6
「気絶したのか」
ただ一つの死に対し、彼はこう言った。
慟哭はない、憎悪もない、静まり返った波紋のない水面そのもの。いや、例えるとそれは氷なのかもしれない。飛沫をつくる小石を寄せ付けない、漂わせる前に弾いてなかったことにするだけ。拒む、それが今の彼に対して最も正しいのかもしれない。
床。赤く染み渡らせた事実を、彼は指の腹で滑らせる。無意にすべらせて、あてもなく、掠れて途切れるまで、セヤは指についた血をなぞった。
それは何を意味しているのか分からないが、図でも、文字でもないかもしれない。何でもない、無意味。それを指に塗っては払い落とすだけ。
――いや
意味はないか、ないように振る舞っているのか。セヤはこの血を、この液体を舐め取ることはしない。それは、衛生管理とは埒外のもっと他の要因だろうか。気絶、彼はザクロの状態をそう表現した。なら、そう、彼の見ている世界はザクロが安らかに目を瞑っているのだろう。瞼、顔と皮膚を身に飾り、埃をまとえども洒脱にした身なりで。血溜まりと粘った黒髪は瞳に移しただけで、何も。車の真下で立たれた肢もまた、彼にとっては胴に繋がっている。
本当のところは分からない。感情とリンクしていることはない。ただ、それは嫌でも分かってしまう。受容ではなく、拒んでいる。類するのはかつての標的の遺族に備わっている、脆さそのものだった。
「……死んでるよ」
ほんの少し項垂れたセヤの顔、そこから眼が端のこちらに遣る。金の瞳だ。原初とも原始とも言えないもの、中途に立たされて羨望のみを受けた孤独。まばたいて、また自分と目を合わせて、そうしてぼうっと見つめる。視点は定まっているが行き場はない。
「不謹慎」
綻ぶ、薄く紅を乗せた花が咲くように。諌めない、憤りを見せない。
微笑んだが、それも行き場所はなくなっていた。自分を見ながら自分に向けて話している、それなのに強烈な気味悪さだ。これが自分を全く見ていないと、それを証明してさえもいる。
一滴。静かに、前髪から雫が滴る。セヤの髪色とは翳る赤、まだ生気はある血だ。セヤには呼吸の乱れや汗もかいていない。緩やかに見せる男の顔として、ただはっきりと見えている。
穏やかな顔だ、下に下へと流れる他人の汚物が、輪郭を刻んで整えてより濃くする。
――敵は
周囲の気配がしなくなっていた。ザクロの方は、あのまま巻き込まれているのだろう。だが恐らく同じ条件下のはずのセヤは、五体満足でここまで歩いてきた。
まともに相手した人間は生きているかはさておき、彼は現状無事に近い。苦しがる様子はないなら、酷く付着した体液は他人のものか。
――どうして
何故、セヤはそこまでしてしまったのか。彼は最悪手よりも、他に解決策を持っている。必要以上の自衛と防衛は、彼には必要ないはずだ。
「……悪かったよ、変なこと言って」
「殺し屋だしな、仕方ない」
理解してしまう。この男は何も見えていない。見る意志そのものを放棄している。現実を受け止めることさえ出来ていない。
首より下を一瞥する。処々芽は生え無傷とは行かないが、早朝の研究が功を成したか、成長は止まりきっていた。それを覆う真紅、余程派手にしたのか、袖口から重く雫をつくる。当たり前だが赤い、そして黒く汚濁して、また一つは床に、か細い音を立てて。
「コイツも俺も、死んでもおかしくないけど」
本心で言っているのだろう、だが本意には言っていない。それは頑なに、今で示している。目の前のモノに目を向けようとしていない。あの断裂された肉を、破片を、液を、音を。
「でも良い奴だろ? 殺すような奴がいたら見てみてえよ」
「今の敵はそうだけど」
「だな、だからこいつを殺すような奴は化物しかいない」
当たり前のことを、さも当たり前のことを言う。セヤ達が相手をしているのは、自分でも非現実と分かるものだ。ヒトを植物に変える化物、意のままにする者。それを自分を巻き込んで、数日も探しているにも関わらず。
優しい、その感性がセヤにあったことに驚いているが、酷く短絡的だ。浅はかだ。優しいから殺されるはずはない。そんな世界は有り得ないと自分でさえ知っている理を、彼は断っている。
――化物
化物、という言葉に引っかった。それは人間と大別させている。魔法のみを見てきた彼が彼らしくもなく、人間を区別する表現。極端だが、彼は偏見もなしに自分を見ていることは理解している。ある点がなければ公平に無価値、平等に虚無。
「化物しかあいつを殺せない、人間じゃない。だけど俺が倒せる奴は化物じゃないから、いるかも分かんないけど」
矛盾している。それなのに何も疑問もなく言うから、彼は矛盾しているとも思っていないのだろう。
しゃがんで、車の底に手を伸ばす。そうして彼は残骸を掻き込み出した。上部からの圧死、水風船をプレスした形か、内蔵物は一部すり潰されても取り出せる。煤で汚れきっていても、一つずつ手前に引き出す。濡れそぼった音を立てながら、他の血が水溜りに跳ねて混淆しながら。
そのひとつの内、彼は慎重に取り出した。眼球だ。運が良かったのか、片目だけ目の裏に張り巡らせた管を指に巻いて救う。白目にはこびり付いた返り血を指で拭って、目線を自分のものと合わせた。ザクロの目の色は、よく覚えている。早朝の6時には眩しくて、10時には穏やかな、朝の花の色をしていた。セヤもあたたかい、それを腕の中で見ていたことすらあった。
セヤはそれにくちづけた。軽くて深いものでもない、目に小さなゆがみも与えない細やかなもの。目を伏せて、唇のうすい曲線で味わうだけの戯れ。膝をついてそれを抱き抱えるようにするまで、彼は続けていた。
長い接吻だった。跪いてから、アスファルトの地がセヤの一点で金に発光を帯びた。セヤを取り囲んで、抱いて、退けるように。
「ここには誰もいない、
理解、してしまった。
彼は最初から人間を人間として見ていないのではない、人間すらも見えていない。今から荒唐無稽に生き返らせようとしている、ただそれも無意識下のことだ。どうせ気絶した男が目が覚ましたと思うだけ。周囲の死の気配、セヤの衣服も白く洗い流されている。それらを贄としてつくってしまうことも、きっと彼は知らない。
彼は自分を化物と自覚することはない。それは彼を殺してしまう要因に足り得るからだ。見殺しにしてしまった化物として、認めてしまう。それすらも彼は乗り越えられないものだと、知ってしまった。
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