3
「……そうだ、お仕置きしてよ」
腹部に触れられると物寂しく、部長の手を掬い上げて甲に口付ける。暗闇には白い手がよく映える。目立って、白い肌が見えるのだから手に取るのは容易く安心する。肉付きの良い指から、男の骨を硬く感じれば、安堵する。安堵、休息。自分とは違って部長は脱がないまま事に及ぶ。だからそれに応じて、深い意識を幽かにする香りが漂う。今日も、良い匂いだ。人肌につくにはほんのりと鋭くない花、ただ時々雌蕊からどろりと蜜を垂らす甘さ。
お仕置きとは言ってみたが、実際部長とはそういった事に及んだことはない。時たま、焦らすように指が滑る仕草をされることはあるが、一種の儀式だ。シガレットに火を灯し、車にラジオを響き渡らせると相似た、かすかな高揚の始まり。部長はそれに迂遠ではあるが、必ず導いてくれる。彼は、私物の一つ一つ指先で丁重に扱ってくれる。
「俺さ、貴方が欲しくて仕方ないんだ」
だからお仕置きはされたことはない。いや、どこかで粗相の躾として擦りこませたかもしれないが、自分は結局甘んじて受け入れてしまっていた。もしくは、それまで自分は、良い子ではあったからだ。少しだけ反抗的だったことを除いて、彼の前に対しては従順にいた。反抗的なのは、彼が絶対的な大人だからという本能的恐怖だからだろう。
拭い切れない、人間としての警戒心を彼は一つも咎めずに優しく待ってくれた。相手は肉親を失った少年、大きな傷を背負っていた以上物としても壊れやすいと見ただろう。丹念にほぐしていけば、自分はようやく素直になれるのだ。
だからと、口付けた手の甲から離さずに、そのまま上躯を使って抱きとめる。冷えた手が心地よくて気持ちが良い。この世界には自分以外の誰かは彼しかいない。彼に助けを求める他がない。素直になってから、感情が氾濫している。こんなにも静かに欲しいと思っているのに。
体中が求めすぎて弱くなってしまった可哀想な道具への施しがほしい。それを慈悲でも、お仕置きでも良い。今思い浮かぶあの少年の顔をかき消してくれるような衝撃が欲しい。まだ出そうが注がれようが足りない。まだ彼の顔が残って、それが胸をどうにも焦がしそうで我慢できない。何度も、何度も穿ってしまえばきっと彼の顔も忘れられる。
――何でも
だから――その手を身から離しては欲しくなかった。
いつの間にか、体から引き抜かれていて無様に空を抱く。哀れに強く触れるのは自分の肌しかない。彼から、自分の元に離れていく。理解するまで、ベッドの白いスーツにグレイの影を刻む。やや浅くから深く、と言ったところで漸く理解が追いついた。
「どうして」
抱いてほしい。もしくはもっといじめてとか。やっぱりそう言った方が、歳不相応にはしたないほうが良いだろうか。
「そうだな、私は抱くことは出来る」
「だから」
「だから私は君を救えない」
救えない。
救えない、というのは彼らしくない謙虚だ。だが適切な傲慢だ、驕りだ。だがそれは人間に対しての言葉であって、個体には意味を成さない。そうではないだろうか。
救えない。
救えないとは、自分に言っている言葉か。こんなにも自分を満たしてくれている男が、どの口でそう言っているのだろうか。お前なら出来るだろう、子供っぽい青春を忘れる情事が。お前のその青い目はどんな空の色よりも濃いのだから、自分はそれに染まれたいと思うのだ。
「救うって何が? 遊んでくれるでしょ?」
「……そうだ」
救えない。何故それを、今更。ここまで突き落とし続けていた人間が、化物が言うか。最初から、物としてすら見ていなかったのだろうか。その言葉は偽善か、言葉遊びの類なのはよく分かっている。
――俺が
人間になるべきでない理由を何一つ分かっていなかったから、ずっと教えてくれていたのでは?
この手で何度も及川を殺して、及川の前で手にかけて、その後には互いの肉で耽る。目の前で及川の危害を憂慮されてもだ。それでも自分は正常だ、正常に求めている。それが化物たる所以でなければ何だと言うのだ。それが教育の一種でなければ何だと……そう、遊ばれている。ずっと遊ばれていた。だけどずっと待ってくれるほどに優しいから、自分は許している。
――だから
せめてだ、肯定するならどうか自分に対して嘲笑ってほしい。その顔ではない、哀れみではなくて愚かだと、笑ってほしい。
「……もういい、分かったんだよ。俺は貴方の物だ」
そうすれば、人間の自分はより深く悲しむ。そしてきっと、壊れてくれる。この世界で守ってくれる敵も染め上げる味方がいないと分かって、胸の奥が砕く。次第に彼しかいないんだと気付いて、絵の具じみた甘いなにかに笑みを浮かべられる。黒い世界を紗幕にして、いつまでも待ち続けられる。
簡単だ、道具なら抱けばいい、愛しているなら抱き締めるだけでいい。どうせ後者は自分にはわからない。もう分からないなら教えてくれたって壊したって良いだろう。
縋って、部長の体を掴む……が、先ほどの香りはない。余韻の汗もない、無だ。かつて自分が淫魔を掲揚した際と似たなにもないにおいだ。縋ろうにも、縋れない。正しく泥として這纏おうとも、それすらも退かれた。
「レン」
つと、両手が首元に近付いて、そうして締上げる。ここで死ぬことはないが、苦痛はある。鈍痛。容赦なく掌で動脈を縛られて、気管ごと縊る。次第に、息が出来ずに力を失うと、部長自ら自分を押し倒して跨った。
「私にはこれしか出来ない。だから君は苦しむだろう……首都は、私みたいな人間が腐るほどいる。そんな化物に君は縋るのか」
顔が見えない。すぐ自分の目の前で絞めてくれているのに、影か何かしらの逆光からか覗けないが、彼の感触がよく伝わってくる。骨、肉、皮膚、その暴力、痛いほど苦しいが心地が良い。彼とは手が届く距離にある。それこそ、狭い息しか出来ないしあわせだ。
――今
だが、言葉をまだ理解出来ていない。
愛する人間は自分じゃなければいい、だがそれは今までの調教とは矛盾しないだろうか。それが願いなのか? 小野寺の言うことには間違ったことは言っていないだろう。自分を化物として認めさせたことで、諦めた時に自分の望みをここで吹き込むべきだ。そして今、それが熟した時だと見て取れるはずだった。
……どうでもいい。一人にしなければ、それでいい。
「一人にはしない」
ああ、何だ。もう読み取られているのか。
頭の中が分かっているなら、もう答えはあるも同然だろう。それを込みで自分を玩弄するなら、遊んでくれるなら構わない。苦しい中で、脳が貴方しか見ていない。それでいい、それがいい。
自分を締める彼の背中に、素足をまきつかせて固める。息苦しいが、不思議と彼に抵抗は出来ない。そのまま、底まで砕かれてほしくて足で軽く抱き寄せた。一人に、なりたくないのだ。寂しさを覚える前に、崩れてしまうくらいに埋めてほしい。それこそ窒息する程、自分から愛してほしいなら
「――だから、私を恨んでくれ、憎んでくれ、決して私に願うな」
拉げる、自分の首の粉砕。いやに鮮明に、肉を抉ったくぐもりを発する。響いて、響いて脳に。束の間の死に酔いながら、夢の中として心地よく回復する。ただ、溜飲は蟠ったまま……ぐわんと、脳が揺れる。死の経過、経験、衝撃を味わう。
……まだ、まだだった。まだ自分は及川を考えてしまっている。昨日の、ここの及川の顔を、彼の死に様を。彼はこの衝撃を受けながら幾百回も死んだのだろうか。いや、模造品にそのような妄想は不毛なのだろうが。
――ああ
いつの間にか、苦痛が首元から離れている。行ってしまう。乞うて、泣きそうになる。手はまだ近くにある、それを掴みたくなるのに彼はそれを払った。痛い、少し叩かれただけなのに痛い。
――なんで
なんで、ここまで捨ててきたのに。
「……私は、君の地獄であり続けたいんだ」
やっとそこで部長の顔が見れた。平素の顔だ、自分にはおおよそ合わせるつもりのない、三十代後半の白人男性。金髪碧眼がよく目立って、自分を見下ろして笑みを浮かべていた。いつも通りだ、何かに突かれた様子もなく、ただ見た物を受け入れた悠然。
――なのに
一切彼は自分に触れようとしない、それだけは――どうにも――受け入れ難く――――
■
おかしい、体感時間にしては、長い夢だったような気がする。
おそらくあの夢は、及川と泊まったあの日辺りの睡眠。そしてもしくは、嫌気で寝てしまった早朝の電車内だろう。その後起きて、共に登校して、恐らく担任から注意を受ける。それだけで、あれは長い悪夢でしかない。
もう既に、空は日が沈み始めている。それともいつの間にか、自分は授業中に寝ていたのだろうか。
「……蓮?」
だとしたら何故、及川はこんなにも自分の名前を寂しく呼ぶのだろう。何も、分かりたくなかった。
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