4
――落ち着け
男は急に後退りした自分を、不審そうに近寄る、そして不思議そうに様子を伺っている。
それはまるで、石を投げられた暴挙を認識出来ていないように。男は走らない、走れないのだろうか、歩くままの足には補助か蔦が絡む。服の上の歪みからであって患部は分からないが、どこにも血痕はない。いや……不自然に盛り上がっている腹部か。蔦の様は暴虐、肉を抉り皮膚を裂き骨を削る痛み、それも彼は気にも留めていない。蚊に刺されたもどかしさすらも湧かないか、廃れたか。
――似ている
かつての自分と。この男は操られている意識を殺されている、呼吸、心臓を打ち脈打てど、それだけ。それだけの人間の動き方をする無意識の権化。
知能が生かされているだけ、ゾンビよりも厄介だが、運動機能の低下は
明らかに自分よりも症状が悪化していた。それは何故か、どうすれば遅効かの対策を取るにも遅く肉体が草に成り代わっている。全て草になればまだしも、臓器を除いた肉と骨と神経を草としての代替。これが急速に毒を巡らせている。
――ヤクのように
喩えではなくそのままか。女性社員は自分を裸にしてまで調べた上で、自分は薬物常用者ではないと分析された。それが遅速に関わるかさておき、効率よく発生されるのは間違いなく自分達に当てはまる。そして鼠は荒溝のみに生きて、うじゃうじゃ。女性社員が口外した同業の失踪にも説明がつく。
ともかく、と距離は離れる。セヤからの切除作業を間近で見たが、彼は直接の少しの接触だけで片腕を失った。手配師とは最も近い距離ではメモの受け渡しだったが、指すらも掠めないことから異常ない。厄介なのは、手配師が未だに分からないことか。
――来る
鬼気が。鈍足で、愚直だが、止まることのない生命体を交えて。
周囲の等類どもの動きは見られないが、照準が自分に定まっている。その危機を、確かに感じ取っていた。囲まれているとは言えない離れた距離だが、どう逃げても追われる危険性は免れない。
どうするか。
セヤからの治療で五体満足には動ける。ただあの個体は、人間の限界を無視して操縦する特性があった。このスピードならすぐにでも逃げられそうだが、予想だと多勢。同類ならば素材の良さから、半径百間隔で配置されたなら持久戦は望めない。自信のなさではない、彼らは死んでも使われる。接触してしまえば、また元に戻ってしまう。
ともすれば、単純に自分への強襲はおまけか。自分は一般人であって、多勢の一つに加えられる要素に過ぎないと言った処。なら目的は、その解除が出来るらしいセヤ達のか。セヤは良いとしてザクロ、彼はその術を知らない。
――逃げることを優先にする?
自分はもう引き取ったことになっている。もうあの連中と、関わり合うことはないのだ。それは彼らが進んで決めたことであって、普通の自分はほぼ巻き添えを食らった。それをもう一度自分から飛び込めと言うか。
ならと、遁走の備えにポケットを弄るとまた一つ探り当てる。これは、小石ではない。丸く平たくて硬い。コインだ。
――500円
ザクロが密かに入れたのだろうか。入れた記憶はないが、硬貨は、渡されたことは一度。早朝、あの乱闘の間隙に飲み物を買ってこいだのと言われていた物だ。その硬貨は、当時正規非ざる用途にしてしまったのだが。
――それで何か買えと?
彼らしい。飄々と言うには、間抜けている。人への甘やかしを徹底するくせに、だ。
彼は諸問題を公にはしようとしない。致命的に、甘いのだ。ずっと抱き締め続けて全身の切り傷を厭わない程、甘すぎる。
『アイツが戻ってくるまで、生きたくないのに生きなければならねえの』
心像。
穴空きに食われていたはずの記憶が、復元されかけているらしい。だがそれ以外は、未だだ。生憎どんな人物がそう言っているかもだが、既知が補完してくれている。
既知は、彼もまた手配師の一人だと言う。その男は厳しさと慎重さを含めて極々有り触れた普通の人間だ。
今になって思い出すは、これと繋がっている。どこかで言った、何かの与太話だが、ザクロと似る。長生きする人間らしからぬ、甘さだった。
――行くしかないか
そうこうしている内にひとり、後ろから直進してこちらに向かっている。もうやるべきことは始まっている。
暇はない。自分が帰れるか逃げるかを逡巡する時間は――
「えっ何これ」
駿逸、前へと――男の首が、歪み――。
直線のひと蹴りから骨に変わった草は千切られる。そうして、断たれる。水気のしない頭部は、ゴムボールと似ている。だが弾力はない、音も立てずに地へ、アスファルトへ。
流石に首が落ちることは想定していなかったのか、蹴り上げた張本人は目を見開いて見やる。ただそれも一瞬。危害を被られないと知るが早いか、すぐに悲鳴一つせず男の躰を覗き込んだ。生い茂んとする這蔦が気になるか、手の代わりに足でつつく。
「草には触らない方が良い」
女性社員が、横目でこちらを覗く。睨んではいない。幼さよりも若い、生気だけはある黒の瞳が空雲を亀裂として網膜に焼く。
「柘榴君と同じこと言うね、そうするけど」
「……驚かないね」
「ツリーマンの強い系だよね?」
事も無げに。女性社員は平然と嘘と演技が出来るが、この口振りだと魔法を知らないらしい。ここで嘘をついてしらばっくれる益もない。なら彼女は事の問題に気付いていないだけということか。これでも。
ごろんと、黒いフラットシューズを強めに蹴り上げ遺体を転がす。その拍子に腰周りに下げたホルスターを視認したが、既に覆われている。首から胴を切り離してもなお、目立つ出血はない。靴にすら、穢さない。ただ天に架かる黒い青空のみを映す。
――いや
それどころかだ。切り離された肉を養分としてか、急速に吸収を早めて発芽を進ませる。じっくり、食い破った皮膚にも根を張りおかして、人のかたちを喰らう。軈てあの当たり障りのない男の顔を思い出せなくなる。その頃には発芽を終えた。
その間約40秒、雑音。未だ食い尽くせない衣服を強引に裂く音だけがする。女性社員も異変は知ったか、それ以上男の体には触れない。
「一体何なの」
「26の会社員」
そういう話じゃないと言いかけたが、黙った。本当は細部まで詰りはしたい。何故生えても人に向けて、頚椎への蹴りをストレートにブチこんだか。一応草でも人殺ししたにも関わらずに平然とするか。その機動力と危機管理能力はどこで培ってしまったか。
「死んじゃったんだけど」
「非合意の人体の侵入はやっつけて良いって三輪さんが」
そして企業は、何故この人間を正社員として迎えたか。セヤ・サピエンスを管理する限りは零細かペーパーかの胡散臭い団体になる。そう相場は決まってまず人間性として、支障のない人間を人選するはずだが。
「……アンタは俺と同じなの?」
「ないないないない、運動神経が良いだけ」
閉口。セヤと同類なだけある。世の中には、頭に阿片を飼っている者が少なからずいる。彼女はその一人として、それ以上の理解は欲さなかった。欲っせるものか。ザクロが、思いやられる。産道が入れ替わってもさして人生に変わりない大きな子供、その相手しているらしい。
――それに
既に女性社員はこちらを向いていない。他方だ。不器用に駆け寄る青年を足で制し、がらんどうの後首にヒールを叩込む。殴打。指一つも動かなくなるまで、神経ごと押し潰す。
音という音で威勢を引き出す暇も与えず、躙る。目は、化物を見る目には何も生のみしか宿らされていない。憐れみ、探求もなければ優越も。唯一は、手持ち無沙汰の黒い革手袋を嵌める手が、退屈と物語るのみか。
瀬谷、松山とは似ているが、こっちは安堵がある。いつもの自分そのもの、自分があの職場で働くイメージが容易な程。今は、そこまで介入するか分からないが。
「瀬谷君とこ行ってみて、私これしかないし」
これと、片手で懐から尖った物体二つを取り出して見せる。それが10cmを超えるヒールだと分かるまで、数秒ほどかかった。
だから殺し屋のお前にとって気の利いた武器はない。あってはならないのだが、そういった意図だろう。
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