【笠井蓮/Magnolia】1

 澱んでいるのは空気か、それとも自分かは定かではない。ただ陰に塗られたビルの裏側と自分の髪が同化していると感ずると、妙に安堵した。ちゃんと、混じっていると目で分かってしまうからだろうか。ともかく、目に沁みる青空よりも優しい。

 空は、今の自分には強い。ビルによって小さく切り取られようが、鮮やかに爽やかで、それがやけに胸を刺した。じゅくじゅく、心臓に刺して痛い。自由になって、また空っぽになってしまった体には堪える。あの後、シュウと別れた直後に体の憑き物もまた奥に潜めた。行き場のない足はふらついて、そうして、懸念した通り首都の男に当たってしまった。


「……ま、俺は君が足でも引っ張れば良いんだけどさ、アイツTから離れないし」


 加えてそう言い、首都の男は手にしていたメモを見せた。ただ一つ、「Be quietお静かに」のみが、太く幾度と重ねながら濃く書かれている。聴取で書くふりをして遊んでいたらしい、やや遊んだ茶の前髪から見える瞳は笑みで歪む。

 赤い目だ。陽が眼光として宿すときららかになるが、自らの終わりを知ってしまった太陽の色をする。あるいは、死さえも分からない失血を繰り返した戦士の血。悠然としながら諦観を湛えているが、お前よりは楽しい人生を送っている。そう言いたげな眼差しを向けていた。それば確かに「俺」と一人称を変えることに適して、恐らくそれが本性に近い形なのだろう。無駄な御託と言い分を並べる暇があったら黙れと、暗にそう言う。


 そしてそれもまた、大人なのだろうか。小野寺、小野寺清オノデラキヨと書かれた名刺よりも男は黒く、名よりも汚れている。声は軽く、小娘が垢抜けて巻いた髪を撫ぜたがるフラット。しかして、それだけではないとやや伸びて厚さを生むウェット。聞触りは良いが、悪酔いのするこえだ。

 アイツ、小野寺の言うアイツは、部長だ。確固たるものはない、台詞で察するにはあまりにも浅慮だが、確信はしていた。部長の立場は、大まかだが知っている。部長が指揮を執るここTは元々あるべきものでもなく、一人の人間が無理やり作ったもの。そして部長はそこに留まることで壊されることがない番犬の役割を果たしていると。だから強制的に解体できなければ、首都側の小野寺も思う所はあるのだろう。


 ――ただ


 足を引っ張る、というのは自分が仕事をしている上での話だ。しかし実際、仕事そのものすら与えられていない。彼らは何をしているかは知っている。怠惰国は今何に苦慮をして、極秘に特派員を流していることは。そして特派員は部長と繋がり、彼らは黒幕に対して何を期待しているか。そういった、首都が垂涎する下っ端の小細工を知っている……そう、知っているだけだ。その関連人物に自分はいない、ただ道具としての自分のみ。自分がどう使うかと考えるために、用意されてはいない。

 だから、そう、足を引っ張るまでもなく、自分は最適に活用されているに過ぎない。部長のもとで決められた役割をこなして、時間ばかりが過ぎていく。その享受が、息子としての自分の責務だろうか。


 ――ない


 それ以外はない。故にこれ以上は有り得ないのだ。「自分が足を引っ張る」のなら、彼は対等に自分を社員として見ていることになる。確かにそれに見合った知識はあるが、それでも対等とは言い難い。足を引っ張る場が与えられるほど、彼にまだ認められているわけじゃない。


 反芻する。彼らの際会を、恐らくいくばくかの再会を。

 一般人を利用する前提で、エダという犯罪者を炙り出すらしい。話によると薬はとても凶悪なものだったが、それでも探し出す手段として、一時の傍観を取る。そこに手伝う自分はいない。邪魔する自分も、及川に伝えてあげられる自分だって。何一つ、立会を強制されたのみで関わり合える機会は与えられていない。

 それは、本職を務める小野寺でも分かっているはずだ。こんな所在のない男を見て、本当にそう思っているのか疑わしい。目見からは嗜虐的な、快楽的な、いわばそういったろくでもなさは垂れ流されている。そしてそれを手で現して指で弄くり暴いた人物の真下に、自分はいた。

 それを、この男が……知らないと察しないはずがない。とうに察して、答えられないと知って答えのいらない問いを投げるだけ。顔に出してはならないと、表情を変えない。


 ――駄目だ


 答えるな、答えると、まただ。応えとして、隙という隙で声と指とで埋められる。がらんどうなのは分かっていても


「……飽きそうなんだけど」


 不覚に、空いている首に手が。喉頸が手中に。

 ぎりぎりと、音が聞こえる。気管と喉の管を擦り合わせて、潰しかねない握が襲った。締めて、絞める。血骨から潜り込まれる指は、男らしさと離れて若干の細さだが、力強い。両腕に爪を立てるも、それが拒まわない。ただ一定に、強い。


 ――待てよ


 無理もないが無理な焦りだ。今の一連には一貫性はない、彼は自分の虚偽に激しい憤りを感じたか。否、自分を見つめる目は好奇心に満ち溢れている。彼は自分のような人間をいたぶるのが趣味化。是、いや否か、それも怪しい。パターンが判然としない。嘘だろうと、言わせる気もない。

 息苦しさに、口端から唾液を漏らす。戻そうにも脳の血液が圧迫を初めて平衡を失う。どうやって、舌を回すべきかも何も。落ちようと肌を擽る唾液を、小野寺の視線は追う。きれいに、上から下へと眼球を移す。

 それが今の楽しみか、小野寺は顔を近付けて口端の唾に口付ける。次第に、舌を出して舐める。生暖かい舌が、肌に触れた。それは、肌はまだ柔らかい、舌先だけで壊れてしまいかねないくらいに、弱い。啄んで、唾線ごと吸う。ただ微かな吸込み、それだけなのに肌の一点は程々に火照る。

 抱き締められる。そのまま胸の厚さ、男の肌が、制服越しに擦られて、手は腰を撫でる。


 ――いや


 手かは分からない、何故なら今もまだ首を締められている。だが同時に両腕が腰を這う。そして空っぽの中にも手が、擽ったさと似た形で沈められた。


「目が綺麗じゃんね、エスとおそろ?」


 反転、小野寺の胸元ではなく外界へ躰幹ごと回す。その前、路地裏には人が行き交うが、誰一人として自分達に目を向けるものはいない。空も然り、等しく変わらず。


 顎を掬われて、無理矢理上を見上げさせられる。彼が誘導したのは、広告に映る男性モデルだった。名前は、同級生が話題の一つにしていたから知っている。丁度、今年の夏ごろに白人男性が異国の地を駆ける時代劇風味映画が上映するらしい。

 何度か、主演に映る男性はワイドショーのインタビューに快く応える姿を見ていた。その目、彼の眼は海よりも深いが、空よりも明るい。泡沫が映す、束の間の積翠、そして混翠、翠。宝石とも喩えがたい、人からの研磨を必要としない目を形の良い骨の穴に嵌めている。英国、硝煙と血を海で洗い金を齎す平穏の国の人間らしい。あの男も、広告の俳優に似た姿をしている。なら自分はそう見るべきなのだろう。


「俺さ、あの子のファンなのよ、で、君の色は青ってわけだ、ヤツも青、シンパシー感じね?」


 なんで


「気になったから、っていうか今更、何失っても変わらないでしょ」


 乾いた何かが、目尻に深く。

 両腕で抱き締められているが、首は締め上げたままで、また何かが顔を、顎を掴んで離さない。眼窩から細く入り込む、痛み、導線を分かつ違和感。それは腰を小さく震わせて止まない。どうやって引き抜かれたか、あの痛み、それが何度も自分の記憶を磔にする。

 抜かれる、心臓の鼓動が止まない。抜かれてしまった穴はどうやって埋めたか、あの狡い大人が。そうして自分はそれに縋り続けているのだ、何度も。


 ――嫌だ


 包まれている。他人でさえ、心地が良いと思ってしまう。そんな自分が、彼と相反して遠ざかっている。それは、それは――


 ――「」――


 突然、体は小野寺から引き離された。地に、転がり彼からの距離が離れる。喉が、外界からの空気を求める。排気を入り混じらせた不快感を押し載せて、吸込む。長く、絞められたらしい、唾液がコンクリートを濡らして黒い染みをつくる。光の直射で頭が鳴る、重く、血液が蠢動して吐き気を抑え込んだ。求めるがあまり、迫り上がる。

 何が、と、理性で冷ます間にも事は行われていた。小野寺に目を遣ると、彼は一人でに両手を使い自らの目に突っ込んだ。摘出するか否かも、判断さえ窺えないまま暴力的に捻り込む。


「こっわあ」


 小野寺は、矢張りある程度は化物らしい。苦悶を見せない、端に見える口元は笑みを表している。

 現状が理解出来ない。先程まで抉らんとした男が、今度は自分を突き放して自分でやろうとしている。不意に、いつの間にか汗が顎まで滴っていた。それは、気付かない内に額から顔を通過したらしい。


 ――「君は、首都の人間だろう?ここまで仕事を忘れるとは思わなかった」――


 次は空、早く流れる雲の端がよく見える。建物から建物へ移る鳥が、気持ちよく翼を広げる前に着地する。広告塔からのCMは途切れて別のものに切り替わる。鼓動、続いているが、間隔に妙な誤差がある。息も少し早く整えていたらしい。

 どうやら、今自分の意識はどこか途切れている。とはいえ危篤ではない。体は快調に向かいながら、ただ理解できていないのは脳だけか。


 ――まさか


 助けている、というのだろうか。中に潜むあの男が。


 ――「つくづく失望する」――


 ……頭を振る。そんなはずはない、最早価値なんて使われる以外にない自分に。

 考えうることは、首都の人間に油断を見せたことへの措置だろう。そうであれば、またきっと、どこかで詰られる。隙を見せてしまったから空いた分を彼が補填される。そして、それはまだ自分が使えるという証明でもある。まだ、捨てないでくれる。

 お前はもう戻れない、小野寺のその言葉が頭から過って、満たされない無い肚が疼く。ああ分かる、戻れないのかもしれない。もう人前で見せられないくらいには汚れている。だが必要とされていない以上、彼と共に行くことも許されない。

 戻れないのなら、自分は及川の侵略者でしかないのだ。日常を穿つ非日常として、冷静に考えれば、自分自身が及川を巻き込んでいる。


 ――寂しい


 いらない。その感情はいらない。それは誰にでも漬け込まれる弱点。捨てられるだけのものだ。惨めでしかない。及川にそれを見るには、あまりにも救いがなさすぎる。


「……いいねえ、愛され体質じゃん」


 やがて、小野寺は両指を引き抜いた。頬は眼獎と血が混ざってコンクリートを汚す。白身と似た何かが床に散らばっているが、あれが目なのだろう。


 喧騒は、今も続いていた。

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