋は同じか、それとも別行動をとっているはず。


 ――いや


 表情には、陰を見せるものがない。見つからない不安も、喪った不穏も。ならば、彼は生きているらしい。自分がここで感じ取れないものが、彼らの間に確実に起きているが、憂慮、するものでもないのだろう。


 それまで火花と戯れていた火蜥蜴が、ワンの方へ向く。遣る目はひときわ細く、甲高い呻吟を鳴らした。きゅうるるるる。求愛にもそばえにも取れる高さは、真っ白な下顎を震えさせて、ワンに駆け寄る。匍匐、脚の響きが地からよく伝わった。

 そうして、抱き着かれて、突進される。成人男性を軽々と超す生体には到底敵うわけはない。そのまま火蜥蜴は鳴き声を上げながら、ワンを下敷きにして離さない。敵意、は、この火蜥蜴にはなかったはずだが、懐きすぎてしまったか。


 心配して様子を伺うが、蜥蜴の下から手が親指を立てた。是している、平気なのだろうか。こちらから見ると、火蜥蜴は重く乗りかかりながら舐め回し続ける。姿は見えない、恐らく肢体の上に火蜥蜴の腹で体を固定されている。そうして舐めては、大口を開いて咬む様子すら伺える。が、ただまだ悲鳴や苦悶を漏らすことはない。むしろ言葉通り慣れていたか。抵抗のないワンに向けて、火蜥蜴の尾も草木を掻き分けて振り回す。まだ目立った外傷はない、頸に噛み付いても出血はないようだ。


「あの……」

「いいよ慣れてる」


 くぐもっているが、本人には問題ないらしい。そもそも火衣にも動じずに、抱擁を受け入れたのだから想定内だろう……実際、抱きつくよりも、覆い被さっているが正しいのだけれども。かりそめの腕、火蜥蜴を抱き上げて、真っ白な光沢を見せる。ただ胴を抱き上げるには至らず少し心許なく、また上で蜥蜴は這った。ワンの手が動く度、心地よく蜥蜴は頭を擦り寄せながら、また絡む。手が、人間の手が好きらしい。そうして次に、抱いてほしいよりも抱っこをして、か。不埒な律動の代わりに足はワンの体に張り付く。猫にマタタビ、しかしこのマタタビは人。優しく照る皮膚を撫で付ける優しい男であって――今、メキッと折れた音が――確かにしたのだが――――彼らは上機嫌に戯れているのだから――放っておこう。


「……まあ、感謝はしているけど」


 ジャンヌは傍観したまま、危害は加えない。

 感謝、感謝とは、神体に使われたあの児童達のことだろうか。正気を残したまま北条に閉じ込められて、そして体だけが暴走したことで食らった。血も肉も骨も脳も内臓も髪も砕いて、それでも世を知らない子供たちの意思が縫合した。

 了花は彼女の狂化をせず、ジャンヌに姿を遺されるまでに守り通していた。だとすると、一果は最初からだ。最初から、北条了花の顔と面影を壊すためにジャンヌを利用した。そうすれば悲劇なのだ。そしてその悲劇の救いとして、運命に翻弄された甥を救う。そして問題のジャンヌの破壊は協会の庭三にビジネスとして頼めば問題ない。


 ――うん


 何とも釈然としないが、これが庭三でありビジネスだ。自分は現実世界に生きていた北条了花には接点がない、だから助けることは出来なくても致し方ない。北条と接点を持ったその時、彼女はもう先立ってしまった以上は。


「サクラコ」


 呼ばれて、ジャンヌの方へ向くと顎をつかう。くいと、おとがいを使った先、自分とはやや外した目線を辿る。終着は、先ほど過去のジャンヌが落としたイブからの封筒。読めと、そう言うらしい。または読めなくても分かる何かがある。

 封筒に手を伸ばすが、まだそのまま紙の感触が残っている。ここはジャンヌの記憶を基盤にした世界、そしてその本人であるジャンヌとイブの姿はもう見えない。だとしたら、これは意図的に作成された創造物でも間違いはない。持つと、中の紙以外に、何か小さな個体が下に溜まっている。シーリングを丁寧に剥がして、中からその内数個を取り出した。


 ――硝子?


 ビー玉か、硝子玉のようなものだった。透明で、色が淡くついた、球体。色違いであること、少しだけ欠けている物もあるがそれを除けば同じらしい。念のため、白桃色に彩ったそれを夜空に翳す。透けて、やや星を歪ませながらもやわらかいヴェールを纏って描く。綺麗だが、こんなものは現実世界にどこにでもある。


 ――いや


 くわんと、前触れもなく球の中が歪む。

 桃色とは濃い、熟れた渦を巻いて、閉じ込めた星を巻き込む。ふかいふかい小宇宙色の夜をも潮の一つとして廻って、何度も廻る。やがて混沌が渦輪から丸く、球の形へ、そうして形を複雑に、削りながら膨張させる。花、シルエットの形がそれを思い起こさせるまでに形を整えた時は着色を施した。生花、純白の色を塗布させたそれが、中で出来上がっていた。

 魔法代替物には宝石が使用されやすい。いつぞやオープンキャンパスで出会った瀬谷の師匠からその教えを受けている。簡単に、魔力を閉じ込めるために密度の高い石が使われる。そして、社会的な理由で使用者の権威の象徴に宝石が好まれている。それは、異世界でも似たような価値観はあるらしい。イブは中等部だから、こういった物は、単なる授業の実験の一環。


「私の友達のお兄さん、頭がいいそうで……贈られる度エダも妬いていたわ」


 それは、分からなくもない。イブがただの授業の産物を送るであれ、エダという人物には気を揉むだろう。ジャンヌが移した故郷の景色は、長閑ではあるが、文化的かつ知性的かは分かりかねる。むしろ、この村の産業が鉱山の採掘であり、それに伴う流通も固定される以上はこのままだ。カカオを生産する土地の人間は一生チョコレートを口にせずに終わる、その典型だ。異世界の人間の地位は、昔よりは比べ物にならないにせよ低い。先ほど見かけたエダらしきあの少年は若い。そういった背景知識がないにせよ、突出した才能が身内にいる。そして歳も変わらないその男はガールフレンドと接点が作れるなら……思いやられてしまう。

 手紙をそのまま開く。創造物か、意図的に内容は滲んでいて正確には冒頭と最後の一文を除いてまともに読めない。


『親愛なる我が君へ ジャンヌ・リァ・フェリチェータ』


 ……エダの消息は知らない、何も知らないが同感してしまう。それじゃあ、妬いてしまうのも致し方ない。田舎に一人留まっている男か、先進国の最先端に向かおうとする男か、気が気でなくなる。


「その、幼馴染は妬いていたと分かっていたと」

「だから断ろうとしたの」


 創造。ジャンヌの手中から、淡い光が散らす。星空よりも遠く、灯よりも儚いいろをしたそれらが合わさって一つの固形を成した。濃い緑の、透き通った石。自然、葉緑体の塊という小難しい思考も、何カラットのエメラルドと欲を持たない純真だ。


「……エダが良かったの、私は、ずっと」


 ただ、本物ではない。

 もうこの世には無い物か、それは直ぐにジャンヌの掌の上で消える。むなしい物だ、ジャンヌの周りにある物には続きはない。その石、ジャンヌの瞳とよく似たものは、もう昨日から知っていた。


 ――でも


 それもまた、彼女は利用されてしまった。盗られた、奪われた、黙って見続けるしかなかった。


「ねえ――この世界の夜空は綺麗かしら?」


 綺麗な思い出を、彼女は思い返すことしか許されていない。

 この世界の夜空がどんなに美しい光をするかも分からないまま。かつての墓標の天を再現しては待つのみ。何もかも奪われた、あの日の夜空しか彼女は支配できない。停まって、死を待ち侘びている。だからもう殺されたい、死んでしまいたい。その意思は幼さで軽くなるものではない。力を抜いて笑っていても、その姿は希望の季節の姿を湛えていても。


 ただ、自分は関わっていない。残酷なほどに、自分は悪くないのだ。いつの間にか、どんな世界の人間も有象無象に可哀想な目にあっている。だから、こんなものは些少なのだ。自分はペストで死んだ人間の名前を、どんなに惨たらしい死に方をしたかを知らない。その程度だ、結局は、世界から見たら彼女達は。


 ――大丈夫です


 何も言えず、自嘲する。自分は、脆すぎる。こんな誰も知らない世界の中で、生後五分の蜥蜴に名前を付けて愛でてしまうほどだ。どうせ直ぐに、自分で葬ってしまうというのに。

 今一度、冷静になるために火蜥蜴を終わらせようと手に力を込める。ただ感覚がない、どこにも、なにも。珍しく、自分が誤って終わらせてしまったらしい。そう言った時はいつだって集中力が切れて、情緒が不安になっている時か。情けない、目の前にワンがいるというのに。彼には、こんな姿を見せるために呼びだしていないのだ。


「大丈夫だ、僕がやる、全部」


 彼を、不安にさせたくなかったからだ。貴方が心配するまでもなく、自分は成長している。母の為にも、機関や協会といても染まらないと、そう言いたかった。自分の背中は手ををさすられるためではない。だから、貴方に会いたかった。


「……だから泣かないで」


 貴方はまだ死んでいないと、傍にいたかった。

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