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「尻は……三輪さんは異常ないって言っていた」
「先に言ってよ」
「許したってなあ、あの子は父親がジャーナリストでちと危うい世界に踏み込んだことで5才で父親と母親を暗殺で亡くしてんそらあもういたわしゅういたわしゅう」
「それは関係ないじゃない、変えて」
「……かつてのパートナーがゲイで臀部に爆弾を仕込まれた男娼におっ死んだっつう」
「それ、私はカタギだから余計しつこく調べてるわけ」
「……お耳閉じちゃおうな、なっ」
聞いてしまったことに、耳を塞がれても意味はあるか。塞がれて聴覚が模糊になるが、視界の二人の声はそれでも筒抜けだった。スラング、のような言葉を女性社員が一つ、それに続けてセヤが一つ二つと。俗語ほどここを会得はしていないが、おおよそは察しが付いた。その大部分は彼らの教養はいかほどかであって、知識とは程遠いものだが。
やがて二人の挙動は収まって、聞き取りが難しくなるまで口の動きが淡白としている。が、耳元の手は一段と強く押し付けられる。無音。余程に、聞くに耐えない話が展開されているらしい。余裕気に、落ち着いているのに。雨上がりのナメクジに塩振りながら眺める穏やかさにもかかわらず。
なにも、ない。
視界に入っている女は、セヤの話に頷いては聞くに絶えられた言葉を話す。時折手にしていたらしいメモに書き込む。そうして時たま自分の方に目を向けては様子を伺っている。その目は観察か監視、それだろう。好奇心の爛々さはない、恂慄も、然り。何も聞かれない様子だとしたら、もうセヤからはほとんど聞いていたらしい。
――
それはどこからどこまでの情報だろうか。魔法、魔術とやらのことにはあまり精通していないに見える。それでは、自分が出自不明の人間の海洋動物が好きという、その程度のことか。見取れる外見と筋肉量、
脚部の傷が熟れだして痛痒を増す。抱え込まれた手を伸ばそうとしたが、何かが動きを阻害した。暖かくてやわらかい。自在に動きながら、ふさふさした細長の物。
尻尾、ザクロが生やしていたらしいそれだ。本人の忠告代わりに足の周りで動いては素足を撫でるのだから、ひとつかみした。ひとりでに動いてくれるそれは、行き場のないもどかしさを散らす。
「おーい」
つと、前方に刃が、前触れもなく。
ただ床と平行に、綺麗に飛ばされるせいか起動は読み取れやすい。銀の軌道、降下して曲線を描く前に指で挟む。その衝撃、反動を骨に響かせながら、停める。
次いでまたも投擲。継がれた擲ちは、今度は線ではなく一つの物として投げられる。小さな一欠片の、鈍色。石ころだろうか。手で掴む、ということは考えない。グーはパーで勝つのは良識であって、石は紙を殴り殺すが常識の世界で生きていた。
どこかでその思惟があるからだ。身に着けた、生粋か習慣のような癖。だから石には、刃物で砕く。自分にはナイフがある。ある種の指揮棒、鞭によって容易に払い落とせる。その
――いや
後ろにはザクロがいる。真後ろと、両腕の左右。前に飛ばすとしても、ザクロが世話を焼いていたいセヤがいる。他には、ザクロの私物であろう物。いずれか何かは、自分が弾き飛ばすことで傷付けてしまう。
嘆息して、使う。柄を。
刃の方を手にして、柄で石に触れる。弾くことはしない、じっくり、じっくりと上へ押しやらんと力を加える。せっかちに手早くしてはならない。けれど一撃、石の表面の原子を擦り潰す。その気概、確実性を以って上へと柄と共に押しやる。
そうして、石は飛翔する。その間に女性社員の顔が見えた。過ちを正さない顔、悔いもなければ満たしさえない。好奇、よりも好機を追うか、眼球は微かに石を捉え刃を映す。見つめている、虹彩に映る刃物よりも鋭利に。答えと、ナイフを正規に持ち替えして彼女の方へ投げ返した。
「まー、まあまあ」
むしろ、それ以上に語るまでもないらしい。飛ばされていたそれは細指を軸にして何時の間にか回っている。掬い上げたか、擲つ際に指だけで一旦動きを止めさせ、その後自在に人差し指の上で遊んでいた。ペン回しの要領、さも暇潰しとくるくる回したくった。
「なに」
「見た目可愛いし、依存性とかあったら鈍くなりそうって思ったけど、そうでもないか」
「いじめちゃ駄目言うたろ」
「むしろいじめられてるの私かな、こんな子隠しちゃ社会的にボコボコにされるし」
「ぼこぼこは嫌や」
「大丈夫、最悪べっこべこのべっきべきのぐっちゃぐちゃ」
聞くや否や、力強く抱き締めるザクロにつられて後ろへ引き下がられた。丁度ソファの端。ザクロの背と一層密着して、肩に顎を乗せられて唸る。加えて体に巻いた尻尾も強くされる。助ける、ということには期待はしていない。ザクロもまた冗談半分で言う男とは知っているが、白々しさはなかった。余程か、女性社員に対しての敵意が強い。それが他人のはずの自分への庇護欲なのだとしたら、隙が多い男なのだが。
記憶は消されているが、「バレーナ」という人間性はある程度「勘」として保管されている。センスと同じ過度な信頼は持てないが、ただ言えることは女性社員の既視感だ。視線、彼女は口調と性格こそは疲れる程には快活だ。だが、瞳の奥が揺らいでいない。捕えている、標準を、定めている。
ただえさえザクロを連れ回すセヤという男の知り合いだ、人格面は割り切ろう。だがだ、その目を自分は知り、それが蔓延した世界で生きていた。
――自分は
その目を、使って、人殺しを――等と、そう考えても今更罪悪は沸かないのだが、デジャヴだ。そして自分は少しずつ帰るべき場所に迎えつつある。それをよく感じている。
「言葉は喋れるみたいだし、元の環境が良さそうだしなあ。ここまで身を隠せるなら親も親で問題だろうけど」
「探さないのがおかしいって?」
「まあ、そう。考えられることは抗争で解体とか……身内とか生きてたら早く身柄渡しちゃいたいね」
自分は消えていなくなっても構わないが、それまで帰れる世界は用意されている。曲がりなりにも、自分は一般人だからだ。どんな職業であれ、人を殺したであれ。そこには哀愁も感傷も抱かない。終わってしまったと知るだけ。
――ただ
それでもまだ、埋まらない何かがある。それが記憶か、何かは分からない。分かる程の賢さはないかもしれない、分かれるほどの利口さも。
当てもない答えを探す。その怠さにひとり、狐の尾を触れながら時間を潰した。
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