2
鎖と南京錠で縛り付けられた屋上の扉前、照明もない場所での呼び出し、やけに長っ怠い前置き。やはり生徒間かつ交際関係が示唆されるものについては、担任は黙っていられないらしい。五限目の教室移動を見計らい、長々と話したか廊下からの人通りがやけに少ない。
耳を澄ませて、教室とは反対の職員室に向かう担任の方へと集中する。真後ろに彼の足跡はするが、一人生徒が担任に向かって話しかけていた。カガミンと、愛称を込めて呼ぶ、恐らく隣クラスの女生徒だ。担任が若いから波長が合うか、ベビーピンクのマニキュアを死んでも洗い流そうとしない彼女は、よく彼を捕まえる。そしてマイペースに、自分で裁断されたスカートを振りまきながら駄弁る。
深く、ため息を吐く。彼女に捕まったら風紀もろもろの問題でこちらに目が行くこともない。悪態を存分に尽けるなどと、ほくそ笑んだ。その後、急に出てきた香を諫めることは必要だが、その前に教室だ。
――ただ
松川がまだそこにいて、あまつさえまるで自分を待つように佇んでいる。にやにやと。
スマートフォンの電源を入れるが、予鈴の二分ほど前になる。次の教室は近くもなければ、その教師は遅刻にやたらとうるさい。用もないのなら、この時間帯なら行くべきなのだが。
――いや
理由は分かっている。担任が気を配って屋上前に呼び出された以上、クラスメイト間で何も起こらないわけはない。皆口外には出さずとも、言いたいことはちゃんとあれば、これをコミュニケーションの手段として用いる。事実は、噂として流れているのだろう。本人に聞いてしまえば手っ取り早いというのに、憶測が好きなのだからそれだけは伝播している。
蓮については、一人で登校した際誰もその指摘をすることはなかった。が、視線だけでよく分かる。やっちまったんだなと下品に、フラれたんだなと憐憫に、どうなったと好奇心に。仕方ないが、どどめづいた視線を浴びていた。
「で、笠井とトラブった?」
言うと思った。
クラスの中でも比較的活発で、しかも口が恐ろしく軽い。むしろ聞くのは遅い方だ。防火扉に寄りかかって、それを言うためだけに帰りを待っている。本来クラスの前でおちょくるような男には、らしくない。
余程、自分が情けない顔をしていたのか、頬を触る。柔らかい、それでいて張りがあるが、口が堅く結ばれたままだ。何も言いたくない、何も聞くなと言いたげな固さ。何時の間にか、笑っていなかったらしい。
「なに」
「……ああいや、迷惑かけたかなとか」
迷惑、らしくもなく、不意の弁明からそんな単語が漏れた。
迷惑。迷って、惑うと書く。それは迷路なのだろう。いくつもの、多くの道があって、増やされて、進む側はひたすらに正しい道筋について悩んでしまう。それが人の手で作られたとして、善意でも悪意でも複数の道を目の前で作られる。それによって混乱する、困るのだから皆憤るのだろう。
蓮は、それから逃げる人間だ。迷惑だと口しないで、状況が来る前にもそこから立ち去ってしまおうとする。迷う前に、そこから立ち去ってしまう。
だからだ、彼は望まない何かがそこにあればどこかへ行ってしまう。反対に言えば一度受け入れたものは、もう拒まないものと思っていた。それでもなお、三輪の影響力が強いのなら仕方ないのだが――いや、それは、やめよう。今の自分は蓮を待ち構えている。あの男のように二度と離さないという意気は、良くない。彼と同じようになってしまう。
――でも
だが、もしもだ。蓮は自分のことを迷惑と思っていないどころか、どうでもいいとさえ思っていたら? そう考えるだけで、心なしか胸が騒いで仕方がない。
今日は、暑い。蝉も鳴らない、命のわびしさもない、平穏に穴が開いている。隣には誰もいなくなったのだから、より一人だけの汗を感じる。より、暑さが苦しい。
「……笠井にとってお前みたいなのレアだと思うし、一人にさせないでほしい」
「何、僕を責めてる?」
「ちがくて、お前しかいないの」
「……知ってるなら、太陽も付き合ってよ」
「俺は住む世界が違うっていうか」
何だろう、妙だ。松川に励まされている。野次馬根性と諦めの悪さで話しかけているとばかり思っていた。が、まさか励ます立場になるとは思ってもなかった。
お前しかいない、お前しか。その言葉を反芻して、教室を見渡す。誰もいない、後ろに退いたままの椅子があちこちに散らかったまま。綺麗なものは、日差しに反射して屈折する軟水のペットボトルのみ。そこにひとり、彼は窓際にいつも座っている。それが常だった。
教室移動には最後に行く。誰もいなくなるまで、鉛筆か単語帳を手にしているが話しかけたら答えてくれる。常習者でなければ、すぐに顔を上げてくれるらしい。その眼は透き通った菫色で嫌な気はしない、話しやすいと同級生も理解する。話してみれば口下手でもない、ほんの少し表情が硬いだけでフランクな口調。
――蓮は
蓮は、本来そういう人間なのだろう。一人が好きだけど、集団にいるのも嫌いではない。話しかけたら拒絶しない、静かに応じる。風景の一つの絵画として自分に取り込むように。透明感、それだろう。一人でいる彼は、寂しさを感じていても虚しさはない、ただ彼は自分のあるがままに生きている。
――それは
見ているこちらが不安になりそうで、触れたくてたまらなくなってしまう。溶け込もうとしている彼を、どこかへ行ってしまう前に自分が留めておきたい。なんて、それは詩的でふわふわしている。だけどそれが一番近い。その腕を掴みたい、何かに取られてしまう前に、自分から離れる前に肌から体温を感じたい。絵には映さない、あの瞳は何を映すかも知りたい。紫の瞳は、昼と夕の空を混ぜない。黎明なのだ、溶け込めるからこそどこにも寄ることがない、限りなくゼロに近い混淆。それに、自分を。
――でも
それは自分には出来るかは、分からない。いいや、出来ないにも等しいのだろう。現に彼は行動には従っただけで、結局は離れてしまった。結局は奪いたい面では三輪と同じなのだろう。醜くて、欲深くて、それが行動に飾り立てるのが一枚上手な男に負けてしまっただけ。
「笠井が幸せになるって、父親がいなくなるってことだろうけど」
意外だった。
それは本意ではあったのだが、言うに憚れるものとして黙っていた。あの男は見てくれだけは良い。だから無愛想な息子を持つだけで、人は彼のことを憐れむ。そして、あまりの健気さに胸を打たれるのだから、こぞって彼を賞賛する。いなくなればいいとなど、間違っても人には言えるものではない。
篤実な人柄は必ずしも賢明ではないから、義母ふたりも気付いてはいない。立派なお父さんで笠井君がいるのだから、アンタもしっかりしなきゃならない、と。社会とは個人をいかに乖離させて集団に馴染めるかの必要性も伏せ持つ。彼がそれにおいて優秀な限り、ずっと彼は認められ、そして許され続ける。だから明らかにはならない。
「わかってんじゃん」
まあなと、彼は小さく頷いた。直ぐに訂正をしなければ、失言したと気落ちする様子もない。本心、として受け取って構わないとのことだろうか。周囲は分かっていないのだが、松川は、存外分かる側らしい。昼の、夏の風味を運ぶ日差しが窓から松川の肌を差す。もう少しほど焼けている実りそうな麦色の肌と体格。実直すぎる性格は知っていたが、多少柔軟らしい。
その合間に予鈴が鳴る。急いで自分のロッカーから長く閉じ込めていた教科書とノートを取り出した。蓮は、結局休むのだから5冊分ノートを綺麗に書けば良かったなどと、そう思った。
「もしもだけど……アイツがそうなっても、いつも通りに接してくれるか?」
松川はそう言った。珍しく調子を落とした声だ、ロッカーで後ろを見ていない自分でも、いつもと違う気配は感じ取れる。安心と気が緩んだかと思えば、悲しそうな、言い聞かせるような一定しないもの。表情が分からないが、このとき彼はまるで子供に目線を合わせながら話している。それと類した柔い口振りだ。
「……分かんないよ、そんなこと」
ただ、彼はどうしてそんなことを言ってきたかは分からない。何故父親がいなくなる前提で彼は話しているのか、そしてそれを自分に向けて大丈夫か、等と言えるか。
――決まってる
そうなったとしても、自分は蓮に話しかけられる。いつもどおり茶化して、適当に抱き着いて、好きだの何だの言ってしまえば。それが自分がいつも通り作っていた生活だ、日常だ。恐らく、彼にとっての非日常的、日常だ。
ただ怖いのだ。自分がそれに甘んじて絡め取ろうとする三輪になってしまうのではないか。蓮にとって、自分も風景の中の一つになりやしないか。彼はずっとあのまま、独りになり続けるのではないか。それが怖くて、何より蓮が不安でならなかった。
「なんかさ、今日おかしいよ」
ただ松川如きに見破るのも癪だ。癪だが、八つ当たりはしたくないので、ロッカーを静かに閉める。錆びた鉄が軋んだ音を立てて、それだけ。すぐにでも忘れそうなその音は、いやによく聞こえる。どうせまだ蹲っているままだろうと、言うみたいに。
律儀に待っていた松川は、既に教科書とノートを小脇に抱えている。いや他に一枚、A3を畳んだらしい紙切れもだ。
「お前よりはマシ、一日中機嫌悪いくせに」
「悪くないけど……てかレポートあった?」
「あった」
すぐにノートを適当に開くが、幸運にも自分の物はある。事前にやっていたせいか全て埋まって、その日にやり終わらせた宿題だと思い返す。その隣には蓮がいた気がするが、今日はどうだろうか。
あの教師は、欠席者に後日提出してくれるかどうかは分からない。ひとまず自分が代わりに出して、評価が付けられたことに後日感謝して貰おう。
――誰だ
時間はない。蓮の物を机から探すなら急ぐべきだが、教室のドアから誰かが覗いていた。覗いている。更に言えば、様子を伺う、その動き。微動だにすることはないが、何も言わず教室の中に入る。容姿は、中肉中背の20代半ばか、顔は見覚えがないか忘れているほどに普通。髪は、黒くて短い。
――目は
目は、生きていない。まだ水分や粘膜はある、自分を視界に捉えて目を合わせたまま動かない。なら彼はどうしてか自分を目的に見ている。ただ、自分を人として真っ直ぐ見ているかも怪しい。
動いている、足音はするが、それ以外な何も。不気味に足というパーツを使って前進する。その違和感さえある。
――何
前触れなく、彼から緑色の何かが瞼から生える。にゅるんと、そしてそのまま外界に出ることを過ちか、大人しく瞼の裏を潜って終わった。一秒でも見逃したら分からない、小さな変化だ。だが、異常だ。
「……■■か」
松川の声がよく聞き取れない、だが明らかに軽いものではなかった。舌打ちをして、忌々しく誰かに唾棄をする。それはその目の前の男かは分からないが、松川は明らかに嫌悪した。
殴打。まだ一言も口にしていない彼を松川は殴り飛ばした。机と椅子が、男性が飛ばされた拍子に飛ぶ。
衝撃の余波はこちらにも伝う、男は確かに吹き飛んだ。やがて硬質な教卓に背を強打して、唾液を撒く。痛いとも、苦しみがることはない。攻撃した松川ではなく、まだこちらを見ている。
――いや、そうじゃない
それもおかしいが、まだある。吹き飛ぶ所作をしていたと言うのに、音が一切爆音として鳴らない。そのまま静かに机と椅子が乱雑に落ちる。あるべき音はない、食われた、丸呑みにされたみたく。
あるのは屈折音。儚くて、水っぽい。それが骨折の合図とは、男の腕があらぬ方向に曲がって初めて知った。
「聞こえるか」
威圧。威圧のみを加えて、問うことをしない他人を圧すだけのもの。男はそれに問わない。聞こえないか、そうじゃないのか未だに自分を見つめている。
近寄った松川は嘆息して、男の顔を踏みつける。一度、二度、三度、爪先程度に踏み締めた後、次は靴裏で蹂み潰す。何度も、血がようやく出るまで彼の頭部を叩き潰す。やがて自分の方を見なくなる。正確に言えば頚椎を折り曲げるまで、その所作を続けた。
「……後で全部話すから、待ってて」
松川はそれを上履きの下にしながら、自分を見ずに呟く。悲鳴、自分の口から出ない、自然と。夢だと体が拒否しているのかは分からない。ただ、この先何が起こるか分からない。分からないからこそ、松川の言葉が受け入れられる。恐怖はきっと、あとから湧いてくるのだろうが。
そこでようやく、チャイムが鳴った。それだけは現実とやけに似た――いや現実そのものだった。
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