二日目/夕方

【笠井蓮/ああ、そはかの人か】1

 温かい。

 夕方を、宵闇をそう思うのは何だか奇妙な感じもするが、あたたかい。初夏を染み込ませた湿気はないようで、陽で染められる天井はまだオレンジを差す。鮮やかだ。まだ蝉の錆びた感傷も受けない、響かせるには歓声が似合う。青春の断片が一生続きそうな風味、終わりそうで終わらない。

 遠くから体育会系の男児の部活動が聞こえる。音。バットとボール。バッティング。小気味よくたけんで高く鳴らす。遠い、どこまでもだが、彼らと自分の年齢はそう変わらないらしい。


 及川の指が頭を撫でている。小さい。水曜の2時間目の体育のバスケットボールでダンクを決めた手なのに。そしてうっそりと冷えていれば、何だか少し儚い。ほんの少し撫でられるとこそばゆいが、不思議と嫌な気分はしない。ダンクを決めた時、彼はチームメイト――そして何故か敵陣のはずの自分にも――にハイタッチをしていた。ボールも、すぐに拾いながら手で操っていた。その双方どちらにもつかない特別、だろうか。


 今日は3限目にはグラウンドでの体育があった。サッカーの気がしたが、あの時及川はまた忙しなく動き回ったか……いや、思い出せない。かなり、寝付いていたらしい。一日中かもしれない、今日の授業で学んだことが何一つ思い出せない。5限目の化学で班員の一人がまたレポートを忘れて、見せしめにされたか、それもだ。


 ……分からない? そのはずはない。レポートなら机の中を見れば良い。担当から確認印がなければ、自分は行かなかったことになる。当たり前だが、今日のノートを見て然りだ。分からないことはない。意識が朦朧としていても、きっとやることはやっているだろう。


 ――ああ


 だが、億劫だ。今はそれに手を付ける気が珍しくない。やる気がない、いいや、それではない。何か心の底で受け付けていない。もしも自分の体操服が土で汚れていなかったら、レポートが途中だったら。それだけで、自分はここにいなかったと証明してしまうことになる。その空白の時間、自分がどこで何をしていたかなど得体が知れそうで、厭だった。


 ――及川


 今自分は及川の上、膝の上らしい。男にしては肉のある、柔かい弾力の上にいる。案外肥えているなと言えば怒られてしまいそうにだ。穏やかさでまた目を瞑りそうで、寝飽きた今がやっとか、もう眠りには落ちない。それより首から下は、固く寝返るには無理のある幅。彼はどうやら、自分が寝てる間に椅子を連ねたらしい。さしずめ、自分の机を起点として、その真横にいる数人か。

 及川の指が、どんどんぬるくなっている。体温を交えて、自分によってほんの少し温まっているらしい。


「おはよう」

「……はよ」


 及川は、自分が起きていることは知っているはずだ。今自分は双眸を以て、天井を見上げて、彼に話し掛けている。発した自分の言葉は、やけに大人しい。力のないそれに、及川は怯まずに撫で続けた。顔は、まだ見れない。

 寝返って、彼の方に顔を向ける。学ランに含ませた香りが、一日ぶりに懐かしい。柔軟剤の、花に通るハーブを組み合わせた物だ。自分よりも青空の下に生きて、摘み取られてもなお清々しい。爽やかで、軽くてあまい香りが、吸うごとに縮んでいく。


 ――痛い


 確かに、何かが萎んで行くのを感じた。精神的な、何かが。及川がただ掌で撫でるだけで崩れて来ている、壊れそうな何か。一つ一つ、掬い挙げられて、捲られて真皮を剥がす。でもそこから見えるのはじゅくじゅくした肉の塊ではない。もっと何か、それすらも出来ない柔らかすぎた物、脆すぎたもの。


 ――何それ


 我ながら、意味は分からない。ただ暴かれることなく自分から明かしているらしい。自分が、何だかやけに及川に従順になってるらしい。


「……薫」

「ん?」

「嫌な夢を、見たんだ」


 そうなんだと、及川はぽつりと返す。静かに、響く間もなく静かに声音が散る。ここの教室には自分達しかいないらしい。


 ――夢


 嫌な、夢だった。現実と似た悪夢で、悪夢が現実を歩いたような。現実を蹂躙させた夢だった、夢を踏み躙った現実だった。


「俺の好きな人が出てきたんだ」

「……うん」


 ただ、今の自分には理想だった。それが彼を一度でも守れてしまったのなら、尚更。頭髪から零される温度が、自分を安堵するから。それでも生きてて良かったとすら、思えてしまうから。


「確か、泊まってたその朝にお前と別れて、知らない人たちと話し合って、そしてそいつに会ったんだ」

「うん」

「そいつは……化物から逃げていた。けどどうしてだろうな、化物は俺を見るなり、そいつを突き飛ばして俺に近づいた」

「うん」

「俺は、怒ったよ。好きだったんだ。だから咄嗟に体が動いて、近付こうとしたそいつらを殺した」

「そっか」

「しかも素手だ、途中何か俺の手に芽が生えてたりしたけど、腕ごと千切った。あれは痛かったけど、それ以上にムカついたんだ。アイツを突き飛ばしたのが許せなかった」

「うん」

「だからそいつの手をとって逃げたんだ、俺母親の手すらロクに握ったことないのに、必死になってさ。夢なのに、追いかけてくる敵から逃げようとした」

「うん」

「そしたら……南口ん所の廃墟で皆ぐしゃぐしゃにした後に、俺ね、礼を聞いてやりたかったんだ。そいつとはあまり会話していなかったから」

「好きだったんだね」

「そうだった、俺にないものを持っていた……だから、話したかった。いつもは駄目だ、どうせ離れる、だから助けた側ならって」

「うん」

「嘘だと思うか?好きだったんだよ、本当に。アイツは忘れていると思うけど、出会った頃から」

「そんなことないよ」

「いいやそんなことない……もう少し話せば良かったかもしれない」


 酷く覚えている。及川のあの顔を、空いた片腕で頬を撫でた時、奴は顔を確かに歪ませていた。怖がる様子も嫌悪はなかった気がする、彼は後ろに退くこともなかった。そんな彼に、自分は受け入れていると解釈した。そう、そしてこういったはずだ、お前が狙っている奴は俺が全部壊すと。殺すのではなく、壊すと、ちゃんとそう言った。そうしないと及川が逃げてしまうと思ったからだ。


『嫌だよ……』


 ――……


 及川を泣かせることはないと、思っていた。


「……なんで、あんな姿見せたのか分からない」


 頬から涙を垂らした様子はない、厳密には彼は泣いていない。ただ堪えていると分かった。自分は感謝を強要したのだ、拒んで泣きでもすれば蓮の機嫌を損ねると思ったのだろう。だから泣かなかった、頬を触る化物の手にも耐えた。加えて拒絶しない証に触れてみせた。


 ――ああ


 だから、及川を深く傷つけたのはあの中では間違いなく自分だった。

 及川から映った瞳の奥の自分は、人間とは名状しがたい。瞳には白目が黒く染まって、瞳は何故か部長がいない。紫のままだった。きっとだ、きっとそれが化物である自分の本当なら、


「どうして」


 出会わなければ良かった。


「俺だけでいいのに、巻き込みたくなかった、普通にいるだけで会えたのに。俺はそれだけで良かった、違う、本当はもっと、でも駄目だよな、だって」

「ごめんね」『ごめんね』


 いつの間にか、彼は撫でる手を止めていた。薄ら、少しだけ教室の温度が下がったようで肌寒い。声は、あの時とよく似ていた。様々な感情を煮て、それでも蓋で無理矢理閉ざそうとしたもの。隠そうとするもの、柄にもなくすぐに分かってしまう。

 ごめんね、とは。今自分はお前の話とは言っていない、自惚れているのか。そう言おうとしたが、結局口を閉ざした。勘違いで伝わったかもしれないが、間違っていない――彼が何を感じていてその言葉かは、今は知ろうにも難しいのだけれど。

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