2

 何に対して謝っているのか。その訳は、聞かない方がいい。響きが、まだ内心に残っているのだ。くわんとして、心臓の鼓動と同じになりそうでならない。少しだけ、苦しい。そのわずかなズレに下手に声に出してしまうと、何かが溢れそうな気がした。そう、ならば聞こえないふりに徹しよう。そうして、考え続ける脳を、鎮めたかった。


『おいていかないで』


 本当に、嫌な夢だ。自分がしようとしていることばかりが否定されて、したかったことを拒む夢だった。残された敵がいるなら殲滅しようとした時に言われたのだ。

 掴まれた手は弱かったが、振り払えなかった。何故だろう、自分はどこにも行きやしない、すぐに戻ってくると分からなかったらしい。それにおいていくのは及川だというのに、それをするのが人間なのに。自分はあの男みたいに何一つ酷い事はしない、そう思っていたのに。


 ――ただ


 醜さばかりの感情が自分を立たせていた。少しだけ、思ってしまったのだ。おいていかないと駄々をこねる及川を、いっそのこと閉じ込めておくべきかと。及川が悲しむくらいなら、自分だけで良いとすら。返せる言葉がない。言ったところで、本当にだ。噤んだ、自分の唇が、ただただ子供っぽく柔かい。そこから、吐き捨てまいと耐えた。


 突然、傍に置かれていたスマートフォンが鳴る。拾ってくれた及川から渡されて画面を見やると、送信元に見知った名前が書かれていた。機関の、女性社員。確か日系人と聞いていて、度々花咲と送迎で相席する際に会う。メールを開けば案の定、もう少しで着くとの通達があった。別段、気負うような相手ではない。体調不良だから教室で寝ている、とだけ打って返信した。


「……これから向かいに来る人がいるから、寝ていい?」


 及川は頷くが、顔はよく見えない。あまりいい話でもないから、笑みを浮かべていないだろう。ただ差し込む夕日が、橙が彼を遮って惜しい。あの瞳が、恋しい。空よりも広く、夜天の星空よりも深い。その透き通った瞳が、左目になれたらとばかりに。


「蓮、あのさ、デートしようよ」

「デート?」

「……いつかで良いからさ、ほら、イタリアンのアレ行ったことないって言ってたから」


 声の調子はやや明るく、不機嫌さはない。世間話が出来るくらいにはまだ余裕があるらしいが、覇気はなかった。沈む夕焼けの濃密にとけてしまうだけの、弱々しさ。珍しい、及川にしては目立つ引きずり方だ。


 ――デート


 昨日に続いて、か。もう宿泊までしたのにも関わらず、この男はまだ色んなものを欲しがるらしい。及川の指すものは、恐らく安価なチェーン型イタリアンレストランだろう。確かに自分は今の飼い主のせいで滅多に行かない。あまりない経験をさせたがるのは、人間らしいというか及川らしい。


「好きな人いるって言ったじゃん」

「好き、じゃなくてもいいから」


 好きだ、愛していると言うには不安定なくらいに。愛している、好きと言うには欲しすぎているくらいに。ただ、自分はその汚くて幼いものしかない。

 だから好きと言ってしまえば、間違いなく見えない壁が見えてしまう。届こうにも、あと少しで跳ねて届かずに砕かれる。及川の好きと自分の好きは違う。何も知らないから、だけどそれは自分が最初に望んでいたことだから。

 及川の程度ではない。知っているだろうか、お前は。もしお前が、自分に好きじゃないって言った時、どんな顔をすれば良いか分からない。笠井蓮は、どうやって生きたら良いか分からない。


「……ただ、大好きってずっと言わせて」


 だから、お前が思うほどその言葉は軽くない。お前は泣かないで言っても、俺は寝ながら聞いていて良かったとさえ思っている。顔がよく見れなかったとさえ。


「好きにして」


 本当に、何も分かってない。なんにも、ただ傍にいるだけじゃ何もなりはしないのに。ただ、そこにいるだけで救われたと思うのみで、生きてて良かったとだけ。それだけしか抱かないだけの言葉だ。


「好きだよ」


 だから――好きになってしまったんだ。飾りなく見てくれる及川が、変わらないでいてくれる薫が、香が。


「――知ってた」


 よく見えないのは逆光であって、視界が暈される前に、目を閉じた。


 ■


 既に男が二人いた。

 一人の男は髪が長く、目隠しをしていて体格がいい。まともな正装を着こなせば偉丈夫と持て囃されそうだった。艶のある長い髪は黒豹の毛並みと似て、その素材でありながらはだけた薄着を着る。しかし、色に浮かれている。桃色に。影は阿片窟の闇色として。透いて、湿って張り付くそれが白い肌を見せては風体を雌っぽく濡らす。吐く息は低い、だが吐息は薄気味悪く高く甘い。蒸気して赤い頬を、もう一人の男に縋っていた。

 イチカ、と、婀娜っぽい男がそうしきりに呟いて、足を頬ずる。人肌だ。汗ばんで張り付いた肌には不快この上ないのに、擦り付ける頬は柔らかく歪む。イチカ、その名の男は、あるいは振動は口への愛撫になるらしい。それだけ、それしか知らないのか、愛おしげに男は呟いて離そうとしない。


 もう一人の男は、目隠しの男よりも細身ではある青年だ。然しながら、彼が盲目白痴の愛い慕うイチカなのだろうか。分からない、彼は特に目立つ服装をしてはいないが、ぼんやりとせがむ男を見下している。

 元は無機質だが、図体の良い男が嬌声を上げて楽しいだろう。ゆっくりと、口角を上げる。そうして、上げきった頃には膝を曲げて、目隠し男の頭を撫でた。その男をギンと呼び更に深く髪を掻き乱すと、目隠し男はそれにつられて薄らと笑みを浮かべる。ギンとイチカ、これがこの二人の名前、とすれば良いだろうか。


 ――どうだろう


 首輪の跡はないが、ワンと部長よりかは明らかに、正当にそう言った関係に見える。名前とは、耳から脳を優しく掻き回す震えにすぎない。それは毒だ、符号という道具の中に秘められた命だ。普段から人間以下の扱いをされると、それがどうも甘美に思えてしまう輩はいる。そして沈む、どんどん。だから本名と決めるには早計か。便宜上、なのだろうし、ギンと呼ばれた男は嬉しそうにイチカと呼ぶ。幸せ……なのだろう、大変に見るに絶えないものだが。

 ふいに、ギンの薄着がまた露出する。筋のあるうなじから厚い胸板。そしてそれらにそぐわない熟した色をした、目を逸らしたくなるもの。ただ逸らせない、ギンの体付きだけはいやに良いからだ。欲情はないのだが、目を惹く。どうしてか雄々しさたるや毛はなく、曲線を描いた肉だけがある。滑らかなカーブ。そして弾力を持って、下腹部への視線を自然とさせられる。

 月並みで言えば彫刻、しかしそれ以外の例えは思いつかない精緻。彷彿される神話の躯体。それは普通の人間へと這って、愚息へと傅くためのものではない。人間に乞い侘びるためにあるものではない手、が顎を掴んでイチカに口付ける。水音。厭な飛沫が夢の壁を伝って響く。舌を、使っているらしい。目もろくに見えていないギンは、精一杯伸ばしたか涎が口端から垂らす。こそばゆいか、不満気にイチカに肌同士擦っては、呻吟を深く漏らす。イチカが先端を啜れば半身を震わせた。肌を赤く染めては、足らず、体中の液を出したがるか、接吻を長くせがむ。


 趣旨を変えたのは、ギンが首筋に零した唾液を舐め上げた時だ。

 くすぐったく身をよじるギンを両手首で抑えて、甘く咬むイチカらの背後に何かが集る。人だろうが、人とは言い難い胡乱さを醸す男共。それが六体ほど囲む。男達は取り立て目立つ容姿も、目付きには欲望のそれはない。


 ――アレは


 一つ、十、無数に、彼らの袖口から蔦らしきものが湧く。青々と伸長したそれらを顕にしながら、彼らはギンの方へと群がる……後は、不安の通りだ。

 まるではしたないものを見た。品がない、いいや、もう積み上げるべき物も矜持もないものが、あるものをあるだけ貪る。獣は朝から晩まで交尾に耽ると言うが、その生産すらありはしない。男達からはみ出すギンの足は、体液を下に垂らす度に大きく痙攣をする。次第にまた、イチカは肌と肌を打ち合わせて肉を詰る。蔦の蠢動に応じて、濡れた声ばかりが上下を繰り返す。滑稽だ。ここまで遠くで見てしまうと滑稽とさえ思える。酷く濁った水溜りは、もう何十滴も落としているのにまだ尽きようとしない。霊長の神秘、ということにしよう。


「あれから数時間はああだ」


 数十分ぐらいか、あんなものを見続けてやっと、背後から部長が現われる。表情は、いつもと変わりなく笑みで飄々とする。役員より、元ある種族の淫魔らしい。

 二人とその周りは、自分達には未だに気付かない。部長のこの世界の構造を考えるならば、彼らは部長の意志によって引きずり出された者か、幻影か。


「もっと詳しく見るか?」

「結構」


 構わず、集団の中を割る。異臭、グロテスクな快楽、目がひたすらに殴りつけられる衝撃。しかしすぐに慣れた。メインはイチカだが、蔦があらぬ所に向けてあらぬことをしている。性的倒錯にあらぬことを。彼らの感触、する、宙に浮いたギンの腹を撫でるが反応はない。割って入ったことへ、彼らが部外者の自分に目を向けることはなかった。

 視覚的精巧はホログラムと準ずる。加えて何かしら都合よく、ここの創造主が触れる箇所を創った。そういうことだろう。


 ――では


 次は何の為に、か。こんなものを出すのは悪趣味だが、部長本人としては趣味としてはベクトルが異なる。本当に自分に悪趣味として出すなら、ギンではなく及川に、イチカは部長に置き換わる。その予感はする。


 ――となると


 彼は一応、自分が何をしに来たのかは理解しているらしい。もう決めた人間に心を崩す理由はない、砕く意図も。それよりももっと必要なものがある、としてこれがある。ならこれは、嫌がらせが少しの大部分の資料か。


「……あれはエダ・リストハーンか?」

「いいや、イブ・リストハーン、エダの実兄だ」


 間違えてはいるが、方向性は間違っていない。そして、必ず関連する。導くべきものとして、用意された答えがそこにある。

 エダ、その名は、初出は所在ないものだが、彼は応えた。あの出来事が夢か現実か――どちらにせよ、彼は自分に付き纏うのなら、知ってても無理はない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る