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「お前さあ、
「
「
二口、三口、小野寺が口元を歪ませて語りかけているが聞き取れない。無音、静寂だけが耳元に囁いたままだ。
「
反転。突如小野寺の右腕が反転する。ワイシャツを拗じらせて、音もない破壊を発する。関節じゃない、上腕の中腹部にて捻れは起こる……なにも――音を出さず……ナイロンの繊維の穴から――血を吹き出す……そして、落ちる。だが当の小野寺本人はほんの一瞬患部に目を配ったのみで、笑みは絶やさない。手元に集る蚊を目にした際の眼差し。それは片腕を隅に蹴りやることで成した。
「
未だに、静謐が満たさて、小野寺の声を聞き取れないでいる。が、彼から気を遣って話しかけることがなければ、部長から解除される気配はない。恐らく、自分には聞かせることのない、その価値がない仕事の話だろう。それも、人間と化物といった曖昧なものよりは、化物同士のもっと明確なもの。自分に介入する余地はないもの。
――ただ
部長、あの男にしては余裕がない。小野寺の人となりそのものは、ある程度あの調子から読み取れる。好奇心旺盛、飄々としているが嗜虐的。自分が生きる主人公として振る舞う反面、他人には逸脱した倫理と残虐のみを与える。有り体に言ってしまえば、瀬谷とよく似る。自分のことしか見えていない、自分のためなら他人の排斥も厭わない人間性。
――だけど
瀬谷は、部長の部下として収まっている。そして瀬谷と小野寺が通ずるものがあり、なおかつ小野寺は恐らく部長よりも弱い。それなのに、あの男は攻撃を止めることはない。両目を抉られても、平然としている小野寺に恐れを成したか?違う、何を今更だ、散々人を手にかけ続けた化物の感じるものじゃない。
小野寺は首都の人間だ、末端として頭が上がらないのでは?いいや、それでも考え難い。部長がその状態でも、彼は「夢」を拠点として情報収集を行っている。多少の成約があれど、彼がそれで及び腰になるとは考えがたい。
――じゃあ
自分に聞かされることを恐れている? 意味のないものだから聞かせないのではなく、意味があるから聞かせないなら? では何を? そう考える間際に、後ろから指で唇の端を拭われる。その手、抱き続けられた身としては、触れるだけで腰が震える。一点のみ、小野寺が先程自分に口付けた箇所のみを執拗に。
「……君好きな人いるよね?」
突然、小野寺の声が蘇る。排気ガスの排出、回転、アスファルトに染み込む躁狂も然り。これは、自分には意味があるから聞かせているのか、ないのだろうか。
好き。不意に、及川の顔が浮かぶ。笑っている顔だ。こんな状況の中でも、頭の中では及川だけは違う。自分の名前を呼んで、日向で待ってくれる人がいる。自分には、まだ。
――だけど
それを好きと言うかは、言えない。影の中は心地が良い、何をしても影のお陰で何もかも模糊にしてくれるからだ。その中で何度も、汚し続けた。その人間が、間違っても好きと思う資格はない。しかし、そして同時に、自分と同じような人間とそれを共有する気はない。
小野寺の問いに黙する。及川の単語も言わない、彼には想像の一片すらさせてやる気はなかった。
「いるか、だからこっち側に行きたくないんだよねえ。嫌われたくないって」
「……戻れないって言ったじゃないですか」
「戻れないよ? ここおかしくなってるし」
ここ、と小野寺は自らのこめかみを人差し指で軽く叩く。頭がおかしくなっている以上は、もう及川と似た人間の何かは分からない。その意味だろう。
壊れてる。その自覚は、ないわけではない。悔しいが、自分はもう普通の人間ではないことは分かってる。皮膚の下の肉は、幼児と惑わすただの獣であると、何度も教え込まれた。
――いや
違う、そういう意味で彼は壊れていると言ってる訳ではないだろう。もう止めてしまっているのだ、人としての抵抗を思考を。
もうこの体に慣れすぎている。毎日精神が相反してやまない。空虚だと感じて、満たされることを求めていても、注がれることが恐ろしいのだ。部長や及川にせよ、非日常や日常にせよ……「何もない自分」が失われてしまう。埋められて、自分がどうなるかが皆目検討が付かない。
――なのに
差し出される手には縋りたくてたまらない。握ってくれるその手を離すのが嫌になる。何もないくせして、触れられる度に自分がここにいると感じてしまう。それに救いを求めてしまう。
だからだ、部長からの淫行にも応じた、彼はその点については実に律儀だ。
「まあどの道愛されてるから救われるよ」
手についた血糊を丁重に舐めながら見遣る。自分を。眼球はもう修復されているのか、また赤い瞳がこちらを除いていた。男、血を啜る音が聞こえる。わざと立てながら、自分を見ていた。
「それにアイツ思ってるよ、レンが好きな人は私だけで良いって」
――なら
蓮と呼ばれなくてもいい、いっそのこと閉じ込めてくれないだろうか。
夢のような暗闇の中で縛り付けて、一人に見惚れるような日々。撫でられて抱かれるだけに終始する日々、そんな日常を作ってくれないだろうか。道具としても処理として扱っても構わない、何だっていい。何だったら、ワンのように手足を切り落としても構わない、違って義肢を付けなくても良い。サディズムを刺激したいなら、精一杯藻掻くように振る舞う。足は股を開くために、腕は背中にしがみつく為に生きるから。飽きたら捨ててしまえばいい、これは貴方の物だから意思はない。それで終わるような関係で居続けたい。
――早く
早く、自分を壊してくれないだろうか。カサイレンを忘れてしまって、幸せを塗り替えてほしい。笠井蓮は、生きていて苦しい。生きなければ良かったとすら思えて止まない。息をしなければ、何も余計なことを見なければ、及川に会わなければ。貴方が父として、上司としてじゃなくて、ただ一人の支配者にでもなれば、幸福だろう。こんな今の自分の中だったら。唇を拭った所作を、ただの優しさじゃなくて、所有として欲しい。
「そういうとこじゃね? 知らんけど」
声で
彼、小野寺清という男は、彼の言葉を借りるなら戻れない人間に相違ない。この精神性とこの気配、戻る気も更々ないといった調子だ。断面、切れた腕には断面がない、ただの黒い何か、そこで適当に血を流していると分かった。分かりやすい化物の特徴、ある程度は死なないのだから、こうして部長を茶化すこともできるのだろう。自分が、この先どんどん深みにハマればこうなる。
――だけど
だけど、自分はそれさえもなれない。機関に入ることは孤立を意味すると同じだ。孤独に耐えられない自分には、到底届きそうのない世界にある。
「んじゃあなカサイクン、首都でオシゴトして待ってる」
とはいえ、帰れないのだ、自分には。小野寺とは違って、自分にはどこにもない。どこにも決められない立場だから、致し方ないのだろうが。
――――――――――――――
――――――――
――――
「――って、夢を見たんだ、おかしいでしょ」
その後はどうなったか、夢のくせに覚えている。
あの後、小野寺が一方的に別れた後、及川に会うために学校に向かった。そうしたら血相を変えた様子で、学校外を走り回っていた。どうやらこの及川は、敵に追われているらしい。敵は、人の形をしているが随所蔦のような物が見えていて出血もしない。どうやらその敵は、自分に用があるらしい。自分に目を向けると、それまで追っていたはずの及川を突き飛ばした。自分は死ぬのが嫌だから、及川の可哀想な顔に引っかかったから、全部壊してあげた。その夢は数十体くらい敵がいたが、夢の中の自分はどうやら強かった。敵を沢山素手で砕いても何も痛くない。部長が介入する気配がなければ、自分はどうやらそういうことを望んでいたらしい。子供みたいな破壊衝動だが、子供だから仕方ない。
――アレは
夢だ、だが変な夢だった。及川が笑わない夢を見た、悲しんでいるかもしれない。自分が目の前で助けてあげているというのに。お前を突き飛ばした敵も、首を捻ったり頭を砕いてやった。それなのにありがとうの一言も言わない。自分はそれに深く動揺した、夢なのに。
「私を差し置いて?」
部長の手が腹部をなぞって、ほんの少し体を強張らせる。嫌気はない、それよか先程達してしまった身として、空っぽには心地よくてもどかしい。その指がもっと下に行けば、自分ははしたない声をあげて馬鹿みたいに吐いていた。その時が甘くてもどかしく、中の肉が蠢く。きゅうきゅうと、締め足りなくて泣いている。
足らず、言葉を拾って嚥下する。それはサディズムの意味で不満だろうかと、シーツに沈んだ。夢の中で唯一柔らかく感触のあるもの。衝撃を分散するには心許ないが、逃げられずにずっと一緒にいてくれそうで、密かに好きだ。
――好きだ
こうしていたい。暗い夢の中で何度も自分を掻き出して欲しい。際限のない暗闇の天蓋が及川の幻を描く前に、口付けをして抱きしめて欲しい。
――好きだから
及川に化物はいらない、非日常も彼の前にいてはならない。
自分は所詮化物なのだ……だったらもう、及川に
その為にも、深く抱いてほしかった。
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