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 イデア。子金という青年は、イブという男はその原理の歯車。その件について少し言いかけるが、口を閉ざした。言っては、ならない気がしたのだ。それは機関の領分であって、庭三の責務とはまた異なるもの。機関は彼女の情報を利用するかもしれない、その前提はいつでも心得ている。


 ――だけど


 自分では、この世界の彼女を本当に救うことは出来やしない。簡単だ。機関よりもずっと、自分はまだ選択肢もないようなもの。それに触れたところで、自分がそれを変える能力があるかとなれば……可能だが、出来ない。

 それはジャンヌは嫌というほど分かるだろう。利用される立場として長く留まることを強いられた。末路を倦ねて怠んで待つのみの生、それに対する希望は劇薬に尽きる。


「貴方ね、とても強いの、知っているわ」


 証左に、ジャンヌの見た目は幼いままだが、その瞳は、意は異なる。桃の神は悔恨、碧眼は遺恨だ、どれもこれも自分が守ることは出来なかった。もう手中にはない夢幻のもの。その人間に幾ら救いを唱えても、説かれるは諦めだ。

 背後から何かが頬を掠めて、そして触れている。ぺとり、粘りは感じられないが離れない意固地さを有した物。硬く離すまいと誓ったものは、頬の他に脚部へと這うと伝う。脚部、足首、下腿、大腿、触れて沈む。

 手。横目で一瞥をするが、一律として黒い手を模す。その黒は、底が見えず温度さえない黒に塗られた虚無。一律に、皆同じに見えるが、良く感じ取ると個々の大きさが違う。ただそれだけ、肉付きが良いか悪いか、大きいか小さいかのみの差異を以てど意思は変わらない。変わらず、纏う。手が、手によって縛り付けられる。


 ――子供


 力はそうでもないが、数多のものはそうだった。とかく、締め上げる手らは何処もかしこも体を掴むが、やや抓りにも似ている。手を握りたいのだろうか、だけど握れないと言うのか。もう人間として眼を持たないが故に、それでも幼性は纏い続けると。


 重い。痛みはないが、重い。手が蠢いて、次第に袖まで入るが一切のくすぐったさはない。ただ入り込んでいく。麻酔を打たれてメスで腹でも切開された、その奇妙さ。内臓まで透過して掌握するのでは、その焦燥を湧く。安堵は掻かれる。


「けど脆すぎる、駄目ね、それじゃあ。それじゃあ私の邪魔をしないで頂戴よ」


 声に合わせて、上半身を固定されて両腕を後ろへ引っ張られる。違和感。そこだけは、何かに触りたくられている可愛いらしいものではない。ないのだ、空間が、空間を縫って入る空気が。横から、何かが腕までを沈めている。泥濘、沼、いや、深くて淀んで、くらい。


 詳しい数は、時々どこかで手は交差をしては綯わせ剥ぐわを繰り返して分からない。ただ十か、二十以上はある。服下はそろそろ際どいところにまで伸びてはいるが、依然として感覚に変化はない。奇妙な異物感、嫌悪感とも言いがたい、ただただナカまで侵されない異物。異物は、力こそ弱いが離そうとはしない、離れようとも。


 ――無理ね


 詳しく調べる間もなく、思念が滴っている。間違いなく子供だ。子供が大人に向かって、寂しく行かないでというだけのもの。当然、大人が突き放したら泣くだろうが、その悲しみに手は何をするか分からない……恐らくは、安牌は振り払った手ごと引き千切って離さない。


 ――だから


 軽率に振り払うことは出来ない。それが彼女の言う「脆い」たる所以であるのも、ずっと前から分かっている。これ自体はいつだって解除できる代物だが、彼女達を救える保証や確信はない。消したところで、恐ろしいのだ。オカアサンと錯誤を繰り返すこの懸命な触手が、夢中に消えてしまうことが。


「――ご機嫌よう」


 声。

 その声は、特定を許さない、定められることを恐れる多岐の声。それが故に理解者になろうとした甥をも決められることを恐れて組み敷いた危篤。北条一果が、茂みの中から姿を見せた。特に目立った容姿もない。しかし仮面だけは外そうとしないまま世界の二人の逢瀬を通りすがった。顔は見えないが、自分をしかと確認する。


「貴方のお噂はかねがね、あの天才と淫魔の血を引くと、だから麗しゅうお方とは存じていましたが色っぽくて……」


 天才と淫魔


『忌み子』『消費的廃棄物』『副次的生産物』『淫蕩と淫乱の血肉』『いるべきじゃなかった者』『醜悪』『いるだけで見るに耐えない者』『いることで悪を約束される者』『善のための悪』『善性を証明するだけの悪業』『最美たる醜悪』『お前が』『お前が庭三を唆した』『淫婦』『毒婦』『生きてこなければ』


 ……いや、止めておこう。

 一言聞いただけで今までの言葉を並べられても良くなりはしない。しかし言われ続けていた身としては、あまり聞きざわりの良いものではない。その言葉には必ず、前後に良い言葉はいつだってない。協会らしい、といえばそうだが、相変わらずだ。


「私を生贄に?」


 風の噂であれど、閉鎖的な構造をする協会では連絡網は強固かつ膨大にある。だから、一人に知られた以上知らない人はいないと思えばいい。利用する輩は頻りに出てくるものの、依頼をする者は増えるから悪いばかりではないのだが。

 幸い口は塞がれていない。そのまま問うた後に口元から手を伸ばされるが、問題ない。声に応じて、手を増やされつつも束の間の息苦しさだけで、呼吸は出来る。だが、感触はほとんど全体を覆い尽くされていた。視界は見えている。子ら、は、半透明の異形だ。


「こんな出来損ないにとんでもない」


 北条一果の狂気は、甥である北条銀に一点して注がれている。彼からの滔々なる惚気話を聞いてはいないが、依頼内容を見た時点で凡その察しがついた。

『出来損ない』。出来損ないとは、ジャンヌを神体とした張本人、しいては姪にあたる北条了花だ。一果が庭三を訪れた際には、彼女はもう死別していたらしい。原因は自殺、父と交わり弟を産んだとしての背徳に背中を押されての薬物摂取……が表向きか。協会は国家間との繋がりで公の側面が強いことは示唆される。加えて、了花は実弟の銀を連れて逃げた北条の『叛逆者』にあたる。だから、事実と記録は意図的に異なるように作り変えられる。その中でも如実なのは、北条の面子だろう。従者も親族も、皆口々に了花を悪魔と誹り彼女の写真も記録も何一つ残されていない。彼らもまた自殺と捉えているが、本意は「死すら自分で選ぶなど傲慢」。誰も彼もその一言に尽きるのだから、殺された方が自然なのだ。


 ――あの人は


 殺されることは分かっている、それでも銀を連れ出そうとした。かつて北条銀と了花が暮らしていた住居から事情を伺ったが、姉弟間は良好だったという。朝から晩まで仕事に勤しんでは、病弱な弟を養う手本のような苦労人。しかしそれに何一つ不満を零さず笑みを絶やさない善人。本音を聞き出せば、そう言った評価ばかりが出てきていた。勿論、「死後の数カ月間は銀が暮らせるくらいの貯蓄は十分にあった」という了花の矛盾はある。が、神体の一部が異世界である以上、機関からの関係を組んだだけか。それのみで、自らを犠牲に北条の送還に至ったとは考えにくい。


 ――だから


 了花がジャンヌを犠牲にしてまで神体を作ったのは、考えにくい。むしろ、金銭と引き換えに共に受け取った神体の制御に彼女は関わった。彼女の死後、一果がそれに子供をあてがった。そう考えるが妥当だろう。

 だから、そう、出来損ないとは違う。ジャンヌは理性があって、そして憎悪を渦巻いている。ジャンヌは子供を使役していれど、自分を殺そうとはしない。

 それは、希望だ。自惚れているが自分は、曲がりなりにも彼女に可能性を抱かれている。化物ではなく、人として、人が自分を見定めている。


「……むしろ生産的に成功の種ですよ、いるでしょう、比良坂様が」

「ユウが……」

「ええ、とても貴方を好いておられることは存じてます」


 その検討は付いている。そう、きっと彼はここに来る。自分が助けてと言ったら、来るかもしれない。


 ――だって


 ワンに会いたいとTを指名したのは自分だ。だからそれなりの確信を……傲慢だが持っている。誰よりも、彼は優しいから。すべて知った上で、生き続けているから。

 彼に会いたかった。この世界で何を見て、何を感じて、何を得たのかを隣で見ていたかった。彼は死んでいなかった、この世界で、こんな世界で、生きている。


 ――だって


 それはワンにとっては、この世界にはまだ希望があるのだ。北条了花とジャンヌそれぞれの悲喜は、それぞれ珍しくもなんともない。拾われるだけ無名を免れた、他愛ないもの。生死においても、搾取を繰り返し続けるここを。


「ですから――」

「……ですよね」


 だから、自分だけ助かろうとは思わない。救うのだ、捨てられる者を。それがワンの見出した希望であるなら、彼はそれに生き続けるなら、この世界はまだ素晴らしい。

 救うことは出来ない。自分はワンのように誰かの手を引くことは無理だ。救われて、それでも世界を怖がる震えたくちに口付けを交わすことも。背中を押すことも当然、若い自分にはとても。


「あの人にはこんな姿、駄目ですよね」


 だがってますことだけなら、いくらでも。


冬は桜の母El tango≒Noel


 絡め取られた手を離す。緩やかに、引き止める者のあまたがそうするからだ。

 彼女達は解した、自分達には意志があると、もう子供ではなくなるのだと。だからもう、自分に意味はなくなる。人間、一人では生きていけないが、二人だと死ぬことは出来ないのだ。悲しいから、寂しいから、だから一人を選ぶと成長していく。それを彼女は理解した、理解した上で、人間として生きてくれる。


故にOur New...白へEgg,白くEpic,白にEnd


 詠唱。自分は拘りがないが、魔法には先輩にあたる瀬谷からアドバイスを受け賜っている。決して、叶えたい時には口に出さない詠唱はするなと。その思いは、誰も理解されない、自分の世界にしかならない。叫べ、世界を響かせて進化させろ。抽象的だ、彼は難解だが、少しだけ理解もした。


つよく、いきてNo ONE No Life


 だから謳い続ける。それが人の道すら許されない彼女達へ示す印なら、振動なら、それは希望だ。体を軽く動かすが、もう拘束は外れているらしい。後ろを振り返るが、先程の禍々しさは見当たらない。

 そしてジャンヌは肉体に変化を遂げた。禍々しさ、ではない、単純に成熟した体。成長した女性そのものだ。


 ――うん


 成長、した。だとすると、彼女はここで生きていた。魔力ではなく、人間として。

 かつて天才は、その特異的な才能が故に「介入認知学」という学問を創設した。詠唱者を『神』と仮定した上で魔力を理論上無限な火力にまで促進させて『使役する』――そんな小難しい言葉はどうだっていい。だが母なら、子なら、それは成長の意味のみだ。


「あの、北条様、一つだけ訂正してほしいです、私は天才の娘ではないです」


 天才。それは人から称賛と羨望をたらしめる最上の称号、しかし最上の毒だ。それは呪いだ。誰からも理解されない、ある種の区別だ。

 それは不幸だと、彼は何度も怨嗟を零した。それは何度も味わっている。味わい尽くして、骨髄に至るまで。じゅくじゅく、血を通わせながら、彼は生き続けていた。

 だから、彼にとって天才とは、最早死んでいるに近いのだ。誰も追いつかない終点にありながら、終点が故に進化もできない。だれも待ち続けられない、その孤独をひとり、広い世界のなかで漂うのだ。


 ――だけど


 だけど


 自分はここにいる、彼によって、母のお陰で生まれた。

 誰もいない場所で、彼は自分をのこしてまで生きようとした。それは希望かもしれないが、恨みかもしれない。それは表裏だ、そして汚いものと言われがちだ。

 それでも自分は彼の未来に立っている、冬は桜に春を託す。その彼の最後を、自分は見たい、見届けたい。それは、彼が人間として生きた何かがあるのだ、絶望とはもっと他の、何かを。そうして人間として自分は生まれた、自分は願われたのだ。


「ノエルエティの娘、ですよね?」


 ならば答えはもう決まっているのだ。人間として生きて、生きていた彼女達を見捨てることはないということも。

 自分はその最期を見届ける意義も、あるのだと。

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