【庭三桜子/ノウン・マザーグース】1

 異変。それは二人の気配が消えたすぐ後だった。

 前触れもない剣呑、長閑な景観が黒煙に燻されていた。それは燃え終える薪とよく似る。区間ごとに連なった民家は炭に、最早火の粉さえか細く辺りを焼き払う。気まぐれな風もまた、人を助けず逃げ惑う何かを煙幕で覆った。何か、分からない。

 それは人かもしれない、あるいは焼きすぎて分からなくなった肉の塊かもしれない。干上がった眼球を以て、燃え上がる赤い炎の中にまた人が突っ込む。しかし幸せそうに笑っている者もいる。良い年した男はぎゃあぎゃあ笑って、傍にあった鎌をママとせがめば自ら首を裂く。彼の傍は、女らしき、妻らしき女性がいる。彼女はその真隣りで赤ん坊と淫行に耽る。夫の血が頭にかかったその時、また煙が覆い尽くした。分からない、見えないがもう人として見れることはないだろう。


「あのね、あれがジャンヌのお家」

「真っ赤だね」


 うんと、ジャンヌは頷く。彼女が指さした先の家は、どの家よりも一回り大きく消失に時間がかかるらしい。しかし炎焔と、轟々と消えることを知らない。風煙の類も、彼らはそれに近寄ることがない。ただひとしきり、それだけが燃えている。それを彼女は、じっと見つめていた。特に嘆く様子もない、ただ幼い口調から、当たり前のように言う。


 夢、あるいは心象風景か。インパクトは与えられるにせよ、感覚は整合を持たない。聴覚、嘆きは、遠近法を無視してどこからともなくつんざく。それはワンと共に巻き込まれた直後から検討はついている。ここの世界に常識はない、当たり前のものだけが当たり前のように繰り返すだけ。それは個人の記憶に大きく依存して、例え化物となろうが精神性が残る限り反映する。ユメは、その典型的な例だ。幼児としての願望や欲求は理性よりも強く、それらのみで構成されて生きるようになる。あれが欲しい、これが欲しいと言った強い欲望は、そうやって人を化物に至らしめる。


 思案。これはジャンヌの欲望、ではないのは確かだ。そして庭三を頼る以上は北条家の神体、すなわちジャンヌは異世界人の可能性があることも。それらを加味して、加えて彼女そのものはある時点までは普通の女の子であった。ならここを生まれ故郷とする以上はこの直後に何かが起こったのだろう。それがジャンヌにとっての最も強い思念であり、何かだ。


 見渡して様子を窺う。自分たちがいる丘は、昼の青々としたままだが、天地の焼き焦げた火色と炭色の間にいていやに不気味だ。風もまた、昼間の心地よさだけがあって合わせようとしない。だがここについては、記憶では安全圏で燃えていなかったか。


 しかしまだワン達が戻ってくる様子はない。それだけはここの懸念だが……いいや、杞憂だ。彼らは生きている、多少の不安要素があろうが絶対に。それよりも見を案ずるべきなのは、まず自分だろう。


 ――あれ


 いつの間にかだ、少年が一人目の前に座り込んでいる。青年かもしれない発展途上の幼いそれは、身に纏うものが所々焦げては穴を空かす。だが特に外傷がなければ、単なる火の粉によるものか。ただこことは違ってかなり汚れている、煤が、本来あるべき健康的な肌に付着する。しながら、払い落とすも厭う間もなくそれは蹲る……彼は泣いた。彼は泣いて、涙痕だけが煤をほんの少し洗い流す。声を押し殺して、殺しただけの感情の死骸のみをこぼして。彼は、ここにおいてあまりにも場違いな様相をしていた。傷だらけで、どこもかしこも無事なんてものではない。


『エダ』


 だからこれは、ジャンヌの起こした矛盾だろう。彼は元はここにいるはずはない。恐らくは、あの火の中に取り残されたヒト。ただいる前提として、ジャンヌは彼に近付く。

 不意に、その真隣に少女が座り込んでいた。桃色の髪と緑の瞳、彼女は、ジャンヌだ。その少女は呆然として焼き焦がす景観を眺める。幾分か、放心しているかもしれない。今のジャンヌと自分と、エダと呼ばれた青年に気付かず、そして見続けている。


『泣かないで』


 今のジャンヌは、エダの背を擦ってそう呼びかけた。それは優しい、優しいが、実ることはない。その諦観すらも帯びる。何故ならこの世界は偽物になったのだ、ジャンヌが触れるエダは偽物だ。本当の彼はもう、ここにいることはない。火の中の種になったのかもしれない。それでもジャンヌは彼を創った、そして、傍にいおうとする。


「……戦争、なの?」

「清掃よ……確か、いたのよ、鉱山での死傷者とか。その労働の劣悪環境に耐えかねて、その反動で一人ルクェプトゥの役員を重症に追い込んで、村ごと焼き払った」


 それまで幼かった口が、知性を出す。ついぞの子供らしさは消えているが、正気か理解はしているらしい。冷静に、受け止めながら幻影への慰安を続ける。ルクェプトゥ、暴食国、その名の国を自分は知っている。協会と、機関に関わる人間として。だが重要なのはそれではない。


 ――この子は


 いや、ジャンヌという女性は理性を失っていない。最初から理性を残した状態で、肉体が独り歩きした。その結果無理矢理神にされて、本体は置き去りにここにまで留めている。そう考えた方が妥当だろうか。

 ワンは、暴走する神体の原因である、素体だった人間を鎮魂したと言っていた。証言によると、生贄の児童達は体内で生かされ怨嗟や意思を残して神と成ったと。それをワンが壊した今、ベースとされたらしいジャンヌは意思を持ち始めた。そういった所だろう。


 ……楽観視は出来ない。彼女は今の自分の身を分かっている、そして何かの理由で自分達をここに閉じ込めた。その理由は、理性を失う前よりも明確にある。理性を失った化物は残酷だが、理性ある化物は残虐だ。憎しみと、それに伴う算段がある。ジャンヌとしての体が神になった経緯でダメージがあっても、意志が残っている。


 ――それが


 それが、この風景だ。何もかも死で埋められた事実、その感情をずっと持っている。エダという少年に思慕を抱くか、彼を創ってまでも会おうとする。あの記憶のジャンヌが側にいる、消そうとしないなら理解しているのだ。あの時の自分は何も分からなくて何も出来なかったと。


『ここにいたのか』


 そして、部外者であるはずの自分に何かを教えている。過去の彼女に後ろから、誰かが木々の間から覗いてそして身を乗り出す。男が一人、肩に付いた木の葉を払い落として過去のジャンヌに近寄る。幾ばくの既視感、見覚えのある彼に目の前で手をかざすが、彼はそれを無視した。


 ――まさか


 子金だ、多少色味は変わっているが、感覚的に魔力の構成がすべて一致している。例え双子でも同じ構成をした魔力は有り得ない。自分の能力は母の影響で無制限に見てはしまうが、これは分かる。彼は、子金だ。


 ――いや


 それに驚きはしても、今はそうじゃない。機関と関われば、こういうことは当たり前だろう。自分は、ワンを選ぶ為に機関と関わった。利用するものは、利用される覚悟がなければならない。それだけ、今に関係しないなら余計に気にしない方がいい。


『行こう、君を待っていたんだ』


 この男は、子金はジャンヌの記憶らしい。特に目立つ容姿はない、むしろ魔力が混在した異世界において珍しい黒髪黒目。制服らしき規則性を醸す装いは整って、だらしなさはない。しかし、それ以外に何も目もくれない。視点を煌々とする下を移さない、ジャンヌ、一人の少女だけに目を向けた。


『嫌、嫌よ、エダがいないの……皆燃えて、エダも……ねえ助けて……』


 このジャンヌは何も知らない。錯乱をしているから、正常な判断も期待出来ない。こんな叙景を前にして、何も感傷も抱かない男を。ただ一人の女しか見ない男が助けてくれることなんて。それでも彼女の周りには何もいないのが事実だろう。次第に涙を零して、何度も乞い続ける。そこにジャンヌの名は含まれていない。ただエダのみを呟いて、含んで溢れて、ただその男は無視してジャンヌの腕を引いた。

 情緒を不安に揺らした彼女から、便箋が一つ落ちる。シーリング。炎よりもまだ暖かみがある封蝋は校章らしきもの、白い封筒にとても映える。文字は異世界そのままだが、暴食国のものなら名前くらいは分かる。


 ――イブ


 正確には『暴食国、国立クアラ学園中等部特神科イブ・リュエン・リストハーン』と綴られている。クアラ学園は、本業としない自分でも知っている。有数の魔法使い育成学校、イデアの開発や調査もこの学生によるところが大きい。『リュエン』とは、暴食国が国教とする教えの洗礼名だ。


 ――つまり


 子金は異世界人であることは確定する。しかし出自は、これでは道理が付かない。この封筒から見れば、彼は模範的な国の人間だ。それに才能もあるなら、ここに逃げる必要性もない。暴食国は強欲国に次いで人種の割合は大きい、加えて実力至上主義だからイブには寛容だ。だからステータスの一つでもある学歴も良好である以上、彼の生活は平和だ。そうなると矛盾するのだ、ジャンヌと共にここにいる意味はない。何故?


『大丈夫、弟が全部背負ってくれる。アイツは、生きててくれる』


 弟。

 確かに今弟と彼は言った? 弟とは、エダか? 幻を慰めるジャンヌの方へ目を向けるが彼女は険しい目付きでイブを見遣る。泣き続けているエダに寄り添いながら。

 掴まれたジャンヌは必死に引き摺ろうとするイブに抵抗する。そして、助けてと仕切に叫ぶのだ。


「ねえサクラコ、イデアって知ってる?」


 静かに頷く。イデア、暴食国が研究対象としているものだ。詳しい説明は難解になるが、「多種族が言語を超えて一つの魔法で事を成り立たせること」を目的とする。皆が思う物に、魔法も一致させていく。小難しいが一言で言えば、概念の編纂だ。


「イブね、もう汚れちゃったの」


 イデアの研究は、かなり多くの団体から推奨されている。が、その多くの団体である人外は、人間よりは暴食に昔からいた富裕層にいる化物が多い。人間がイデアを支持するのは極稀だ、むしろ小規模団体の人間はイデアに否定的になる。

 憂慮、されていたのだ。イデアそのものが「強制的に国そのものを信望する道具」となることを。そしてイデアは概念的で実体がない以上、いつ侵されるかも人間には分からない。

 子金は、学生としてイデアに触れていたなら――残念ながらそうなのだろう。そうなるといくつか納得してしまうのだ。ジャンヌを壊そうとする意志も、ここに逃げてもなお暴食への反抗が見えないのも。


『……一緒に逃げよう』


 変わり果てたジャンヌを連れて捨てて逃げて済んでそして壊すそして棄てる。それは恐らく、暴食かどこかで化物にされた彼女を救うための、苦肉の策だろう消すための、最善の策だろう。彼はそれを愛と、今も思い続けているらしい。

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